「緑、芽吹く」
「イルカ先生は“上忍”がお好きなんですね」
カカシの放った一言で、バリッと空気が強張った。
本部棟の廊下の休憩スペースで、自販機のコーヒーを飲みながら話していたヤマトとイルカに、通りかかったカカシが冷ややかな一瞥をくれてのたまうた言葉である。
それまで和やかな微笑みを浮かべていたイルカの顔がムッとしたものに変わる。
「どういう意味ですか?」
押し殺したような声でイルカが低く言う。
「別に。俺の次はこいつかと思って」
ポケットに手を突っ込んだまま猫背でカカシが放り出す口調で言う。イルカの顔が真っ赤になった。
「変な言いがかりはよして下さい。俺はただナルト達の様子を聞いていただけです」
「だから、小隊の事はもう我々に任せておいてください。それに昨日だってナルトとラーメン食ったんでしょ」
「昨日は餃子です」
「なんで中華系ばっかりなんですか、あんた達は」
カカシの言いがかりはもはや意味不明だ。
ヤマトはそんな二人を静観している。
カカシに「あの人には近づくな」と釘を刺されたにも関わらず、ヤマトは受付で会うイルカにちょくちょく話しかけた。たまにはこうやって休憩時間に立ち話などもする。
暗部の人間が影で“スマイリーフェイス”と呼ぶ受付係達の中でもイルカの笑顔はとびきりだった。何が違うのかよくは分からないのだが、ほっこりする笑い顔なのだ。
サイに「あの人を手本にするといいよ」と言ったら、受付に行くたびにイルカをじっと観察するようになって、ナルトに気味悪がられていた。
イルカはサイにもにこにこと話しかけた。アカデミーの卒業生でもないのに、他の子供達と同じように接している。サイはいつも笑顔のまま固まってしまう。
「ああいう人は初めてで、どうしたらいいのか分からないんです」とヤマトにこっそりと打ち明けてきた。
微笑ましい。
くせ者揃いの班員達の子供らしい一面に触れて、ヤマトはなかなか面白いと思う。
しかし、カカシは気にくわないようだ。
最初はカカシはイルカの事が嫌いなのかと思った。
誰からも好かれる気の良い内勤の中忍。
そういう存在に反感を持つ忍も多いだろうという気がする。カカシはあまり感情的な振る舞いをする方ではないが、気に入らない相手にはとことん素っ気ない。
だが、イルカに対するカカシの態度は素っ気ないという感じじゃない。
なにかというと絡んではイルカを怒らせる。イルカが真っ赤になって憤りで目を潤ませるまでやめない。
だんだん分かってきた。
小さい子が好きな子をいじめるのによく似ている。
自分とイルカが親しげにしているのが面白くないらしい。
分かってもヤマトはイルカに話しかけるのをやめなかった。
強くてきれいでカッコイイ先輩。彼をイルカ側に立って眺めると、今まで見えなかった事が色々と見えてくる気がした。
それに、イルカと一緒にいるのは心地よかった。
サイ同様、ヤマトにとってもイルカは初めて遭遇した人種だった。
暗部で出会う忍達とは違う。医療忍みたいな特殊な部類でもない。だが、一般人でもない。イルカや他の受付にいる中忍達も任務で前線に立つ事もあるという。更にアカデミーの教師もしている。受付では依頼人にも、任務を受けに来る忍にも笑顔を絶やさない。どういう精神構造でそれらを両立することが出来ているのだろう。
“スマイリーフェイス”
そんな風に呼ぶ者達の気持ちが理解出来る気がした。
曰く、「あいつらは笑顔で殺す」んだそうだ。
先輩も殺されちゃったクチなんだろうなあ。
「こいつは俺の後輩で、俺の後任なんだから、あなたが関わるような相手じゃないんです」
よく分からない理屈で人の行動を制限しようとしているカカシの子供っぽい口調。まるでガキ大将だ。さしずめ自分はカカシの子分と言ったところか。
