「黒い犬がいるのかと思いましたよ」
 カカシは宿舎の廊下を自分の部屋へとイルカを案内してくれた。
「これ。しっぽが最初に見えたから」
 そう言って後からついて行くイルカを振り返って、括った黒い髪に手を伸ばした。イルカを見ても別に嫌そうな顔はしなかった。むしろ上機嫌そうだ。
「どうぞ。出掛けた時のままで片づいていないんですけど」
 カカシはドアの鍵を開けてイルカを中に入れた。
 入り口のすぐ横に小さなシンクとガスコンロが一つ、ドアを開けるとすぐベッドが見える小さなワンルームだ。玄関横の壁に靴箱が刳り抜かれているが、基本的に靴は脱がずに入る。ベッドの隣に備え付けの事務机が置かれている。イルカも昔、お世話になった中忍用の宿舎と大差ない。
 散らかっているとカカシは言ったが、散らかるほどの物もない。任務に出る前に整えたのだろうベッドの脇に、解いたままの装備が置かれているくらいだ。上掛け布団が手裏剣柄なのが小さな男の子の部屋のようで可笑しかった。
 壁に立てかけてあった折りたたみ式のテーブルと椅子を組み立てて、カカシはイルカに座るように言った。テーブルに椅子は一つしかなく、他には事務机についている椅子とベッドの上しか居場所がない。
 イルカを座らせてカカシはシンクの横に置かれていた湯沸かし器に水を入れ、スイッチを入れた。お茶を煎れてくれるつもりらしい。セットされたのは宿屋の部屋に置かれているような小さなステンレスの湯沸かし器だった。本当に必要最低限の物しかここには置かれていないようだった。
「なんだかうちにイルカ先生がいるのって不思議な感じですね」
 シンクに凭れて、座っているイルカを見ながらカカシは言った。顔の下半分を覆う布を引き下ろして寛いだ姿勢を見せる。
「今日はどうしたんですか?」
 尋ねられてイルカは自分がとても非常識なことをしでかしたような気がしてきてしまう。
「夜分に押しかけてしまってすいません。あの、これ…」
 イルカはおずおずと腕に抱えた包みをカカシに差し出した。
「末川屋の佃煮と、お握りです。明日の朝、お茶漬けにでもしてください」
「え?」
 きょとん、とカカシが目を見開く。
「欲しいって言ってたでしょう。今日、誕生日だから」
「それで待っててくれたんですか?」
 カカシは渡された包みとイルカの顔を交互に見て声を上げた。語尾が跳ね上がっている。
「嬉しいです。ありがとうございます」
 そう言って笑ったカカシの白い頬にうっすらと赤い色がさして、イルカはどぎまぎした。なんで自分なんかにそんな顔を見せるんだ。他に好きな相手がいるくせに。そんな顔をされたら、カカシは自分のことが好きなんだと勘違いしてしまうじゃないか。
 一度も好きだと言われたことがないのに。また馬鹿な夢を見てしまいそうになる。
 開けてもいいですか?と尋ねるカカシに、どうぞ、と応えてイルカは目を逸らした。テーブルの木目に視線を落とす。傍らに立ったカカシがガサガサと包みを開けてゆく。
「これ、以前イルカ先生と一緒に末川屋に行った時に食べてみたいなあって思ったんですよ。一人ではなかなか買わないでしょう。明日の朝、一緒に食べましょう」
 カカシは嬉しそうに笑って手を差し出した。白くて大きな掌がゆっくりとイルカの肩から腕へ、意味を込めて辿る。さっき、髪を触られた時も、今も、カカシの手に触れられるだけで、じん、と体の芯が痺れるような心地がする。銀色の髪も白い指先も、笑うと目の下に出来る皺も全部が好きだ。
「カカシ先生」
 カカシの手をやんわりと払ってイルカは呼びかけた。
「はい?」
 鼻歌でも歌い出しそうなカカシに、言い出すのを躊躇うが流されるわけにはいかないともう一度覚悟を決める。
「今日は、ガイ先生と会ってたんですか?」
「え?ああ、会いましたよ」
 やっぱり。
 予想はしていたけれど、直接カカシの口から聞くとショックで一瞬、息が詰まる。
「それで…」
 それで…?
