ぞくっと寒気が背中を駆け上ってきた。
「なんだよ、そんな顔して。反応悪いぞ」
 どん、と肘で突かれて「ああ、」とイルカは呆けた答えを返した。三人の同僚が不審そうにイルカを見た。イルカはベストの上から鳩尾辺りを押さえた。
 ビールがひどく苦い。頼んだ煮魚も生臭さが鼻についた。いつもは美味いと思って食べている定食なのに、急に味がしなくなった。
「おまえ、顔色悪いぞ」
 同僚に言われてイルカは眉を顰めた。
「−−−気持ち悪い…」
 イルカは席を立って店の手洗いへ駆け込んだ。
 吐いて便器の前にしゃがみ込んでいるところへ同僚の一人がやってきた。「大丈夫か?」と声を掛けられて頷いたが、立ち上がるとまた吐きそうだと思った。
「全部吐いた方がいい」
 同僚がイルカの背をさすってくれた。ぐるぐると胃の中が逆流して、昼に食べた物も出てきた。出てくるのが黄色い胃液だけになると少し楽になった。
 洗面台で口を漱いで、同僚に付き添われて席に戻り、自分の支払い分を卓の上に置いて体調が悪いから帰ると告げると、皆、そのほうがいいと言った。
 手洗いまで様子を見に来てくれた同僚が送ってくれると一緒に店を出てくれた。大丈夫だと言ったが、結局、彼の腕にしがみつくようにして家まで帰った。
 引き摺られるようにアパートの階段を登り、玄関の鍵をもたもた探していると、ドアが内側から開いた。
 イルカを支える同僚が、はっと体を緊張させるのが掴まれた腕から伝わってきた。
 ああ。今日は来ていたんだ。
 ドアから覗いた白い顔の向こうに明るい自宅の居間が見えた。
 イルカの耳のすぐ横で同僚が「飯を食っていたら−−−」と事情を説明している声が聞こえてきた。話の途中なのに二本の腕が伸びてきてイルカの体をしがみついている同僚の体から引きはがした。イルカはそのまま荷物のようにカカシの胸に抱え込まれた。同僚と密着していて暖まっていた体がひんやりした服地に押しつけられてイルカは身震いした。
 寒い。
「分かった。後は俺が看ますから」
 がたがた震えだしたイルカを抱え直してカカシは部屋のうちに引き込んだ。
「では、私はこれで」
 開いたドアから同僚がきちっと頭を下げた。
「ありがとね」
 カカシが言うと、ぱたんとドアが閉じた。
 明日、なんと説明しようか。受付業務をしているくらいだから口の堅い男だが、まるで自分の家のように平然と出てきたカカシを訝しんでいるだろう。
 しかし今は考えるのも億劫だ。とにかく横になりたい。
「大丈夫ですか?」
 カカシの心配そうな声にイルカは首を横に振った。半ば抱えられるようにして奥の間に連れて行かれ、ベッドの上に横たえられた。ベストを脱がされ、布団を掛けて貰うと布団の冷たさに身を縮める。早く温まればいいのにと思って体を揺すった。
 カカシの手が顔に触れてきた。細くて長い指だ。いつもは心地よく感じる指先なのに、今は皮膚の表面が過敏になっていてぴりぴり痛いような気がした。
「熱がありますね」
 カカシが静かに言った。
 内臓が引き絞られるように痛むのはそのせいか。
 こんな人手の足りない時期に油断した。明日までに熱が下がるだろうか。
 カカシが立ち上がって居間へ出て行った。襖の向こうからがちゃがちゃと何かを掻き回す音がする。しばらくすると戻ってきて体温計を銜えさせられた。
 時間を計ってカカシが体温計を取り上げる。
「三十七度四分。そんなに高くはないけど、吐いたって?」
 イルカはこくりと頷いた。
「急に気持ちが悪くなって」
 今朝方、妙に寒いと感じた。あれが前兆だったのだろう。
「これから熱が上がるかもしれませんね」
 イルカの額に掌を宛ててカカシは考えているようだ。冷静な口調が今は安心する。
「薬飲んで寝ていれば治ります」
 イルカは居間の棚に並んでいる常備薬から風邪薬を取ってきてくれるように頼んだ。カカシは言われたとおり、薬の瓶とコップに水を汲んで持ってきてくれた。
 少し体を起こしてコップを持たせてもらい、丸薬を二つ飲み込んだ。
「…すみません。なんのお構いも出来ませんで」
「なに言ってるんですか。病人なんだから変な気を遣わないで下さいよ」
 カカシはイルカを寝かしつけるとそっとイルカの頭を撫でた。いつもは器用に忍具を扱う手がなんだかぎこちない。この人はそんな風に他人に触るのが苦手なのだ。どう扱っていいのか分からないみたいだ。それでもイルカに触れようとしてくれる。暫くカカシは心配そうにイルカの顔を見ていたが、イルカが「眠ります」と言うと音も立てずに寝室を出て行った。
 イルカは髪を縛った紐を引っ張って抜き取ると、布団に潜り込んだ。



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