どんな些細な依頼にも全力を尽くす。
それが忍びの鉄則だ。
人が忍びを雇う時というのはどういう時か。
自分ではどうにも出来ない事がある時、誰かに頼みたくとも頼める相手がいない時、こっそりと秘密裏に願いを叶えたい時、そんな時に人は忍びを雇う。
依頼の内容は政敵の暗殺から機密情報の収集、真逆に身辺警護や機密保持、工作員としての破壊活動、夜逃げの手伝い、浮気調査、等々…。どんな依頼にもいつも後ろ暗いものがある。依頼人の秘密がある。
だから忍びという存在はいかがわしい。
金を貰う代わりに、他人の隠したい秘密の中に足を踏み入れ依頼人の願いを果たす。
普通の人間は、そんな存在を自分の身近に置きたいとは思わないだろう。それでも依頼人が木の葉の大門を潜り、依頼受付所の扉を叩く時、依頼人の胸の底には抜き差しならぬ事情が沈んでいる。
どんな取るに足らないように思われる依頼でもそうなのだ。
だから忍び達は叩き込まれる。
一度、契約を結んだからにはきっと依頼人の望みを果たさねばならないと。
そうやって築き上げてきた信頼があるからこそ、木の葉は今日も繁盛している。
金と時間と労力と、秤に掛けて損より得が多くなくては話にならない。
だけどそれだけで依頼をこなすわけではない。
バシン、とイルカは両頬を叩いて気合いを入れた。
先ほどまでの、無理矢理に自身を奮い立たせるような心持ちではない。気持ちが先に走り始めている。
誰かの願いを叶えてやりたい、そういう気持ちになった時、イルカは一番頑張れるような気がする。色んなタイプの忍びがいるけれど、イルカの原動力はそれだ。
屋敷の周囲を一周して現場を確認してから、イルカは一旦、引き上げることにした。
もう一度、捜査方法を練り直さねばならない。
何かを見落としているのかもしれない。
宿に戻るとガイが帰ってきていた。
医療忍が昨夜、攻撃を受けた中忍の具合を看ている。外傷はないが、術を返されるとチャクラが乱れたり、それなりのダメージがある。数日は式も使えまい。
斜めの天井に頭をぶつけないように身を屈めてイルカは屋根裏部屋に入った。
ガイはもうすっかり元の調子に戻ったようだ。ニカッと白い歯を見せた。
「あの壷な、やっぱり違う壷だったようだ。なんと!初代・梟白の作品だったんだ!」
銀杏屋で鑑定士を呼んで、更に詳しく見て貰ったら結構なお宝であったことが分かったのだという。
「やっぱり百万両から二百万両はするそうだ」
からからとガイが笑う。壷一個にそんな大金を払うことが彼には不思議なのだろう。つられてイルカも笑った。本当に、物の価値なんて人の気持ち次第なのだ。
「それでも依頼人には二百万両の壷より、自分の名前の書いた壷の方が大事なんだなあ」
可笑しそうにガイが言う。
「そうですね」
いくら金を積まれても、それでなくては意味がない、そんな物がある。
依頼人の舅が、字の読めない嫁のために名前を書いた壷。彼女はずっとその壷のおかげで体面を保ってきたのだろう。代々、文官を務める家で学のない彼女がどんな扱いを受けてきたのかは想像に難くない。
壷を取り戻すことがすべての解決ではないが、その壷があれば彼女は安心するのだろう。安心を売るのが忍び稼業だ。
二百万両の壷より、一両の壷の方が彼女には価値があるというなら、一両の壷を必死になって見つけてくるのがイルカ達の役目だ。
−−−ん?
