ただいまと声がして玄関先に人の気配がした。
イルカは畳の間の座布団の上に正座して声の主が現れるのを待っている。
「イルカせんせーい?」
いつもどおりの低く艶のある声をのんびりと響かせて台所と居間を仕切る扉からカカシが顔を出した。
返答がないのを不審に思ったのかイルカの前までやってきたカカシは立ったままひょいと身を屈めてイルカの顔を覗き込んだ。
任務明けのカカシからは里の外の風を感じる。何の匂いもしないのだけれど、いつもイルカはそう思う。今もカカシはぶらりと里に立ち寄った旅人達のような風情でイルカの前に立っている。
彼の冷たく乾いた指先が火照って柔らかく動く時間を知っている。
でも目の前にいるのはまるで見知らぬどこか遠い異国の人のようだ。
そんな風に感じるのは自分の心情が変わってしまったせいだろうか。この人の心が自分にないことを知ってからイルカの中には硬くて冷たい塊がごろりと転がっている。
今更だ。遅かれ早かれこういう日は来たのだ。
部屋の中を見回してみれば分かる。彼の持ち物は彼がここで過ごした時間に比して意外なほど少ない。彼はここを去る時に残していくものを最小限にとどめるようにと注意を払っていたのだ。
元からこの人が自分のものになるなんて信じていたわけではなかったのに一緒に過ごす時間が心地よくて色んな事から目を逸らしていた。
久しぶりに顔を見た。きれいな顔だ。怪我がなくてよかった。
なんだか間近に見ているのに遠く感じる。
イルカは口を開いた。
なんと言おうか迷って、発した声は低く掠れていた。
「--------もうここへは来ないで下さい」
大人の男の声だ。自分でも驚くくらい落ち着いている。
自分はもう自分の始末くらいつけられる。そういう年齢になっている。そんな男が馬鹿みたいじゃないか。上忍の男の情を乞うているなんて。
カカシは一瞬、驚いたように目を見開いてそれから少しだけ目を眇めた。
「どうしたんですか?」
「俺はもう、カカシさんとおつきあいは出来ません。他につき合っている相手がいる人とそういう事は、俺は出来ません」
見上げるとカカシは無表情だった。
何か言ってくれ。
少しは取り乱してくれ。
浮気の見つかっただらしない男みたいにうろたえて取り繕いの言葉を聞かせてくれ。
なんでこんな時にこの男はそんな冷え切った表情のない顔をしているんだ。
なんだか、あんた、知らない人みたいだ。
目が覚めると心臓がばくばく鳴っていた。
イルカは寝台の上で身を起こすとそのまま布団を抱え込んで前のめりに突っ伏した。
夢の中でくらい希望的な展開にならないもんだろうか。
「怖かった…」
温かい布団に顔を埋めてイルカは呟いた。
夢の中のカカシはとても遠かった。まるで自分との関わりなんてなかったみたいに、急に表情を消して。
部屋を見回す。
カカシがここにいたことを示す物は本当に少ない。
カカシが自分で持ち込んだものはない。コップも茶碗も客用のものを使っているし、専用のものといったら歯ブラシくらいだろうか。
欲しいものは温かいご飯と佃煮。
食べてしまえばそれっきりのもの。
気がついていただろう。いつだってカカシは自分との間に一線を引いていた。いつでもなんの関係もなかったただの仕事上での知り合いに戻る事が出来るように。
自分も出来る限りそれに沿うてきたのだ。
それでも身を寄せ合って互いの何かを庇いあって暖めあうような時間があったのだと信じたい。