翌朝、イルカとガイは壷を携えて依頼人の家を訪れた。奥座敷へ通され上座に座ったこの家の主人達に、恭しく風呂敷の包みをといて中に包まれていた壷を差し出した。
白地に鮮やかな赤い花の絵の描かれた壷。昼の光の中で見ると、写真や、夜、薄暗い部屋で眺めていた時よりもいっそう鮮やかな色彩が見る者の目を惹きつける。なるほど、確かに名のある陶工の作である、と審美眼など持ち合わせていないイルカにもその壷の良さが分かるような気がした。
家の若主人も嫁もにっこりと笑って頷いた。彼らもこれで連日の姑のヒステリーがおさまると思ってほっとしているようだった。
依頼人である姑はジロリと壷を一瞥して、しかし、
「違います」
そう一言、言った。
「え!?」
座敷にいた者全員が驚いて姑の顔を覗き込んだ。
「この壷ではありません」
周囲の者達にはっきりと聞かせるように骨張った顔つきに険を隠さず、依頼人は再び言った。
「しかし、これは確かに陶工、梟白の作だと鑑定士も申しておりましたぞ!」
昨夜、ホテルへ侵入したその足で銀杏屋へ行き鑑定してもらったのだ。声をあげたガイへ依頼人は冷ややかな眼差しを投げた。
「梟白の作かも知れませんが、私の壷ではありません」
「でも母上、この壷ですよ!色も模様も銘もこのまま、この壷です!」
屋敷の若主人も母親に向かって、盗まれたのはこの壷だと言ったが母親は一顧だにしなかった。
「いいえ、これではありません。私の壷には名前が書いてあります」
きっぱりと言い切った依頼人の言葉に、その場の全員が固まった。
「は?」
な、ま、え?
「私の壷には私の名前が書いてあります。だからこれは違う壷です」
迷子になったペットを探してくれという依頼は多い。
トラ猫だとかブチ犬だとか言われても、依頼を受けた忍には見分けがつかない。とりあえず言われたのと似た模様の犬猫を見かけたら捕まえて依頼主の所へ連れて行くのだが、「猫違いよ!全然似てないでしょ!!」と怒られることがしばしばある。
そう言われても動物の顔など飼ってもいない人間から見ればどれも一緒のようなものだ。
だから飼い主は飼っている動物に首輪をつけ、名前を書く。それが自分にとってその他の猫とは違う、特別な猫であることを示すためにだ。
しかし、壷に名前を書くという話は聞いた事がない。
美術品や骨董品には贋作がつきもので、作者の書いた銘がそれを見分ける鍵になるのは一般的だが、持ち主が自分の所有する美術品に名前を書いているなんて話を聞いたことはない。
そんなことをしては美術品としての価値が半減以下になることが目に見えているからだ。
「分かりませんねえ」
店の奥座敷で奪ってきた壷を手にとって矯めつ眇めつしながら銀杏屋の主人は首を傾げている。
「自分の蔵書に蔵書印を押す人間ならおりますが」
蒐集家が手に入れた美術品に名前を入れるとしたら、それは征服欲からだろうと銀杏屋は言った。完成された作品に自分の手を入れ、消えない印を付けることは所有欲を満たすのだという。
「ただ単に自分の持ち物に名前書いただけなんじゃないのか?なくした時のために」
ガイが畳の上で持て余した長い手足を投げ出して寝転がっている。
「確かに、あの依頼人からはそういった蒐集癖のようなものは感じられませんでした」
イルカもガイに同意する。
「これも良い壷ですよ。二百万両は吹っ掛けすぎだが百万両くらいはするんじゃないですかね。梟白は愛好家も多いですからね」
形も柄も同じようなものなんだからこれで良いじゃないかと屋敷の若主人が宥めていたが依頼人は頑として譲らなかった。
「私は私の壷を取り返してくれと依頼したはずです。代わりの壷を寄越してそれで済まそうなんて了見じゃありませんね?」
念を押されてイルカはぐぅの音も出なかった。どんなに苦労して取り戻したとしてもそれが違う壷では意味がない。
捜査は振り出しに戻ったわけだ。
昨晩、大技を繰り出してチャクラを使いすぎたのだろう、座敷に寝転がったまま眠ってしまったガイを銀杏屋の座敷に残して、イルカは外へ出た。
木の葉の里よりも北に位置するこの街では季節は少しだけ早く過ぎる。空が随分と高い。上空に魚の鱗のような雲が日の光を受けて白く光っている。振り返ることも知らぬげにつれなく吹き抜ける風は秋特有のものだ。
あの人の生まれた季節らしいなあと思う。
家々の屋根の向こう、青い天幕に描かれたように塔が見える。あそこに彼がいるのかもしれない。会いたいと思っても任務中は同里の人間でも関わらないのが原則だ。イルカの任務はまだ終わらないし、自分よりも遙かに難易度の高い任務に就いているだろう彼の邪魔をするわけにはいかない。
昨夜、塔の七階の踊り場に彼はいた。
あの階に降り立ったら命はなかったのかもしれない。着地しようとしたイルカを放り上げてくれた。
庇ってくれたのだろうか。
自分の手首を握りしめてイルカはぎゅっと眉を顰めた。
振り切るように首を振り、イルカは依頼人の屋敷に足を向けた。
もう一度、現場から洗い直すことにした。
他の三人の部下達も聞き込みに出したがモチベーションは底をついている。
さすがにあんな大騒ぎを起こして奪ってきた壷が壷違いでは皆、力が抜けてしまった。
