「ぐるぐるバースデイ」
「9月15日ってカカシさんの誕生日でしたよね?」
「そうでしたっけ?」
カカシの恍けた返答にイルカはガクリと項垂れた。
「そうでしたっけって、ご自分の誕生日でしょうが」
つい行儀悪くかぼちゃの煮つけを摘んだままの箸をカカシに突きつけてしまった。イルカの家の寝室兼居間で卓袱台の斜向かいに座って夕飯を食べながらの会話である。
「んー、あんまり気にした事ないんで。どうせ仕事入ってますし」
「え、そうなんですか…?」
二週間先の日付に予定が入っているということは七班のではなくカカシ単独の任務だろう。
「今は上忍師の仕事を優先したいんですけど依頼人にごねられちゃって断れなかったらしいんですよ」
木の葉の上忍なら皆、技量に変わりはありませんといってはみたものの、やはり写輪眼のカカシという名前がつくと依頼主の安心感が違うらしい。
「まあ、火影様の知り合いらしいんで義理で出るようなもんです」
暗に、だからそれほど危険な任務ではないんですよとカカシはイルカに伝えてくる。カカシのそういう気遣いは嬉しいけれど、この人は嘘が上手だから信用も出来ない。
「そうですか」
イルカはただ、気をつけてくださいねと真剣な顔で言うだけだ。
はい、と答えてカカシは公魚の佃煮を摘んでご飯と一緒に口に放り込んだ。
「やっぱり末川屋の佃煮は美味いですね」
にこりと笑って言う。
イルカは気を取り直して言ってみた。
「誕生日に何か欲しいものありますか?」
「じゃこ山椒と鰯煮と塩昆布牛蒡の詰め合わせが欲しいなあ」
「は?」
「末川屋の三種詰め合わせセットですよ。お茶漬けにしても美味いんですよ」
「佃煮…ですか?」
そんなものいつでも食べてるのに。いや、末川屋の佃煮はちょっとお高いので気合が入ったときしか買わないけれど。
「それでいいんですか?」
「うん。それで暖かいご飯があったら幸せですねー」
本当に幸せそうにカカシは公魚をまた摘まんだ。
派手な経歴のわりに安上がりな男だ。そんなに好きだったのかとイルカは佃煮の皿をカカシの方へ寄せてやった。
肝心な事を聞き忘れた。
翌日、イルカはアカデミーの授業終了後、受付シフトに入る前の空き時間に上忍待機室に向かった。
9月15日、カカシの誕生日は任務が入っていると言っていたけれど、夜には体が空くのかもしれない、出来ればその日のうちにプレゼントを渡して一言「おめでとう」と言いたい。日をまたぐような任務だったり、帰りが深夜になるようなら仕方がないけれど、いつ頃帰れるのかくらいは聞いておきたい。
カカシはあまり誕生日にこだわっていないようだったが。まあ、イルカも自分の誕生日だったらこの歳になって祝う事もないかと思ったりはするけれども、そこはそれ、あれだ。惚れた相手の誕生日は特別だ。
本部の階段を昇っていくと丁度、隅の喫茶コーナーからカカシとアスマの声が聞こえてきた。
「なんだ、結局おまえが行くことになったのか?」
「ああ」
「そりゃあ残念だったな、折角の誕生日に」
「---------なんでおまえが俺の誕生日を気にするわけ?」
心底から怪訝そうな声でカカシが言ったのが聞こえてきてイルカは慌てた。数日前に受付所で「誕生日って何を貰ったら嬉しいもんですかね?」とアスマに尋ねたのはイルカだった。返答は簡潔。「本人に訊け」。カカシと一番親しそうだったからつい訊いてしまったのだが、そっけない返答と一緒に物珍しそうな視線を投げられて恥ずかしかった。一般論として訊いたつもりだったがバレバレだ。
「別に、年に一度のご馳走が戴けなくて残念だったなってゆってるだけだろ。イルカが何か用意してくれるんじゃないのか?」
出そびれたイルカは階段の下から二人の会話を聞きながらあわあわする。俺の名前は出さなくっていいですって!
「いんや。俺、その日は別の約束あるし」
「へえ?」
意外そうなアスマの声。イルカも同時に「え?」と口には出さずに固まった。
「夕方帰ってきて、夜は約束があるからその日はイルカ先生には会いにいけないな」
そうなんですか?