 なんと訊くつもりなんだ、自分は。ガイ先生と会えて楽しかったですか?少しは想いを伝えられたんですか?そんなことを俺の口から言わなきゃならないのか?だけど、自分から言及しなければどうにもならないんじゃないか−−−。
 逡巡するイルカにカカシが先に言葉を継いだ。
「あなたが心配する事じゃありません。あなたは関係ない」
 素っ気ない言葉がイルカを凍りつかせた。
「−−−…っ」
 口を開けて何かを言おうとして、言えずにただカカシを見上げたイルカに、カカシはにこりと笑いかけた。
「俺とガイの間で話はついていますから」
 なんだ、それは。話はついてるってどういう事だ。関係ないってどういう意味だ。
「関係なくないでしょう!」
 突然、ひきつった怒鳴り声をあげたイルカをカカシが驚いて見つめる。
「二人で納得して俺は蚊帳の外ですか!?あなたにとって、俺は一体…っ」
 なんなのだ!?とは問えなかった。答えを聞くのが怖かったのだ。ここまで来て怖じ気づいている自分が情けない。
 だが、ガイとカカシの間では気持ちが通じ合っていて、それなのに自分に触れてこようとするこの男の意図をはっきりと聞いてしまうのはあまりに辛い。気持ちはガイにあるのに、イルカには体だけを求めているのか。カカシの中の一番きれいなものは他の人間のもので、イルカに向けるのは浮ついた欲心だけなのか。テーブルの上で拳を握りしめたイルカを見下ろして、カカシが溜息をつく。
「そんな風に言われても納得して貰うしかないです。こういう事はあまり言いたくはないですが、俺達は上忍でイルカ先生は中忍なんですから」
 ガツン、と頭を殴られたような気がした。
 目の前の光景が歪んで見える。
 あ?なに?俺は中忍だから二号さん扱いなわけ?
「もうこの話はよしましょう。折角、あなたが家に来てくれたのに」
 ね?と肩に置かれた手をイルカは思い切り振り払い立ち上がった。がたん、と椅子が大きな音を立てる。
「別れましょう」
 カカシの目を真っ直ぐに見て言った。
 カカシが何を言っているのか分からないという顔をする。
「別れましょう、俺達」
 もう一度、はっきりと言った。
 びくん、とカカシが肩を揺らした。彼が目に見えて動揺するのが分かったが、かまうものか。こんな扱いを受けて黙っていられるわけがない。
 相手を判断するのは階級だけじゃない。ガイだって言っていた。二百両の壷より一両の壷の方が大切だっていう人間だっている。
 −−−自分も、この人にとってそういうものになりたかった。
 目頭が熱くなって視界が曇った。イルカは唇を噛みしめて耐えた。今は泣く時じゃない。後でいくらでも泣けるのだから、今は毅然としていたい。最後まで見くびられたまま終わるのは嫌だ。
 でもガイにまでそんな風に思われていたなんて信じたくないな。
 あんなに良くしてくれたのに。
 食いしばった唇を無理矢理に解いてイルカは最後の問いを発した。
「ガイ先生は俺達のことを知っているんですか?」
 カカシが不快そうに眉を顰めた。
「知るわけないでしょう」
 悪びれもせず言う。だが、それだけ聞ければ満足だ。ガイはイルカとカカシの事を知らない。ガイには裏切られてはいない。それだけが救いだ。
 ほっと息をついたイルカにカカシが苛々した様子で尋ねる。
「なんなんですか、それがそんなに重要なことなんですか?」
 一歩、間合いを詰められてイルカは後ずさった。
「もしかして、俺とのことをガイに知られたくない?」
 イルカの中を見透かそうとでもいうように露わになった片目を眇め、カカシが近づいてくる。その目に浮かぶ剣呑な光が記憶を刺激して、イルカの背を嫌な汗が伝った。
 いつか、見た光だ。
 テーブルを挟んで立っていたカカシの向こうに部屋のドアがある。後じさりながらイルカはそのドアと後ろにあるベッドを見比べた。頭の中で警鐘が鳴り響く。こんなカカシを以前も見た。狂おしい光が青い目に宿って、それが次第に冷たい静かな、凍りついたような蒼に変わってゆくのだ。
 −−−あれは、初めてカカシに抱かれた晩だ。
「………っ」
 腕を掴まれてイルカは息を呑んだ。カカシの掌がひどく熱かった。
「そういえば随分、息が合っていましたものね。あの塔で」
 パチチ、と小さな青白い光が腕を掴んだカカシの手から飛び散り、空間が囀った。イルカの腕を掴んだまま、もう一方の手で額宛を毟り取りカカシが目を細めた。
「どうやら俺のやり方は甘かったみたいですね」
 イルカの眼前にひどく美しい男の笑顔があった。



拗れる、拗れる。




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