自分の中に何か引っかかる物があって、イルカは首を傾げた。
最初に何を思って、自分は捜査方針を立てたのだったか。
−−−あまり価値の高くない美術品、骨董品は小規模なオークションや地元の蚤の市など、目立たない市場で安く売られている事が多い。
そう思って地道に足で探すことにしたはずだ。
輸入品を扱うセールスマンが来て、家の様子を探っていったのは確かなのだから、やはり例の窃盗団が関わっている可能性は高いように思われる。ギャラリーとは別に盗んだ物を隠す場所があるのか、既に売ってしまったのか。
まったく別の者の犯行であったとしても、盗品の販売ルートはほぼ押さえているのだからこれだけ探して出てこないのはおかしい。
探しているのは、二代目・梟白の壷。そっくりの初代の作の壷が見つかったということは、おそらく弟子が師匠の作品を真似て作ったレプリカだろう。
そのうえ、依頼人の名前が書かれている。
美術品、骨董品としての価値は殆ど失われているといっていい。
盗んだはいいが、売り物にはなりそうにない物はどうする?
「あ!あいつ!!」
治療を終え、窓の外を見ていた医療忍が声を上げた。その声に考えを中断させられ、イルカも何事かと窓へ目を向けた。
小さな木造の平屋が見える。
女の家。牢に入った男を待ち続けていた小さな家。
狭い玄関先に植木鉢が並んでいて小さな看板が出ている。ミシンがけやボタン付け、掛け接ぎなどを生業にしている女の一人暮らしだ。時折ミシンの音と振動が響くのを忍びの耳は拾い聞く。
「あいつ、あんな勝手なことを!」
医療忍が窓の外を指差す。イルカ、ガイ、もう一人の中忍も窓の外を見下ろした。女が通りの向こうから歩いてくる。食材の入った買い物袋を両手に抱えて、その隣には一升瓶をぶら下げた若い男−−−−−イルカの部下がいた。
「なにやってるんだ、あいつは?」
ガイが訝しそうに呟く。
イルカも目を見開いて歩いてくる二人を凝視した。
女と接触しろという指示は出していない。
「おいおいおい…」
四人が見守る中、玄関先での短いやりとりがあって若い中忍は女の家の中に消えた。
聞き込み調査に飽きたのか、自分にも接触役くらいできると思ったのか。彼の任務経歴を見たところでは戦闘経験はあるが情報収集や内偵の経験はない。里も今回の任務でそれを教え込むつもりでイルカの下につけたのだ。しかし、一度接触してしまったのだから、後はもう被疑者達に不審を抱かせないようにうまく立ち回ってくれることを祈るしかない。
「あいつ、あの女のこと気にしてましたからねえ」
きっと好みのタイプだったんですよ。不満げにぶつぶつと医療忍が言う。狭い屋根裏部屋に男ばかりで押し込まれて、接触する女性は口うるさい依頼人だけ、そんな日々が続いている。若い中忍が一人だけ女の家に上がり込んだのが不服のようだ。
被疑者の情人だとしても女はなかなかの器量だった。
「薄幸そうな所が男好きするっていうか。ずっと男の帰りを待ってるなんて、献身的でいじらしいじゃないですか」
「なんだ、おまえもああいう女がいいのか?」
ガイも話にのってくる。
「俺はもうちょっと明るい感じの人が好きですけど」
照れ笑いを浮かべて医療忍が頭を掻いた。
「ああやってずっと待っててくれるのはいいなあ、って思いますね」
長期の遠征任務に出ても、操を立てて待っていてくれる、そんな女はすべての忍びの憧れだろう。
そんな与太話をしながら待つこと半刻ばかり。
若い中忍が女の家を出てきた。
と、彼はこちらの窓を見上げて何気なさを装ってある仕草をした。木の葉忍びにだけ通じるハンドシグナルだ。
『目標発見』
「なんだって!?」
屋根裏部屋の中の者は全員窓に齧り付いた。
イルカも声を立てずにハンドシグナルで応える。
『帰投せよ』
すぐさま若い中忍は宿の古びた木製の階段を駆け上がってきた。
「ありましたよ!女の家の床の間に飾ってありました!!」
「間違いないのか?」