「そうなのか?」
イルカの心を代弁するようにアスマが訊く。
「それでいいのか?」
更に訊く。
「いいよ。俺、今のところ本命は別にいるから」
ズキンとこめかみから衝撃が走った。
カカシの口から発せられた言葉に心臓がどきどきと走り出す。
「そりゃあ…」
口ごもるアスマの声が遠くから聞こえるようだった。
「それに年に一回のご馳走より、毎日の普通の飯の方が俺にとっちゃあ大切だし」
カカシはいつもの暢気そうな口調で話している。特に変わったことを口にしたつもりもないらしい、平常どおりの口調で。
イルカは鼓動が早まると同時に耳がわんわんした。勝手に膝が震えてくる。
とても怖いものを目の辺りにした時みたいだ。
日常でもこんな状態になる事があるんだな、とイルカは頭の片隅で思った。
歪んで回る視界に呆然としながら、そういった場合のやり過ごし方をイルカは忍として叩き込まれてきたので無様に階段を踏み外す事もなく、しゃんと背筋を伸ばして階段を降り、渡り廊下を渡って受付所へ入った。
どこかがずっと痺れたままの気がしたけれど、いつもどおりの笑顔で受付所を訪れる人々に接した。と思う。
夜、持ち帰ったテストの採点をしようと卓袱台の前に座って、イルカは呆然とテスト用紙を眺めていた。
周囲に人がいた間はそちらに意識を向けることで誤魔化していた色々な思いが家に帰ってベストを脱ぎ座った途端にどっと押し寄せてきた。
あの人と自分ってなんだったんだろう。
カカシはあまり感情を見せない。
それでも二人だけの時は心から安らいだ表情を見せるから好意を持たれているのだと、そう信じ込んでいたけれど。
二股。
そんな言葉が頭を回る。
二番目。(三番目、四番目かも…)
浮気相手。(自分が)
遊び。
遊びの相手にあんなことや、そんなことまで…。
うわっと声をあげてイルカは頭を抱えた。
馬鹿だ、自分は。
あの人の特別になれたんだと思い込んで浮かれて、あの人の特別は他にいたのに。
酷い。虚仮にされてるのも知らずに喜んで。馬鹿だ。数時間前までの自分を抹消してやりたい。
突っ伏した頭の下でテスト用紙がくしゃくしゃになる。
イルカは鼻を啜って用紙を指で伸ばした。
子供達が一生懸命解いた答えをこんな風にしてしまって。情けなくなる。
しっかりしろ、こんな事くらいなんでもない。
そう言い聞かせても言い聞かせても、イルカの思考はカカシの事ばかりを手繰ってゆく。
つき合った相手は他にもいる。手酷い振られ方をしたことだってある。
でもカカシは特別だ。他の相手とは比べ物にならないくらい自分の中に食い込んでしまっている。同性なのにかまわないと思ってしまった。男相手にあんなこと…。
ちくしょう、悔しい。
「----------女、かな」
ぽつんとイルカは呟いた。
カカシの本命は女だろうか。
イチャパラが大好きなカカシは元々は女が好きなのだと思う。結構モテるという噂も聞いた。
男の自分なら関係を持っても後腐れがないと思ったのだろうか。
いつもふらりとイルカの家に立ち寄って、食事をしてイルカを抱いて眠って。本命とは別にそういう都合のいい別宅が欲しかったのだろうか。
恋人が長期任務に出ている間に浮気をするという話はよくある。カカシは時間が空けば殆どをイルカの家で過ごしていたから本命の相手は里外に出ているのかもしれない。
本命が帰ってくるまでの繋ぎかあ。
あーあ、馬鹿にされたもんだなあ、俺も。
ああ、もう絶対ぇ別れてやる!!
イルカは物凄い勢いでテストに丸をつけはじめた。
コツコツ、とドアを叩く音にイルカははっと顔を上げた。
窓の外は真っ暗だった。作業に没頭していてカーテンもひいていない。
コツコツ、とまたドアが鳴った。
こんな時間にそんな風にイルカの家のドアを叩くのはカカシしかいない。
部屋の電気はついている。イルカの気配は外へも伝わっているだろう。カカシはイルカの部屋の合鍵を持っているが、イルカが中にいる時に勝手に入ってきたりはしない。イルカがドアを開けるのを待っている。
まだ考えがまとまっていない。どんな顔をしてカカシに会えばいいのか、どんな言葉を言えばいいのか分からない。
コツコツ、とまたドアを叩いた後、
「イルカ先生?」
カカシの声が呼んだ。
その声に引き寄せられるようにイルカはのろのろと立ち上がると玄関のドアを開けた。
ドアの隙間から銀色の髪と白いカカシの顔が覗いた。
イルカの顔を見て嬉しそうににこりと目を細める。
「こんばんは」
「こんばんは…」
大きくドアを開け促すとカカシは玄関へ入ってきたが履物は脱ごうとせず、部屋の奥へ行こうとしたイルカの腕を取って引き止めた。
「明日の朝早くに出発する事になったので今日はこのまま帰ります。里を出る前にイルカ先生の顔だけ見ていこうと思って」
昼間あんな言葉を吐いた口がどうしてそんな柔らかな声をイルカに聞かせるのか。
くいくい、と腕を引っ張ってイルカを自分の正面に立たせるとカカシはイルカをぎゅっと抱き寄せて首もとに顔を埋めた。三和土との段差のせいでいつもは3センチ高いカカシの頭が少しだけイルカよりも低い位置にある。
カカシは細身だが服の中の胸板は広くて硬い筋肉に覆われている。イルカを抱きしめる腕も見た目よりもずっと逞しい。体温は低めだがこうしてくっつくと温かい。
この腕は自分のものではないのだ。
急に目の前がぼやけそうになってイルカはぐっと眉間に力を入れた。
カカシはイルカの首に顔を擦りつけてすう、と大きく息を吸い込んでいる。
イルカの匂いを嗅ぐと安心すると言うのだ、この憎たらしい男は。
失いたくない。
胸を突き上げられるようにそう思った。
この腕を放したくない。
たとえカカシの本当に大切な人間が自分でなくても。
イルカは垂らしたままだった両腕をそっとカカシの背に回した。確かめるように撫でてみた。ベストのゴツゴツした感触を掌に感じる。その奥からじんわりと伝わる体温も。
「どうしたの、先生?」
カカシが可笑しそうに見上げてくる。
「そんな顔しないでくださいよ」
イルカの額当てを外した額を手甲をはめたままのカカシの手がほつれた前髪をかきあげるように撫でた。
「大した任務じゃないんです。十日かそこらです。すぐに帰ってきますよ」
あやすように優しく囁かれてイルカは目を伏せた。
自分以外の人間にもこんな声でこんな言葉を囁いているのだろうか。こんな言葉に縋りつきたくなる自分は間抜けなんだろうか。
イルカの薄く開いた唇から願いがこぼれる。
「俺のところに帰ってきてくれますか?」
「はい」
イルカはぎゅうっとカカシの背に回した腕に力をこめた。