「うみの隊長、交代の時間です」
小隊の隊員が屋根裏部屋の床にくり抜かれた跳ね上げの戸から顔を出した。
「ついでに飯持ってきました。どうぞ」
「ありがとう」
イルカは口元だけで笑んで部下の差し出した包みを受け取った。
「なかなか動きませんねえ」
イルカの横に座り、建物の屋根のすぐ下に開けられた小窓から小路を挟んだ向かいの建物を見た。
イルカは火の国のとある地方都市にいた。
カカシに振られた傷心のあまりに里外任務に志願した。わけではない。
小さい頃から世の世知辛さを身に沁みさせてきたせいかイルカは生活に関してあまり衝動的な事は出来ないのだ。
俺が泣いてたって、どうせお日様は昇るのだ。コンチクショウ。
アカデミーでは子供達が待っているし、職場に行けば同僚も友人もいる。それに三代目に会えるし。
今更ながら、イルカには三代目が慕わしく思える。
もう三代目LOVEだ。
ナルトが自分の手を離れたから縋る先をまた三代目へ求めているのじゃないかと思いもするのだが、それも今に始まった事じゃない。今までだって優しく抱きしめてくれたあの腕がずっと支えだった。自分だけのものではないけれど、だからこそ色恋の相手のように簡単には失うことがない。犬のように忠実に、無心に彼の足下に従えられていれば満足する。
公共心とか忠誠心とか、そういうものの大雑把な安心感に傾きがちなイルカの性情を人は実直だと評し、純粋だと言い、朴念仁と呼ぶ。私利私欲の薄い人間のように思われがちだが、イルカは自分の心の平安を優先させているにすぎないのだと思う。
浮気されて相手に当たり散らして刺すの刺されたの、それで辺境へ左遷、とか。やれるものならやってみたい。まあ、まず自分にカカシを刺せるだけの腕はないが。
そういう刹那的なものは、自分には向いていない。だからきっと自分の手には入らないだろう。
別にそれでもいいや。
三代目LOVEだ。
半ばやけくそにそう思っていた所に里外での任務が舞い込んだ。
任務内容は盗難品の奪還。
依頼人は地方の公家だ。
ぞっこんラヴの意中の相手に「これ、イルカ、この件はおまえがあたれ」と言われたら「ワン」と吠えて従うのが忍びというものだ。
任務のランクはCランクで若い中忍三名が部下についた。中忍になったばかりだという二十歳前の青年が一人混じった小隊は全員イルカよりも年下だった。任務経験もイルカが一番積んでいる。自分がその年齢の頃、部隊長や先輩達がそう見えたように、彼らには自分が大人で思慮深く冷静な男に見えているだろう。
実際には同性の上忍に遊ばれて失恋したての情けない男にすぎないのだが。
先輩達にもよく「振られたからつき合え」と言われて飲み屋に引っ張り込まれたっけなあ。
里に帰ったら久しぶりに友人達と飲みにでも行こうかな。
部下に渡された握り飯を頬張りながらイルカは考えた。つけ合わせの大根の粕漬けが旨い。
「うみの隊長はこの街は二度目なんですよね?」
窓の外を伺いながら若い部下が言った。
「ああ」
イルカがこの街へ来たのは初めてではない。三年ほど前にも一度、この街で同じような任務に就いたことがあった。素封家の家から古美術品が盗み出されて他国に流出する事件が続いた。犯人は捕らえて官憲に引き渡したが、その男が牢から出た途端にまた今回の事件が起こった。代々地方官を務める家の家宝の壷が盗まれたのだ。
手口からおそらく同一犯の仕業だろうということで前回の事件を担当したイルカが三代目に指名された。
ちょうど秋の繁農期で数日アカデミーは休みだった。
「捕まったのになんでまた同じ事しちゃうんですかねえ?」
張り込みの交代に来た部下が言った。犯人の男は牢の中では模範囚で通ってきたと聞く。もう二度としませんと言っていたはずだった。
「同じ街で同じ手口、同じ売買ルートに同じ女」
通りの向かいにある女の家の出入りを監視しながら若い忍びは調子をつけて言った。
「バレバレじゃないですか。再犯だったら刑期も長くなるって分かってるのに」
「他に出来ることがないからだろう」
イルカは屋根裏に持ち込んだポットから茶を汲むと口の中の飯粒と一緒に飲み込んだ。
「刑期を終えて娑婆に出てきたって前科者を雇ってくれる所なんてなかなかない。金もないし知り合いとも縁が切れてる。そんな時に昔の仲間に声を掛けられたら−−−」
行き場がない、そのことが辛い。見知った世界なら、それが危険で良くないことだと分かっていても安心する。今まで自分の培ったものをゼロにして再出発するというのは考えるよりもはるかに難しいのだ。
「でも、繰り返さない奴だっている」
「そうだな。繰り返さない人間もいる」
繰り返す人間はやはりどこかが弱いのだ。
「盗みなんて割に合わないに決まっている」
それでも安易な道を選んでしまう。今のイルカには耳が痛い話だ。目前にある痛みより長く緩やかな壊疽を望んでいる。
「結局自分が信じられないってことかな。心の底ではやり直しなんてできっこないと思ってるんだろうな」
盗人まで身を落としてきた男の事情は知らないが、けして思い通りの人生でなかったことだけは確かだろう。次にチャンスがあると思えば今を棒に振ることなどしない。それが望めないような境遇にいたという事だろう。
「女がかわいそうだ」
若い忍びがぽつりと言った。
部下の持ち込んだ握り飯を平らげてイルカは張り込み用の部屋から出た。建物自体は二階建ての簡易宿泊所で屋根裏部屋を借りることが出来た。地方から職を探しに来た若者や流れ者が一時、身を預けるような小さな宿は日々様々な人間が出入りしている。三年前もここで向かいの小さな平屋に住む女と、その情人を張っていた。宿の裏には細いどぶ川が流れていて界隈には一日中悪臭が立ちこめている。
イルカはそのどぶ川沿いの裏口から外へ出た。
里の中にいると自分達の生業の特殊さを忘れてしまう。
盗みしか知らずに育って盗みしか出来ない人間と忍びとして育てられ、忍びとして以外の生き方を知らない自分達のどこにそれほど違いがあるのか。合法、非合法のぎりぎりのグレーゾーンにいる自分達と彼らとの違いは社会的に存在を認められているか否かにしかない。認められていると言っても隠れ里という隔絶された土地に封じられているからこそだ。
あの障壁の内側だけが楽に呼吸できる場所なのだ。
カカシはどうしているだろう。
カカシも今は里を離れ、どこか見知らぬ土地で見知らぬ人々に囲まれて息を殺しているのだろうか。
空を見上げるとこの街のどこからでも見ることが出来るという細く黒い塔が視界の隅に映った。
空さえ違う。
早く里へ帰りたかった。
そうして、もうなんでもいいからカカシに会いたい。