イルカが自分の家にいる。
新鮮だった。
殺風景な仮寝の部屋もイルカの存在があると急に安定感がでる。
シンクを背に、凭れ掛かりながら部屋の折りたたみ式の椅子に座っているイルカを眺めた。イルカは恐縮しているらしく姿勢を正してきっちりと小さな椅子に納まっていた。
自分の顔はさぞかし脂下がっているに違いない。十日ぶりに見るイルカだ。イルカの方も任務の後のせいか、いつもよりも引き締まった顔をしている。
「あの、これ…末川屋の佃煮と、お握りです。明日の朝、お茶漬けにでもしてください」
イルカがおずおずと腕に抱えた包みをカカシに差し出した。
「え?」
首を傾げたカカシにイルカが続けた。
「欲しいって言ってたでしょう。今日、誕生日だから」
あ、とカカシは思い当たる。二週間近く前、イルカの家で一緒に夕飯を食べている時にそんな話をした。覚えていたのか。そうだ、誕生日は予定はあるかと訊かれたんだった。あの時には既に任務に出ることが決まっていたし、ナルト達にも約束をさせられていたから予定は詰まっていると答えたのだ。
あれ?もしかして、イルカ先生が今日休みを取っていたのってそのせい?
カカシの中で小さな状況的断片が組み合わさって、目の前のイルカになる。シフト表を提出するのは一ヶ月前だと言っていたから、そんな前から準備をしていてくれたのだろうか。
「それで待っててくれたんですか?」
思わず語尾が跳ね上がった。かーっと顔に血が集まるのを感じた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
嬉しくてどうしたらいいのか分からなくなる。部下達との関係は仕事の延長だからある程度、割り切って接することが出来る。でもイルカは違う。こういう時にどうしたらいいのかカカシはよく分からなくなる。とりあえず、目の前の包みを解くことにした。海苔の巻かれていない白いお握りも包みから出てきた。さすが、イルカ先生だ。これなら夜中に腹が減っても大丈夫だ。
カカシはそっとイルカの肩に手を伸ばした。その手はやんわりと払われてしまったがイルカの硬い表情にカカシは気がつかなかった。
「今日は、ガイ先生と会ってたんですか?」
「え?ああ、会いましたよ」
「それで…」
とイルカが何か言いたそうにしているのに気がついてカカシは言った。
「あなたが心配する事じゃありません。あなたは関係ない」
他の部隊の任務に乱入してしまったのは上官であるガイの責任だ。元々の部隊長はイルカだったらしいが、上官にあたるガイが責任を取るのが筋だ。
安心させようとして口にした言葉だが、イルカは表情を凍りつかせた。
真面目な人だからな。他人に責任を負わせてお終いには出来ないのだろうか。でも不可抗力の事故として処理されたし、ガイにお咎めもなかった。衝突した部隊の隊長であるカカシとガイの間でも一応、話は終わっている。カカシはにこりとイルカに笑いかけた。
「俺とガイの間で話はついていますから」
だから大丈夫ですよ。
だがイルカは突然、大声を出した。
「関係なくはないでしょう!二人で納得して俺は蚊帳の外ですか!?あなたにとって、俺は一体…っ」
くっとイルカが唇を噛みしめる。その表情を見つめながらカカシは考えた。部隊長の交代でイルカも精神的に参ったのかもしれない。自分の任務を他の者に取られるのは依頼人や里に無能だと判断されたも同然で、忍がもっとも恥とするところだ。だが、それが上層部や依頼人の意向ならば従わなくてはならない。そんなことはイルカも承知しているはずだ。なのにこんな風に食い下がられるのは頂けない。ちょっと感情的過ぎやしないか。
カカシは溜息を落として言った。
「そんな風に言われても納得して貰うしかないです。こういう事はあまり言いたくはないですが、俺達は上忍でイルカ先生は中忍なんですから」
カカシが何故、あの塔にいたのかは任務に関わった者達にしか言うことは出来ない。極秘任務だったからだ。それにそもそも、あの依頼は最初はガイかカカシにと打診がいったのだ。ガイの方が担当している下忍達も二年目だし、少しは余裕があるだろうと思われたが、ガイは直前まで班での任務が入っていた。だから結局、カカシが行く羽目になった。他の名のある上忍達は皆、里外任務に当たっていて人手がなかったのだ。
「もうこの話はよしましょう。折角、あなたが家に来てくれたのに」
プライベートな場所でまで仕事の話なんてしたくない。階級差の話なんて無粋なだけだ。
だが、イルカはカカシの手を猛然と振り払って立ち上がるとカカシを睨みつけて言った。
「別れましょう」
は?とカカシはイルカの顔を見つめた。
「別れましょう、俺達」
一言一言をことさらはっきりと言われた。
耳から脳へ、意味が通じた途端、どこかの不随意筋が痙攣した。
何を言ってるんだ、この人?そんな風に憎々しげに自分を睨みつけて、さっきはあんな、俺の顔を見て嬉しそうに笑ってくれたのに。何を言っているんだ?
反応できずにじっとしていると、イルカが無理矢理にという感じで口を開いた。まるでもうカカシには声など聞かせたくないとでも思っているようだ。
「ガイ先生は俺達のことを知っているんですか?」
なんでガイの話なんてするんだ。
「知るわけないでしょう」
カカシが苛ついて言った答えに、イルカはほっとしたようだった。
あの塔で、ガイとイルカは背中合わせで、息を合わせ、チャクラを合わせて戦っていた。ガイの演舞のような美しい軌道に、イルカはぴたりと寄り添い鮮やかに草の中忍達を倒していった。おそらく、あれが忍としての本来のイルカなのだ。
目に浮かんだ光景にカカシの額宛に隠された赤い目がずきずきと疼いた。