「あなたの犬にしてください」
しゃ、しゃ、しゃ、と乾いた音を立てて書類が捌かれ、ランク別の山に振り分けられてゆく。手裏剣を投げる時のような無駄のない正確な手つきでイルカは依頼人から持ち込まれた依頼書を机の上の目標地点に投げていく。
事務仕事も長い。
人差し指の内側の紙の端の当たる部分は何度も切れて、今では皮膚が硬くなり気づかないうちに書類に血を落とすこともなくなった。
振り分けた書類を一山ずつ両手で束ね、机の上で四方を揃えると千枚通しで穴を開け、表紙をつけて紐で綴じた。それを持ってイルカは書類保管室から任務受付所へ向かう。
いつも通りの、日課といってもよいような仕事だ。
受付所の机には既に五代目が座っていた。イルカは「おはようございます」と彼女と、既に机に着いていた同僚達に頭を下げて各自に書類を配った。昨日の夕に受け付けて翌日扱いになった依頼書だ。
窓際に置かれた机の裏から彼女の隣の席に着いた。五代目・綱手姫の亜麻色の髪を二つに分けて垂らした背中はすらりと細く、剛力で知られた忍とは思えない。
背にした窓から日が差して、朝の空気に冷やされた体に暖かい。
この一週間ほどで朝晩の冷え込みが厳しくなった。今朝、出掛けに首筋の辺りからひやっとしたものを感じて、今年初めてイルカはマフラーと手袋を出した。
もう冬なのだ。
ナルトが里を立ったのは秋だった。それなりに時間が経過しているのだ。寒さに耐性をつけるのも修行のうちだが、風邪などひいていないだろうかと心配だ。ナルトの着ている服は襟元がふかふかしているが襟ぐりは大きくて寒そうなのだ。
ちゃんとマフラー持って行ったかな。でなければ途中で買うという意識があの子にあっただろうか。自来也がそういうことに気を向けてくれる人物かどうか、イルカは知らない。
かーん、かーんと鐘の音が響き、始業の時刻が来たことを告げる。先月、受付に配属されたばかりの若い中忍が席を立ち、待合室のドアを開いた。ドアの向こうには既に依頼人達が列を作っていた。VIP扱いの大名やその近縁者、富豪以外は皆、薄荷色の壁の待合室で受付が始まるのを待たされるのだ。何十里も離れた土地から木の葉の忍を頼ってやって来た依頼人達を見るとイルカは時々、胸が詰まるような気持ちがする。こんな寒い朝などは殊更に。
一般人に憧れすぎだ、とよく窘められた。
だが、だからおまえを受付に配属したのだとも言われた。以前まで受付でイルカの隣に腰掛けていた年老いた里長に。
依頼の受け付けが始まると、任務を請け負う忍達も姿を現す。依頼人に話を聞き、作成した依頼書に五代目が受理の判を押すと、ランクに見合った階級の忍の許へと書類は回される。急ぎの任務でなければファイルに綴られ、あるいはタイミング良く条件に合った忍がいればその場で任務が任される。
始業から二時間ほどが一番忙しい。依頼人も忍も一番多く出入りする。それから徐々に人が減り、昼には依頼人達も忍達も昼飯を食うために部屋を出て行く。
イルカ達受付係の者も昼飯のために当番の一人を残して受付を立つ。午後から別の任務に就く者もおり一時、受付所は閑散とする。
イルカは以前は三代目とよく本部の食堂で一緒に昼飯を食べていたが、火影が代替わりしてからは同じ中忍の同僚とか、一人で食事をすることが多くなった。
五代目の許には彼女の付き人が、彼女自身に任務の入っていない日は重箱を届けてくる。そうして受付の奥の控え室で女二人、日当たりのいいテーブルに陣取ってのんびりと栄養のありそうな小綺麗な弁当をつつくのだ。
甲斐甲斐しくお茶を煎れ、皿におかずを取り分けて五代目に手渡す黒髪の特別上忍は、猫のような大きな目が可愛らしく、有能な医療忍である上に世話好きときて、今、里でもっとも結婚したい女性ナンバーワンと噂されている。
美女二人が仲睦まじく弁当を広げている様は心和む光景で、同じく控え室で弁当を食べている男連中の密かな心の潤いとなっていた。
イルカも、シズネに世話を焼かれながら、帯に挟んだ小型のラジオから伸びるイヤホンを片耳にさして上の空で箸を口に運ぶ五代目の様子が可笑しくて、ついそちらを見てしまう。
