どんなに約束を交わしても、言葉をねだっても、それが嘘ならどうしようもない。
イルカはぼんやり任務受付の椅子に座っていた。
ちょうど昼飯時で受付所は閑散としていた。今日は朝から天気がいいのに依頼人が少ない。珍しい日だ。
当番制で昼休みは一人が残る事になっている。今日はイルカが当番で今、受付所にいるのはイルカ一人だった。
今日の朝早くにカカシは任務に出たはずだ。
任務の前夜はカカシはイルカの家には泊まらない。任務に万全を期すためだろうと思っていたが、案外本命のところに行っているのかもしれないと考えてイルカは首を振った。
そんな疑念を持ってカカシの行動を考える自分が嫌だ。だけど、自分の知らない間に、まったくそんな素振りも見せずにずっと他の誰かと関係を続けていたのだというんなら、カカシのどこを信じていいのか分からない。
虚仮にされたとか悔しいとか、怒りで自分を誤魔化せていた間はまだよかった。
時間が経つにつれじわじわと自分が一番辛いと感じていることがなんなのか分かってきてしまう。
カカシが好きなのは自分ではない。
その事に思考が行き着くたびにイルカはわあっと声をあげてどこかへ消えてしまいたくなった。
自分はカカシが好きなのに、カカシにはイルカよりも好きな相手がいる。最後にはカカシは誰かのところへ行ってしまうのだ。自分は選ばれない。一人で残される。
「カカシさん」
夜、ひとり布団の中で呟いた声が変に幼くて、自分があの頃の小さな子供に戻ってしまったような気がした。
父ちゃん。母ちゃん。
あの頃、昼間は笑ってられたのに夜になって暗がりで一人で布団に包まっていると堪えきれなくなって還ってくるはずのない人たちを何度も呼んだ。自分の家の布団の中は自分だけの温かい世界でどんな夢を見ても許される気がした。きつく毛布を体に巻きつけると誰かに抱きしめられているようで安心した。
でもそれは単なる錯覚で、イルカの傍には誰もいない。イルカは一人きりだった。
誰かの腕に飢えていたイルカの心を見透かして抱きしめてくれたのは年老いた里長だけで、彼の腕は自分だけのものではなかったけれど、たった一度の抱擁でもイルカは彼のために命を捧げようと思った。そして自分もそんな風に誰かを包み込んでやれるようになるんだと思ってきた。
それで満足していたのに。
笑って隠し続けてきた寂しくて寒い場所をカカシには明け渡してしまった。
久しく使わなかった「おかえりなさい」や「ただいま」の言葉、卓袱台の向こうで同じ献立を摘まむ顔、並んで歩く肩先に時折触れる体温、家の中にある他人の気配、そんなもので埋められたその場所をいまさら元の空っぽには戻せない。
これからどうするのか、カカシが帰ってくるまでに考えておかなくてはならない。
自分が単なる浮気相手ならすっぱり別れるべきだ。
それは分かっているけれども、自分さえ知らない振りをしていればこのままの関係を続けていけるのだと思うと迷った。
今のままがいい。このままカカシの傍にいたら、いつか自分の方を好きになってくれるかもしれないじゃないか。
--------なんて女々しい事を考えるようになったんだろう。
イルカは顔を顰めた。
閨で女のように扱われるうちに気持ちまで女のようになってしまったんじゃないだろうか。それはとても嫌な想像だった。自分の知っているくのいち達の方が今の自分よりもよほど潔い。
女かなあ。
カカシの本命が女だったら自分は身を引かなくてはならない。優秀な忍には子を残す義務がある。何よりそれが自然だ。それにカカシをめぐって女を相手に修羅場を演じる自分を思うと酷く惨めだ。カカシがその女の方をより愛しているというなら尚更。
顔も知らない、どこの誰ともしれない女にイルカは強烈な嫉妬を感じた。
そんな自分が吐き気がするほど嫌だ。陥ってしまっている今のこの状況も。すべてから目を逸らしてしまいたかった。
落ち込んでいく気分をどうすることも出来ずに椅子の上で固まっていたイルカを掬い上げたのは子供の明るい声だった。
「イルカせんせーい!」
受付所のドアが勢いよく開いて転がり込むよう黄色い塊が入ってきた。
「おう、ナルト、どうした?」
反射的にいつもの笑顔を作ってイルカは顔を上げた。
受付机越しに飛びつきたくてうずうずしている仔犬みたいな顔が覗く。
続いてサクラとサスケが入り口ドアから現れてイルカのいる机へやってきた。イルカ先生こんにちは、と礼儀正しく挨拶をしたサクラの横でサスケがぺこりと頭を下げた。
変わらない三人の様子はイルカをほっとさせた。