イルカの問いに「はい!」と若い中忍は意気込んで答えた。
「綺麗な壷ですね。これはきっといい壷ですよ、ってかまかけたら、夫が仕事で仕入れてきたのだけど、売り物にならないからって置いていったんだって教えてくれました」
若い中忍はまだ十代の、少し線の細いところのある優男だ。女に同情的だったのが自然に伝わったのかも知れない。口が軽くなったようだ。
「彼女、薄々疑っているみたいでしたよ。仕事を探してきたと言っていたけれど男がまたよからぬ事を始めたんじゃないかって」
「てか、おまえ、指示も出てないのに、勝手に…!」
医療忍が咎めるように言う。
イルカも腕組みをして眉間に皺を刻んで尋ねた。
「どうしてあんな事になったんだ?」
目標を発見したのに叱られるとは思っていなかったのか、若い中忍は視線を彷徨わせて答えた。
「買い出しに出たら、彼女が前を歩いているのが見えて−−−−−」
そのまま尾行したのだそうだ。八百屋や魚屋で買い物をしている様子を見ているとどうも一人分の食材ではないようだった。今夜は実行犯の男が帰ってくるのかと思って、そのまま後を追っていった。女は酒屋へ入り、一升瓶を抱えて出てきた。
その時に、彼女の買い物籠の紐が切れたのだ。
酒の瓶を抱えたままどうすることも出来ずに荷物が零れていくのを見つめている女に咄嗟に駆け寄って荷物を拾い上げていた。女一人では持ちきれないような荷物に、手を貸してやると申し出て家まで送っていったらお礼に茶でも飲んでいってくれと言われて、断れずに家に上がってしまった。
「まあ、臨機応変に行動することも大切だが−−−」
「こいつ絶対、スケベ心でついていったんですよ!」
「な…!俺は純粋に彼女が気の毒だと思って…」
医療忍の突っ込みに若い中忍が憤慨する。いや、それはそれで私情に流されてるのは変わらないから…、とイルカは呆れたが、
「結果オーライ!!」
ガイの一声で場は収束した。
日が暮れるのを待って、イルカ達は女の家に忍び込んだ。
医療忍が幻術をかけ、戸口を見張っている間にイルカが家屋に侵入した。
小さな平屋の裏庭に面した座敷に床を延べて、実行犯の男と女が並んで眠っていた。男が夕方帰ってきたのは、向かいの宿から見ていて知っていた。並んだ布団の向こう側、床の間に壷があった。イルカは手にとって柄や形を確かめた。
描かれた枝に咲いた紅梅の花のとなりに確かに『おうめ』と名前が書かれている。
依頼人の壷に間違いない。
イルカは丁寧に壷を布に包み込み、これで任務完了と部屋を出ようとしたが、ふと思いついてもう一度中へ戻った。
布かれた布団の端に屈み込んで寝ている男を見下ろした。
昨夜の騒ぎに加えて、ギャラリーから初代・梟白の壷が盗まれ、窃盗団の連中も慌てたに違いない。実際、銀杏屋が密告すれば遠からず司直の手が伸びるだろう。この男も牢屋に逆戻りだ。それはそれで自業自得だが、やはり女が哀れだ。
さっさと別れればいいのに、とは他人事だから思えることだ。今のイルカには身にしみて分かる。
イルカは床に膝をつき、ぺしぺしと男の頬を叩いた。ぼんやり目を開いた男が、自分を見下ろしている人間がいることに気がついて「ひっ」と息を詰めた。幻術のせいで男にはイルカの顔は把握できないはずだ。ただ、暗がりの中、すぐそこに誰かがいることだけは分かるだろう。
「これは返して貰うからな」
イルカは低く響く声で男の耳に吹き込んだ。
ぐい、と男の胸ぐらを掴み顔を間近に寄せて更につけ加える。
「今度やったら殺すぞ。女もだ」
「な、なにを…」
手足をばたつかせようとした男の顔をイルカが一撫ですると、くったりとその体から力が抜ける。イルカは布団の上に男を放り出して部屋を出た。
これで少しは危機感を持ってくれればいいのだが。
戸口で待機していた医療忍を伴って、イルカは真夜中の通りを横切って宿へ帰った。
「ずっと目の前に目標はあったんですねえ」
と、医療忍が力なく笑った。