「右側上げろ!馬鹿、そっちは左だ!!俺から見た右だ!!箸持つ方!!そっちの金髪頭!もっかいアカデミーやり直すか!?」
男の怒鳴り声がびんびん響き渡る。腹にくるそれは鍛え上げた腹筋から搾り出される類の声だ。青い空を背景に時代がかった衣装を着た男女の描かれた巨大な看板が右に左にゆらゆら揺れている。木の葉の里唯一の映画館の屋根をイルカは眩しさに目を細めながら見上げた。看板の陰に小さな人影がちらちら見える。屋根の上で強風に煽られながら子供の細っこい足が踏ん張っている。命綱をつけていることは知っているが心臓に悪い光景だ。
「押すな!右だって言ってるだろ、このウスラトンカチ!」
巨大な看板の両端をそれぞれ支えながらサスケがナルトに怒鳴りつけた。地上からの指示の声とは逆の方向へ看板をぐいぐい押しているナルトにキレたらしい。
「誰がウスラトンカチだってばよ!その言い方ムカつくからよせって言ってるだろ!!」
「ウスラトンカチにウスラトンカチと言って何が悪い!」
サスケの方が背が高いのでナルトはもう少し手を揚げなくては看板は真っ直ぐにならないのだ。ナルトは自分が小さいということを自覚していないからピンとこないらしい。
だから右側上げろって!
イルカもハラハラ見守りながら心の中で叫んだ。口にも出そうになったがぐっと堪える。
屋根の上の少年達はギャーギャー言いながらなんとか看板を真っ直ぐにした。
「よーし!その位置!そこで固定しろ!」
漸く位置が定まったらしく建物の下から声を張り上げていた男が二人に指図する。
頑張っているみたいだ。
男に言われるまませっせと作業をする少年達を見てイルカはほっと息をついた。
いくら危険度の低い、任務とも呼べないような雑務レベルの仕事であっても彼らだけに任せるのには不安があった。担当上忍のいない間に勝手に任務に就かせて何かあっては大変なことになる。帰ってきてこのことを知ったら嫌な顔をされるかも知れない。火影の承認は受けたが自分の部下を勝手に使われていい気持ちのするはずがない。カカシの冷ややかな顔を思い浮かべてイルカは少し滅入った。自分達は色々なことで考えが合わない。更に人間のタイプも違う。イルカは怒ると熱くなる質だがカカシは冷たくなる。
思わず遠くを見つめてしまったイルカを大きな声が呼んだ。
「イルカッ、せんせ〜〜!」
見上げればナルトが屋根の上でぶんぶん手を振っている。
「おー、頑張ってるかー?」
イルカも笑って手を振り返した。
「もっちろーん、だってばよ!」
下にいる自分によく見えるようにといつもよりオーバーリアクションになっているナルトにサスケが落っこちるんじゃないかと眉をしかめている。
「おう、うみの」
依頼主であり監督官でもある男が肩越しにイルカを見て短く言った。
「お疲れ様です、ヒタキ上忍」
イルカはしゃんと延びた背中に一礼した。
木立ヒタキは上忍だが七十を目前に第一線を退き、今は看板屋を生業にしている。有事の際には戦闘員として働くが普段は一般人と変わらない生活をしている。絵を描くのは現役時代からの趣味で人相書など得意だった。その趣味を生かして看板屋になったということだ。
「どうですか、あいつら」
「ギャーピーうるさいな。特に金髪の方」
「はは…」
ナルトの奴…、イルカはこめかみを押さえた。
「でも絵はあいつの方が上手いぞ。黒髪の方はあんまり下手クソだからおまえ、看板屋にはなれねえぞって言ってやったらムキになって物騒な目玉ぐるぐるさせてなあ、そしたら随分ましな絵を描くようになったよ」
サスケもか…ていうか、
「ヒタキ上忍、あの子達は別に看板屋に弟子入りしたわけじゃないんですが」
「なんだ、おまえが監督よろしくお願いしますっていうから俺は立派な看板描きに育てる気満々だったんだぞ」
冗談ともつかない口調で言うヒタキにイルカは眉を下げて笑った。
「曖昧な時は笑うな。癖になるぞ」
さっくりと釘を刺される。慌ててイルカは口を引き結んだ。上忍という人種はこうだった。曖昧な笑顔でのらくらかわすのは受付のスキルだがそれが通用しない相手もいる。
「看板屋にはしませんよ」
「当たり前だ。冗談の分からない奴だな」
腕組みでふんぞり返られてイルカはがっくり肩を落とした。上忍という人種は…。
「イルカせんせー!」
作業を終えて屋根を降りてきたナルトがイルカに駆け寄った。そのまま正面からイルカの腰にぼふんと抱きついてくる。仰け反りそうになるのを堪えてイルカは金髪の頭をわしっと片手で掴んだ。イヒヒと笑いながら大きな青い目が見上げてくる。
「おまえな、あんな所で喧嘩するな。危ないだろーが」
「あれ、オレとサスケとおっちゃんの3人で描いたんだぜ。スゲーだろ!」
イルカの小言をあっさりスルーしてナルトは自分達が取り付けた看板を得意そうに見上げて言った。あのへタックソな馬はサスケが描いたんだってばよ、とこそっと付け加えた。たしかに画面の隅に妙に鼻の穴の大きな馬のような河馬のような動物がいる。あれはサスケが描いたのか。