体力の消耗もあるが、人を何より疲弊させるのは「徒労」だ。「徒に労する」で「徒労」。労力を無駄に使うこと、結果を得られないこと、努力しても先に希望がないこと、それが一番人を疲れさせる。いつか報いられると信じていれば大概のことは耐えられるものだ。
報いられる可能性のない片想いなんて…。
はあ、とイルカは溜息をついた。気を抜くとすぐにそっちに考えがいってしまう。いかん、いかん、とイルカはバシンと両頬を叩いて気合いを入れた。
気力が低下している証拠だ。意識が散漫になっている。
今回の任務は危険性は低いが、達成できる見込みがあまりない。それが厄介だった。
−−−もう、この壷でいいじゃないですか。
違う壷だったと皆に話した時、若い中忍がそう言って、鼠使いの中忍にはたかれていた。それは依頼人が言うならいいが、自分達が口にすべき言葉ではない。
とはいえ、こんな任務にそう日数を費やすわけにもいかず、このままでは任務失敗の報告書を携えて里に帰るほかない。ガイには受け持っている下忍達がいるし、他の三名の中忍達だってやるべき任務があるだろう。アカデミーの休みももうすぐ終わる。
この手の任務は成功報酬を貰えなければ割には合わないが、どんな結果であろうと経費と人件費は出る。
そんな風に片を付けたくはない。依頼人に木の葉の忍は役立たずだったと言われるのは自分だけではなく、里の名誉を傷つける。
けれど悔しくてもどうしようもないこともあるのだ。
最後まで諦めてはいけないと心の中でお題目のように唱えてはいるが、イルカももう盗まれた壷に辿り着くことは出来ないような気がしてきていた。
イルカはいつものように屋敷の裏木戸を潜り庭へ出た。
このあたりは古くからの武家屋敷が多く、街の中でも格式の高い家が多い。依頼人の家は代々文官を務める家系で当主は火の国の都の大学で学問を修めて来る習わしだそうだ。算術やら歴史やらは忍者アカデミーでも教えるが、それ以外にもイルカが一生関わらないような学問も習うのだろう。あの若主人も数年前に大学での学士を取って帰ってきて、家を継いだのだそうだ。
屋敷の周囲には土塀が巡らされているが、これを人目につかないように乗り越えてしまえば、庭には樹木が茂っておりいくらでも隠れる場所がある。
裏庭から敷地内を検分しながら奥座敷まで歩いていく。
と、イルカの耳にしくしくと、小さな泣き声が聞こえてきた。
なんだろう。屋敷の主人に叱られた奉公人がどこかで泣いているのかもしれない。
訝しみつつ庭に面した濡れ縁に近づくと、奥座敷の片隅で一人の女が泣いている。あれは奉公人が身につけるような着物ではない。あれは、結い上げられた白いものの混じるあの髪は依頼主であるこの屋敷の女主人ではないか。イルカは肝を抜かれたように立ち尽くして、その背中を唖然と見つめた。
え!?泣くの、あの人?
咄嗟に大変失礼な事を思ってしまったイルカだが、幼い子供のように声を押し殺して肩を震わせている姿を見ているうちに、だんだん胸が苦しくなった。
いつもヒステリックに喚き立てているのに、そんな風に泣くなんて思わなかった。元々、イルカは女と子供の涙にはとことん弱い。
「どうしたんですか?」
驚かせないように静かに声を掛けたのだが、依頼人はびくりと肩を震わせて怯えたように振り返った。気配を消していたわけではないが一般人よりは忍びの気配は感じられないものだ。依頼人は怪しむような視線をイルカに向けた。一般人にとって忍びは同じ人間とは思えない得体の知れない存在だ。イルカは相手を安心させるように出来るだけ穏やかな顔を作った。
依頼人は暫くイルカの顔を涙に濡れた目で見つめていたが、再び顔を伏せて手巾で涙を拭いながら「どうせ、」と小さく言った。
「どうせ、あなた達にとっては私の依頼なんてどうでもいいんでしょう。壷なんてどれでも同じだって思ってるんでしょう…!」
嗚咽混じりに吐き出された言葉にイルカはドキリとした。確かに心の底ではそう思っていた自分がいたからだ。
「誰も私の言う事なんて聞いちゃいないのよ!息子も嫁も私のこと口うるさい婆さんくらいにしか思ってないんだわ!代わりの壷でもいいじゃないかなんて、あの壷がどんなに大切な物なのか…」
あの壷じゃないとだめなのだと言って、依頼人はおいおいと泣き出した。
依頼人の言葉に引き込まれるようにイルカは濡れ縁まで近づいた。身を屈めて板敷きの床に手をつくと、静かに声を掛ける。
「あの壷には何があるんですか?」
家宝の壷だというわりには、若主人や他の者達の壷に対する扱いはぞんざいだった。盗まれた壷に拘ってヒステリックになっているのは姑である、この依頼人だけだ。
どうしてそんなに拘る?
何か、があるんじゃないのか?
「名前が書いてあるの」
小さく依頼人が言った。
「大旦那様が、私に下さったの。ここにお前の名前を書いておくからねって…」
ぽつりぽつりと零される言葉を注意深く聞きながら、イルカはあることに思い当たった。もしかしてこの人は−−−。
「だから…必要な時はここを見なさいって…」
「分かりました」
最後まで言わせず、イルカははっきりと答えた。
「必ず盗まれた壷は取り戻します。大切な形見なんですね」
依頼人がのろのろと顔を上げて幼い少女のような頼りない眼差しでイルカを見た。
「大丈夫です。木の葉の者は依頼を途中で放り出すようなことはしません」
にっこりと笑ってイルカは言い、一礼して縁を離れ、屋敷を出た。
−−−彼女は文字が書けないのだ。