階級や所属を盾にしたような言い様に、イルカは言葉を詰まらせてしまう。悔しそうに唇を噛みしめている。
「行くよ、テンゾウ」
言うだけ言って、引き下がれなくなったカカシが自分までをこの場から引き剥がそうとする。この人はある面において救いようがないほど不器用だ、ということがイルカと関わるようになってから分かった。
「ボクはこれからイルカさんと約束してるんです」
しかし、ヤマトもカカシの巻き添えでイルカとの距離を開いてしまうつもりはない。先輩にはさんざんお世話になった身だが、下手を打ったらいつでも足下を掬われるということを教えてくれたのも先輩だ。
「ね、イルカさん」
驚いたように目を見開いているイルカに言い聞かせるようににこりと微笑んでみせる。「おまえは目が笑わない」と言われる笑顔だ。有無を言わせない。イルカは目を見開いたまま、こくりと頷いた。
カカシが不機嫌を露わに右目を眇めた。
ぞくっと背中に走った寒気にヤマトは身を竦めたが、笑顔は崩さなかった。
先輩はイルカさんに甘えすぎなんですよ。
心の中でこっそり言ってやった。
そんな経緯だったので、強引に約束を取り付けた形にして、終業後に一緒に暖簾をくぐった居酒屋のカウンターでイルカが
「俺、以前、カカシさんに振られたんです」
と、小さく吐き出した時には心底驚いた。
「あー、そうだったんですか?」
動揺を声に出さないように返したが、内心はハリケーンに見舞われた波の国のマングローブ林のようにざわめきたった。
「おかしいですよね。俺もあの人も男なのに…」
すん、と鼻を鳴らしてイルカは笑った。
ヤマトは何も答えられない。
確かにイルカは男らしい男の部類だろう。ちょっと愛嬌があって、笑顔が可愛く見える時もあるが、女には見えない。ヤマトもイルカを気に入ってはいるが、そんな目で見た事はない。カカシも随分、この人に執着を見せているが、そういった感情からなのかは正直、分からない。
「カカシさんにも、あんた、おかしいんじゃない?って言われました」
あー、言いそうだ、先輩なら。
でも、俯いて今にも目の縁から零れそうなほど涙の粒を膨らませているこんな人に、そんなむごい事を言う事はないのに、と思ってしまう。
「別に、それならそれで、いいんです。俺だって、カカシさんが俺とどうこうなってくれるなんて思ってません。でも…今日みたいに…」
そこでぐっと口を引き結んでから、イルカはがばっと上体を起こした。
「だからって、あんな、鬼の首を取ったみたいに、いつまでも人をからかう材料にしなくったっていいじゃないですか!俺だって、勇気を振り絞って告白したんだ!」
最低だ!ちくしょう!
イルカは大声で吐き捨てた。いつもは快活に笑っているイルカの、目まぐるしく変わる表情にヤマトは圧倒される。
ああ、だからか。
ヤマトは納得がいった。
カカシが甘えた態度をとるのは、イルカの好意が自分にあることを知っているからだ。だけど、自分でもどう対処したらいいのか分からないのだろう。
イルカの事をカカシも好きだろう。
だけど、イルカは男だ。
ヤマトの知る限り、カカシが男を相手にした事はない。言い寄られて閉口している所は何度か見たが。
イルカの事をそんな意味では考えられない。でも他の奴に取られるのも我慢が出来ない。といったところか。
イルカはイルカで、中途半端に構ってくるカカシに苛立つけれど、思い切れずにいる。
カカシに何か言われるたびに真っ赤になって目を潤ませて、悔しそうに、悲しそうに俯く。
何をやっているんだ、あの人は。
今のままだったら、遠からず本当に嫌われてしまよ。
ボクだったら、こんな人を泣かせるくらいなら男である事にも目をつぶるけどなあ。どうせ、男も女も同じように扱う術は心得ている。
ヤマトは腕組みをして煤の溜まった飲み屋の天井を見上げ、うーんと唸った。