また競馬ですか?もういい加減にして下さいよ。綱手様、どうせ当たらないんだし、当たったら当たったで良くないことが起こるんですから。
そんな小言を、うん、うん、と聞き流して綱手は本日のレースの実況中継に夢中の様子だ。
あんな風に茶を煎れてやったり、業務の効率化云々と意見をしたり、それを聞いているのかいないのか分からない様子で、うむ、うむ、と相槌をうち、そんな事をするのは自分の役目だったなと思い出す。三代目が存命だった頃の話だ。
五代目の纏う炎をモチーフとした着物の柄、それを目にする度に思い出さずにはいられない。
昼飯が終わるとイルカ達は弁当がらを片づけて、また受付に戻った。
アカデミーはまだ閉鎖された状況でイルカは受付業務と任務の掛け持ちで日々を過ごしていた。
再び受け付け机でイルカの横に座った綱手が、ふと気になったように尋ねてきた。
「昨日、アカデミー生の家を回ってきたと言っていたな」
「はい」
イルカは顔を上げて五代目を見た。昨日の午後、手の空いた教師仲間数人と子供達を家庭訪問してきたのだ。先の木の葉崩しで家を失った子や、両親、身内が怪我をしたり亡くなった子供もいる。避難所や親戚の家に身を寄せている子供達を手分けして一人一人訪ねて回った。
「幸いアカデミーの子供達は避難経路から脱出できたので怪我はなかったのですが、精神的に参っている子はかなりいました」
基本的には忍はどんな状況でのどんな要求にも応えられるように育てられる。そのための精神訓練プログラムもあるが、まだ幼い子供達は状況の激変に耐えうるだけの素地ができていない。復興が遅れれば遅れるだけ子供達の心も荒むだろう。長期的に掛かる負荷は知らないうちに大人達の精神も蝕むだろう事は予想できた。
十二年前のあの厄災の後のように。
綱手が里に帰ってきてくれて本当に良かったとイルカは思う。
「火影」という精神的支柱を欠いたままではきっと誰も立ち直れはしなかっただろう。
綱手があの炎を染め抜いた羽織を纏い、皆の前に立った時の人々の顔は忘れがたい。この里では「火影」は単に里を統べるだけの存在にとどまらない。その人のためにすべてを捧げて、命を差し出して、そうすることがこの里の人々を、自分の大切な人々を守り生かすことだと信じられる、そんな存在なのだ。
「子供達もその親たちも、五代目の就任を心から喜んでいましたよ。五代目がしっかりと立っていてくれさえすればこの里は立ち直れます」
信じられるものがあれば大丈夫なのです、とイルカは言った。
綱手は秋の木の実のような赤みを帯びた茶色の瞳でじっとイルカの目を覗き込んでいた。虹彩が光を受けて明るく光る様なども、傷のないつやつやしたどんぐりの粒のようだとイルカは思った。イルカよりもずっと年嵩であるのに時折、少女のように見える瞳だ。
「−−−でもイルカ、おまえはまだ一度も私を”火影”とは呼ばないね」
綱手が溜息と一緒に吐き出した言葉にイルカは背筋に氷柱を突き立てられたような気持ちになった。
真っ青になったイルカに、言った綱手の方が慌てたようだった。素早く周囲を見回して、まだ人の少ない受付所で他に聞いていた者がいないのを確認すると
「すまない。今のはなかったことにしてくれ」
と低く言った。
イルカは凍りついた顔をひきつらせながら、小さく頷くのがやっとだった。
里長への忠誠を疑われたのだ。
言葉の意味が実感を持って、ぞわりと背筋が総毛立った。
今の子供達には分からない感覚かもしれない。戦国の空気を引き摺っていた時代に生まれ、九尾狐の厄災後の復興期に育ったイルカ達は里長の絶対性を徹底して教育された。従うことを本能のように叩き込まれた。
新しい里長、五代目、イルカの目の前にいる女性がイルカの従う相手だ。
どんなに気安く接されても、相手がこの里の最高権力者であることを忘れてはいけない。
言わなくてはならない。今、この場で。一言でいい。それで危機を免れることができる。さっさと腹を見せて服従を示すのだ。疑念を抱かせる前に早く。
「火−−」
イルカが声を絞り出す前に、綱手は身振りでそれを止めた。痛々しいものを見るようにイルカの顔を見て眉根を寄せて呟いた。
「いいんだよ」
囁くように落とされた声は優しく、イルカはひどく申し訳ない気持ちになった。