「サクラにサスケも、どうした?」
担当教官が不在の今、七班が受付所にくる用はないはずだが。
「先生、先生、俺たちだけで出来る任務ない?」
「はあ?おまえ、また無茶を…」
「ね、下忍だけでも出来る依頼だってありますよね、先生?」
「下忍小隊だけで任務をすることもあるはずだ」
またナルトが自主鍛錬に飽きて無茶を言いに来たのかと思ったが、サスケはともかくサクラまでとは珍しい。
「そういうケースも確かにあるけどな、そういう場合は下忍でも経験豊富な者が任務に就くんだ。おまえ達には監督官なしで任せるなんて出来ないぞ」
ここで嘗められてはいかん、とイルカは厳しい顔を作って言った。
「え〜、でもさ、でもさ、Dランクでもすんごくすんごく簡単なのだったら上忍の力なんて必要ないじゃん!?」
「そういう問題じゃない。どんな簡単な任務だって不測の事態は起こりうるし、依頼主に対する責任として監督官がつくことになってるんだ」
「じゃあ、カカシ先生が単独任務に出ちゃってる間、俺たちどうやって稼げばいいんだってば!?」
喚いたナルトの言葉に、ん!?とイルカは身を乗り出した。
「ナルト、お金がないのか?」
声を低めてイルカはナルトの顔を覗き込んだ。
ナルトは一人暮らしで身寄りがない。アカデミー生だった頃は里からの支給金で生活していたが下忍になってからは支給金は打ち切られて任務で得た報酬で生活してゆく事になっている。とはいえ、Dランク任務しか任されない下忍の得る報酬など高が知れている。保護者がいて食費や住居費の負担がなければいいが、そうでなければ下忍の生活は厳しい。イルカ自身がそうだったからよく知っている。ナルトだけでなく身寄りのない子供が忍を目指すケースは多いので、卒業時にアカデミー教師が出来る限り受けられる手当や補助金の類は手続きをしてやるのだが月々の遣り繰りがうまくいかなくなることもあるだろう。
「ないわけじゃないけど…」
「ない」
言葉を濁したナルトの隣でサスケがきっぱりと言い切った。
「ええ!?サスケもなのか?!」
サスケには一族の残した財産が少なからずあって、里がつけた公的な管財人が管理しているはずだが、そういえば詳しい話は聞いたことがない。大雑把に見えてナルトは意外に倹約家でがっちり貯金とかしているようだが元々名門の家の出であるだけにサスケの方がそういった経済観念は未熟だったのかもしれない。
「そんなに苦しいんなら先生、お金貸すぞ?」
イルカとて裕福なわけではないが元教え子の窮地に黙っていられるはずもない。
「それじゃあ意味ないんだってば!」
ナルトがぴょこんと跳ね上がる。
「俺たちだけでどうにかしたいんだってば!俺たちもう一人前の忍者なんだから!」
サスケも黙って頷く。
「ね、お願い、イルカ先生」
サクラに拝むように両手を合わせてお願いされてイルカは考え込んだ。イルカから見れば彼らは一人前とはまだまだ言いがたいが心意気は汲んでやりたい。
彼ら三人の任務経歴で監督者なしで任せられる仕事というと…、イルカは任務依頼書の束を繰った。
小隊単位の依頼だけでなくイレギュラーな任務依頼書の束にも素早く目を通して特例がないかをチェックしてゆく。
ナルトが身を乗り出して覗き込もうとするのを、ぐいと頭を押しやって紙面を睨んだ。
まったく、こいつは忍の守秘義務ってやつをまだ理解してないのか。
「そうだなー、依頼人側に監督官の資格があるならおまえ達だけでも任務が出来るか」
「それそれ!それでいいってば!」
「コラ、まだ内容には触れてないぞ」
じゃれあうみたいなナルトとイルカのやり取りにサクラは苦笑し、サスケは肩をすくめた。
イルカは少しだけ気持ちが浮上するのを感じた。こういう目標を決めて計画を組んでいくのは好きだ。難のある任務依頼を依頼人側の要求と請け負う忍との条件を折衝してコーディネイトしてゆくのが受付係の腕の見せ所である。
「三人ばらばらの任務でもいいか?」
「おっけーだってばよ!」
「よろしくお願いします」
「なんだってやってやる」
子供達のやる気に満ちた顔を見るとこちらまで元気になった。
イルカは頭を絞って三人に向こう十日間の任務日程を組んで渡してやった。
イルカ先生、ありがとうってばよ!と元気よく駆け出してゆく三人の小さな背中を見送ってイルカは今日はじめて本当の笑みを浮かべた。
そうだ。なんで俺が落ち込まなきゃなんないんだ。
なにもかも全部、あの馬鹿たれ上忍が悪いんじゃないか。
向こうから言い寄ってきて、好き勝手して居座って、挙句の果てに他に本命がいるだぁ?
