胃がぐるぐるする。
 定食屋で胃の中身はあらかた吐き出してきたというのに、さっき薬を飲んだ時の水が胃の中で逆巻いているような感じだ。
 腹から体全体を裏返しにされそうな感覚にイルカは目を開けた。
 気持ちが悪い。
 掛け布団から顔を出して居間へと続く襖を眺めた。隙間から暖色光が漏れ、ひっそりと人の気配がする。カカシがいるのだ。
 カカシを呼ぼうかと思ったが、それよりも内臓からの痛みが強烈でイルカは自力で布団を抜け出し、よたよたと襖を開けた。
 居間の卓袱台の前に座っていたカカシがさっと顔を上げ、イルカを見た。
「大丈夫ですか?」
 答える間も惜しんでイルカはトイレに直行した。
 しゃがみ込んで覆い被さるように便器に顔を向けると、ぐるるるると喉が鳴って水っぽい吐瀉物が出てきた。
 薄黄色い液体と一緒にさっき飲んだ風邪薬がころころと陶器製の便器の中に転がり出た。
「大丈夫?」
 一頻り、胃の中の物を吐き出してイルカは膝に手をついて息を継いだ。生理的な涙で視界が曇った。水っぽくなった鼻を啜り上げて口で息をする。少し落ち着いてきたかと思ったら、また鳩尾から迫り上がってくる物がある。聞くに堪えないうめき声と一緒にイルカはまた吐いた。涙がぼろぼろ零れてくる。
 生理的な涙に引き摺られたのか、不安定な心が体の不調を招いたのか、イルカは涙が止まらなくなった。
 イルカは知らなかったのだ。
 三代目がたった一人で敵と対峙していたなどと。
 四方を結界に囲まれて一人で戦っていたなんて知らずに、アカデミーの生徒達を避難路に誘導していた。こちらにまで敵が侵入するような事になったらイルカや他の教師達も戦う覚悟はしていた。火影から預かった大事な里の子供達だ。彼らを守るのがイルカが火影に与えられた役目なのだ。
 誰も結界に近づくことは出来なかったという。並み居る上忍達も暗部も。彼らが出来なかったことがイルカに出来たとは思わない。
 ただ、亡くなる時は穏やかに皆に囲まれて−−−そんな風に思っていたのだ。
 封印術の憑代となって亡くなるなんて思いもしなかった。
 忍らしい立派な最期だったと皆は言った。
 火影らしく里を守る盾となって亡くなった。
 誰もがそんな風に言うことで納得し整理していたはずだ。イルカもそうだ。いずれはこんな時が来るかもしれないと分かっていたのだ。
 なのにそれが急に理不尽で耐え難いことのように思えた。体中が悲鳴をあげているような気がした。
 せめてお側にいたかった。年老いた背中にすべてを負って一人で逝ってしまわれた。  結界の中には誰も寄せ付けず、大蛇丸と−−−悪心がまたこみ上げてくる。嗚咽を漏らしながらイルカは吐いた。
 嫌悪感。
 かつて両親を殺した者に対して覚えたのと同じ感覚だった。
 どうして自分の大切な者に、おまえなどが手を掛けるのか。
 強烈な憎しみだった。
「…っぐぅ……」
 腹の底から絞り出されるようにして苦い、どろっとした物が溢れた。冗談みたいな綺麗なオレンジ色をしたゲル状の塊、胆汁だ。
「イルカ先生、大丈夫?泣いてるの?」
 カカシが驚いた様子でイルカの肩に手を掛けた。
 イルカは目をきつく閉じた。
 今まで飲み込んできた事が急に堪えられなくなったのはこの人のせいだと思う。
 かつての両親のように当たり前に傍にいて、一緒に食事をして一緒に眠る、そんな存在がずっと欲しかった。だけど子供の頃のように今のままが続いていくとは信じられない。かといって今更、子供のように空想の世界に逃げ込むことも出来ない。
 カカシもいつか、自分の知らない場所で命を落とすのだろう。この人がイルカの掛け替えのない人だと知りもしない誰かの手に掛かって。
 自分達もそうやっていくつもの命を奪ってきた。
 無慈悲に、理不尽に、誰かの愛する相手を殺してきたのだ。
 命のやり取り、技を競い合ってこそ忍は忍たり得る。
 だったらせめて死ぬ時はこの人の傍がいい。
 この人の腕の中で死にたい。
 だけど、この人はそんなことを許してはくれないだろう。
 イルカにもカカシにもそれぞれ果たさなければならない役目がある。私人としてこうして寄り添っていようとも、里の組織の中では別々の場所で別々の役割を担っている。
「カカシさん」
 小さく呼んだイルカの声にカカシは慌てた様子ですぐにイルカの口元に耳を寄せてきた。
 −−−もしも俺と里と…
 言葉には出来なかった。
 イルカはふらふらと台所に行き、流しで口を漱いだ。吐いても吐いても内臓の気持ち悪さは消えない。鳩尾と脇腹が痙攣するように痛む。
 一旦、布団に戻ったがすぐに吐き気が込み上げてきて、またトイレに行った。
 もう出せる物などないのにえずきが止まず、さらさらした唾液ばかりが便器に落ちた。
「どうしちゃったんですか?」
「どうせ……」
「イルカ先生?」
 常とは違う様子にカカシの声がおろおろとしたものに変化した。額に手を宛てられた。それからもう一度、今度は額同士で熱を測ると、カカシは慌ただしく個室から出て行った。
 奥の寝室から戻ってきたカカシは綿入れをイルカに着せ掛けた。
「病院に行きましょう。ちょっとの間、辛いかもしれないけど我慢して」
 カカシは玄関の三和土に降りて履き物を履くと、後ろに立たせたイルカの綿入れの前をしっかり合わせてから帯紐をイルカの腰に回し、身を屈めてイルカを背に負った。落ちないように自分の腰にも帯紐を巻き付け縛ると、カカシは玄関ドアを飛び出した。
 木の葉の夜の空には木枯らしが襲来していた。どうどうと吹きつける風の中、カカシは塀の上に足を掛け、連なる家々の屋根を飛んだ。空に張り巡らされた電線が落下するように泣いている。イルカも一緒に落ちていきそうな気がした。夢の中のように流れ去る夜の景色を眺めながら、イルカはカカシの肩にしがみついていた。



胆汁はカンパリの味がする。