明け方近くにイルカはガイと並んで宿への帰途についた。空の上はまだ星が輝く夜なのに、家々の屋根の上には白い光が幕を張っている。白と群青の交わる際に滲んだ赤色の中に明星が見える。
今夜も収穫はなし。
寝不足の体に冷たい空気が突き刺さるようだ。ぶるっと身を震わせる。これから宿に帰って板敷きの間で薄い布団にくるまって数時間の睡眠を取ったら、また出掛けなくてはならない。今日は街の反対側にある観音堂周辺にある古物屋街を回る。
「寒いなあ」
ガイがぼそりと言ったのでイルカは驚いてしまった。ガイ先生でも寒いとか感じるんだ。
「なんだ、イルカ、そんな顔をして」
丸く目を見開いて自分を振り返ったイルカにガイが笑う。
「いえ、」
朝日で逆光になったガイの姿は眼底に沁みた。徹夜明けなのに溌剌としていて本当にジョギングに来た人みたいだ。やっぱり基礎体力があるんだなあと感心した。
「元気がないな」
「徹夜明けですから」
上忍の体力と比べられても困る。また卑屈なことを考えている、と少し凹む。どうしてもガイを前にすると自分がつまらない人間に思えて胸が軋む。この男なら、カカシと同じ位置に立てる。この男なら同じものを見ることが出来る。
上忍と中忍の差は血の違いだと誰かが言っていた。中忍までは努力すればなれる。努力するための精神力や情熱、粘り強さ、そんなものがあればいい。特別上忍になるには才能と時と運が必要だ。上忍になるのは、それらすべてを凌駕する血なんだと。死ぬまで下忍のままの奴もいる。中忍になれればひとかどの忍びだ。だが、幼い内に頭角を現し、あっという間に上忍になってしまう者もいる。そういう子供は希にだが確実に存在する。忍者アカデミーの教師として子供と接するイルカは彼らの才を見極めるのも仕事の内だから実感として知っている。
超えられない壁がそこには厳然と聳えている。
薄明かりの中にくっきりと立ち上がっているあの黒い塔のように。
「俺が憎らしいか?」
ガイが言った。
イルカは唇を噛みしめて立ちつくす。ガイも並んで立ち止まる。
「俺がおまえだったら憎らしいと思うな。任務も部下も取り上げられて、その下で平気な顔でなんか働けない」
恋人もだ。
恋人の心まで奪われて、それでも俺はあなたの下で平気な顔をして働かなくちゃならない。それが己の分というものだ。悔しささえ素直に表せるあなたとは違う。
顔を上げたらガイを睨みつけてしまいそうで、イルカはじっと足下に視線を向けていた。
「イルカ、顔を上げろ」
イルカは首を振り頑なに下を向き続けた。
「イルカ」
ガイに肩を掴まれて咄嗟に振り払い、ガイの胸に拳を打ちつけた。ガイはびくともしない。
自分が本気で立てる爪も、彼らにとっては猫の子がじゃれついているくらいでしかないのだろう。イルカには彼らに傷一つ負わせることは出来ない。
たった一言でカカシはイルカの心を切り裂いた。
たった一夜でカカシはイルカの中に強引に居座ってしまった。
あんた達にはどうってことのないことかもしれない。
騙される方が悪い。弱い奴が悪い。利用されるような隙を作った方が悪い。
「俺を勝手な男だと思うか?」
答えられずにイルカはガイの胸元を握りしめた。他の上忍なら失敬な奴だと張り飛ばされている。だがガイはイルカのするままに任せている。そうして静かに語り出した。
「普通なら割り切って俺が指揮をとるべきだろう。イルカも複雑だろうがその方が仕事はしやすいのかもしれん。イルカにも立場というものがあるだろう。他の奴だったらきっとそうするだろう」
昨夜までは有無を言わさぬ調子だったガイが諭すように語りかけてくる。イルカは黙って聞いた。正直意外な気持ちがしたが、元々ガイは話せば分かってくれる男だったと思い出す。人の話を聞かずに突っ走る傾向はあるが、きちんと真っ正面から向き合えば必ず応えてくれる、そういう人だった。
「だがな、俺は上忍でさえあればいいというような依頼人の考えは好かん!」
ガイはきっぱりと言い放った。
「木の葉の忍びは皆、訓練されたエキスパートだ。厳しい訓練に耐えてこの額宛を授けられた。違うか?」
ガイが緑色のジャージの上着を捲ると、腹に巻いた額宛がきらりと朝日を反射した。鈍く光を弾く額宛がぴりっとイルカの目を射た。
「何もしないうちから階級だけで無能扱いされて悔しくないか?!」
悔しいに決まっている。
「俺は悔しい。木の葉の中忍が何も知らん人間にコケにされたのが悔しい。やりもしないうちから出来ないと決めつけられたことが悔しい」
イルカ!とガイは声を荒げた。
「俺はおまえに証明して欲しい。木の葉の忍びがそんなに優秀か。この額宛が伊達ではないと見せてやれ!」
ガイは本気で腹を立てていた。イルカのために。
「やつらの鼻をあかしてやれ!」
宣告まで寒さに強張らせていた顔を火照らせてガイがイルカに向かって檄を飛ばす。組織の規律よりもイルカの矜持を大切にしてくれたのだ。それが正しいことだとは言えない。個人の感情に拘泥して規律を乱せば任務を失敗するかも知れない。このレベルの任務だからこそ、そんな悠長なことが言っていられるのだともいえる。
ただ一つ分かるのは、この男には掛け値がない。
ただ純粋にイルカのために、誰かの心を尊重するためだけに動くことが出来る男なのだ。
「はい」
イルカは顔を上げ、ガイの目を真っ直ぐに見つめて答えた。
ガイがニッと笑った。昇り始めた朝日に白い歯が煌めく。眩しくてイルカも目を細めた。
ガイの胸に拳をついたままなのに気がついて、イルカは慌てて手を下ろした。子供のようにだだを捏ねたようで恥ずかしい。ガイは気にした風もなく笑っている。
二人でジョギングして宿まで帰った。
急に良好になった上官二人の姿に若い部下達は首を傾げていた。