中忍なめんのも大概にしやがれ。
帰ってきたらどうしてくれよう。
仕事が終わって帰り道、道沿いに植えられた茶の垣を片手で毟りながらイルカはずんずん歩いた。
カカシとは最初、教え子の新しい上官と元担任として他の上忍師達と同じような顔見知りになっただけだった。
「あいつら、最近どうしてます?」
受付や本部の廊下で顔をあわせるたびに挨拶と一緒にそう尋ねていた。それはカカシに限った事ではなく、他の卒業生を受け持ってもらった上忍に対してもしていることだった。
カカシの印象は飄々としていて掴み所がなく、でも子供達を大事にしてくれているのは言葉の端々から伝わってきた。いい人だと思った。それ以上の感情はなかった。イルカにとって一番の心配事の種だったナルトを預けたのでそれなりに気にはなったけれど、他の上忍師達と違ってカカシは知り合いになってもそれ以上関わる事のない人だとどこかで感じていた。「写輪眼のカカシ」はイルカには遠い存在だった。
一度、その面子で飲みに行った事があった。
イルカも世話になった特別上忍が退官することになり、その送別会が開かれる事になった。
班での任務を終えた時刻が偶然重なって下忍担当官達はまとまってその会場である店に行く事にしたらしい。イルカがシフトを終え、鞄を抱えて受付所を出ると丁度、集まっていた彼らと行き会った。
「イルカ先生も参加するんでしょう?一緒に行きましょう」
声を掛けてきたのは夕日紅だった。その後ろでニカッと笑ったマイト・ガイの笑顔が眩しくて思わずイルカも笑い返していた。
店に着くともう席はうまっていて、自然と彼らと同じ卓につくことになった。ガイと教育論で熱く盛り上がった覚えがある。紅がすごいピッチでグラスを空け、カカシとアスマは卓の向こう側で二人静かに飲んでいた。
その時、生意気にも自分はガイに「リーだけでなくネジやテンテンの事ももう少しみてやって下さい」とか意見したのだ。恐れ多い。思い出すと眩暈がする。
だがガイは自分の言葉に真剣に耳を傾け、「そうだな。ネジやテンテンはなんでもそつなくこなすから俺もついつい不器用なリーのことばかり構ってしまうが、それではいけないな」と熱く答えてくれた。
イルカも自分がアカデミーで不出来な生徒につい思い入れしてしまう傾向があるから、ガイに素直に答えられてかーっと顔が赤くなった。
最後には「すいませんすいません」となんだか泣いていたような気がする。
ガイが肩をがっしり抱いて「なんだ、イルカが謝るような事はなにもないじゃないか」と白い歯をキラキラさせて慰めてくれたっけ。
そんなイルカをカカシは卓の向こうから興味深そうに眺めていたのだ。
帰り道、同じ方向だということで少しだけカカシと二人で歩いた。
イルカは随分酔っていたけれど冷たい夜気に触れると気持ちが落ち着いた。
カカシはずっと静かで目の前で醜態を晒した自分が恥ずかしかった。
「ガイ先生にはあんな風に言ったけれど、俺も全然、子供達の事平等になんてみてやれないんです」
照れくさくって言い訳のようにイルカは話した。
どうしても目に付きやすい子はいる。出来のいい子、悪い子、はしっこい子、人の気を引くのが上手な子。
それにやっぱり、自分と似たタイプの子供には思い入れをしてしまう。気持ちが分かるからだ。
「子供といえども一人の個人ですから、合う合わないはどうしてもありますしね」
自分が気に掛けても自分には心を開いてくれない子供もいる。
「出来れば全員、同じように見ていてやりたいって思うんですけど理想どおりにはいかなくって、」
ああ、そうだ。少しだけ自分はこの人に嫉妬していた。
「サスケにはカカシ先生の方が合うみたいです」
イルカは無理に口元を引き上げてカカシを振り返った。
いつも教室の中でつまらなさそうに冷めた目で周囲を見ていた子供。