「右左もわかんねーバカに言われたくない」
あとからやってきたサスケがむすりと呟いた。思わず笑ってしまったイルカをサスケは恨みがましそうに睨んできた。
「いや、初めてにしては上出来じゃないか?馬なんて木の葉じゃあんまり見かけないしなあ?」
イルカのフォローにサスケは顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。
「ばっか、観察眼、記憶力も忍びにゃ必須の能力だろが。馬くらい空で描けなくてどうするよ。ちびの方も、方向くらいすぐ判断つけろ」
ヒタキがぽこぽこと二人の少年の頭を叩いた。どうやら厳しい親方のようだ。少年二人は同じように口をひん曲げてぶーたれ顔をした。こうしているとサスケもナルトと同い年の子供に見える。アカデミーの教室で一人だけ大人びた顔つきで周囲を睥睨していた頃と比べると表情も生き生きしているような気がする。今の環境がサスケには合っているのだろう。
館主に作業終了だって言って来るからそれまで休憩だ、と言い置いてヒタキは映画館の中へ入っていった。
「先生、先生、いい物見せてやるってばよ」
くいくい、とナルトに脇からイルカの袖を引っ張った。ん?と屈み込むとナルトがポーチから大事そうに小さな布袋を取り出した。普通は丸薬などを入れておく小さな巾着だ。
「これ、面白いだろ」
袋からナルトの手のひらに転がったのは小さな黒い種だった。白いハート型が入っている。
「フウセンカズラか」
「なんだぁ、知ってるの?」
呟いたイルカにナルトががっかりしたように口を尖らせた。
「昨日、サクラちゃんにもらったんだってばよ」
ハートマークだってばよ、どう思う、先生?頬に紅潮させて聞いてくるナルトに思わず笑みを浮かべてしまう。それはおそらく昨日の帰りにサクラの任務先である保育所へ様子を見に立ち寄った時、ポケットに入りっぱなしになっていたのを思い出してイルカがサクラにあげたものだ。回り回ってまたイルカの目の前にある。
「それはそういう形が自然にできるんだ。サスケももらっただろ?」
三つあったからきっと一つはサクラ自身用に、一つはナルトに、もう一つはサスケにやったのではないだろうか。
「ああ」
関心なさげに、でも一応という感じでサスケは低く頷いた。
「えー、なんだよ、サスケももらったのかよ」
あからさまにがっかりするナルトに、言わなくてもいいことを言ってしまったかなとちょっとイルカは後悔した。でも二人にお揃いの物を贈ったサクラの気持ちも汲んでほしい。いつもならサスケにしか自分と揃いの物なんて贈らないだろう。彼らの上官の口癖であるチームワークが育ってきている証拠かもしれない。
「いいじゃないか、3人お揃いで。大事にしとけよ」
うーぃ、と気のなさそうな返事を返しつつ少年二人はお互いをちらっと見やった。
その様子を見て、おや、とイルカは思う。本当に仲良くなってるんじゃないか、この二人?
仲が良いとは少し違うかも知れないが互いを意識し合っている様子はあからさまだし、ナルトにこんな風に接したりアイコンタクトを取るような相手が今までいただろうか。
「おーい、休憩終わりだ。片すぞー!」
映画館の入り口から顔を出したヒタキが大声で呼んだ。
「オーッス!」
呼ばれた二人は映画館の壁に設置されたままの梯子や工具を片づけるために走っていこうとしたが、ふと思い返したようにナルトが振り返った。
「なんかイルカ先生、元気なくない?」
青い目が真っ直ぐにイルカの目を見上げてくる。不意打ちでイルカは言葉が返せなかった。
ナルトはいつでも誰が相手でも真っ直ぐに目を向ける。普段は好ましい視線の強さが、今のイルカにはなんだか痛く感じられた。自分が今、落ち込んでいる理由なんて絶対に言えない。自分が彼らの懐いている上官の女になっているなどとこの子供達にだけは知られたくない。どうして急に少年の視線にいたたまれなくなるのか。逆にどうして今まで平気でいられたのだろう。恥じることではないと思っていたはずだ。もう少し彼らが大人になったら話してもいいと思っていた。
恋人だったら胸を張って言える。俺が好きなのはこの人なんだ、と。
カカシに他に恋人がいて自分は遊びの相手なら、それは不義だ。自分の中でとても綺麗だと信じていた物がいきなり薄汚い物に変わってしまったのだ。子供達の苛烈な視線の前にそんなものを晒せるものか。
「ああ、ちょっと腹壊しててなあ」
イルカは誤魔化すように笑った。
「なんだよ、賞味期限の切れた牛乳とか飲んだんじゃねーの?」
しょうがねえなあ、先生は、呆れた顔でナルトが言う。
「ナルト!」
「今、行くってばよ!」
サスケに呼ばれて応えてナルトはそれでも心配そうな視線をイルカへくれた。
「じゃあな、先生。腹冷やしちゃだめだぜ」
おう、と手をあげて応えるとナルトも後片付けをするために走っていった。