その目の奥にはいつも焦れたような熱っぽい光があって、彼がここを早く出て行きたがっているのが分かった。
そんなに急ぐなよ。今しか知ることが出来ない事だってあるのに。
そう語りかけても少年の耳には届かないようだった。
逆に彼の目に、あんたは俺の欲しがっているものを与えられるのか?そう問われているような気がした。
カカシがサスケを上手くいなしてDランク任務に励ませているのを見ると、イルカには出来なかった事をこの人はしてやれるのだと安堵と羨ましさと、それからやっぱり流石だと敬服した。
「今はそういうのも仕方ないかなって思います。サスケにはカカシ先生が現れてくれた。それでいいって」
あいつらの事、よろしくお願いします。そう言って頭を下げたイルカの頭上からカカシが呟くのが聞こえた。
「イルカ先生って美味しそうですね」
はい?
きょとんと見上げたイルカに「なんでもないです」とひらひら手を振ってカカシは分かれ道の角を去って行った。
飲み会で親しく話したのはガイとだったのに、殆ど口をきかなかったカカシがそれからは何故かしばしば話しかけてくるようになった。
それから何度か飲みに行って、イルカの家にも来るようになってカカシはよく「まずいなあ」と呟いていた。何がまずいんだろうと思っていたらある晩、酔いに任せて押し倒された。
「イルカ先生の中に俺を入れてください」と言われた。イルカはいい感じに酔っていたからへらへら笑っていたら文字通りカカシが中に入ってきた。
衝撃だった。
女のいない戦地で男同士で行為に及ぶ事がないわけではない。里内でも上忍の色になっている中忍や下忍がいることは知っている。だが無骨な自分がそんな対象になるはずがないと思っていたからイルカはショックだった。
行為自体もショックだったが、カカシの手管があまりにも的確でまるで女のように喘がされたのが信じられなかった。カカシは容赦がなかった。体中を探られて、急所ばかりを突かれてこの男は任務でこういう仕事もしてきたのではないかと頭の片隅で考えた。
捕虜にでもなったようだった。情事なんだか拷問なんだか分からない。酔った勢いで起こした過ちですますには触れてくる手に意識がありすぎた。何か上忍にマークされるような疑いをかけられているのだろうか。そう思うと怖かった。忍の里で一度疑いを向けられたらどんな事になるか、この男ならイルカの体も命もどうにだって出来る。
「だって、一度こうなったからには友人には戻れないでしょう。だったら徹底的に陥とさないと後がないと思って」
暗部仕込みの手練手管のすべてをつぎ込みました。
怒涛の一夜(実際には二日ほど)の後に語られた男の言葉にイルカはベッドの上で呆然と天井を見上げながら本気でこの人アホじゃないのかと思った。なにが「だって」だ、デカイ図体して。
「俺が一生懸命頑張っているのにイルカ先生、ずっと木の葉の忍として里のために命を捧げますとか、火影に対して異心はありませんとかブツブツ言ってたんですよ」
ガックリ肩を落としてカカシは眉尻を下げた情けない顔でイルカの顔を見た。
「やっぱりイルカ先生は鉄壁ですねえ。そんなに美味しそうなくせに俺じゃあ味わせてもらえないんだ」
カカシの大きな手がイルカのほどけてシーツの上に広がった髪を掬い上げてするすると撫でた。
散々味わった後で何言ってやがる。それじゃあ、今までのあれは全部、私情ってことか!?
私情でエロい事すんのにあんな大真面目な冷たい顔するのか、この男は?
男の情けない顔を見ながら、その時イルカは怒っていいのか呆れていいのか、泣いたものやら笑ったものやらさっぱり分からなかった。
最初っから挙動不審といえばそうだった。
垣根の端に垂れたフウセンカズラの実をもいでイルカはふう、と溜息をついた。
そんな訳の分からない男にほだされてこのザマだ。