「水鳥の恋-イオザの海3-」
「お待たせしました」
「コンニチハ」
「こんばんは」
えーと、待ちました?イルカが訊くといいえ、と答えが返ってくる。
アカデミーの職員用の昇降口の外の植え込みに座り込んでいた男はズボンを払って立ち上がる。立つとイルカより上背がある。ひょろりとした猫背の男は飄々とした雰囲気のせいかあまり大柄に見えない。
「やっぱりどこか屋根のあるところで待ち合わせればよかったですね」
「別に天気が良かったからいいです」
「でも、もう日が暮れてしまったし」
「構いません」
男の素っ気無い口ぶりにイルカは言葉の継ぎ目を見失う。
困惑して見上げた背中に枯葉がついているのを見つけてイルカは手を伸ばした。
「なんですか?」
びくりと振り向いた男にイルカは笑って摘んだ枯葉を示した。
「背中についてました」
「ああ。どーも」
男は眠たげな目を泳がせて困ったような顔をした。顔の大部分を布と額あてで覆っているから分かりづらいが照れているらしかった。イルカは男の反応に意外な思いをする。
イルカは現在、この一見茫洋とした、その実、木の葉の里屈指の上忍と恋愛感情を前提とした交際をしている。
恋愛感情を前提とした、というのもなにやらまだるっこしい表現だがつまり「どうやらこの人は自分の事が好きらしい」というのと「この付き合いには色恋がらみの諸々が含まれるらしい」ということだ。
先日、受付でイルカの前に立って男は唐突に「イルカ先生にお話があります」と言った。
普段マイペースを崩さない男が珍しく思い詰めた顔をしていたのでとても不安になったのを覚えている。
アカデミーでの仕事を終えて、約束をしていた空き教室に足を運ぶと男は既にそこにいた。
イルカが引き戸を開けた音に振り向いた男の顔つきが緊張を孕んでいてイルカも顔が強張るのを感じた。まさかナルトやサスケに何かあったのかと問題だらけだった生徒の顔を思い受けベたが、話があるといった当の男は口を開かない。
自分から水を向けるべきかとも思ったが、なんだか気を飲まれてイルカも言葉を発する事が出来なかった。
ふと、男の目が頼りなげな光を滲ませた。
逡巡するように俯いて、ふ、と吐息をついた。
西日の差す教室で銀色の髪が日の光を弾いていた。
触れれば手の切れそうな鋼のような男。
綺麗な男だな、とイルカは場違いな事を考えた。
「イルカ先生、俺とお付き合いしませんか」
綺麗な男が言った。
言葉の意味が分からなくてイルカは怪訝な顔をした。
「はあ」
「どこへですか?とかお約束なこと訊かないでくださいね」
そう言い掛けていたイルカはぐう、と言葉を詰まらせた。
「俺はそういう意味で言っています。恋愛関係になりましょうってゆってるんです」
男はあくまでも淡々と続けた。言葉の内容とその態度にギャップがありすぎてイルカはいまひとつ男の真意を計りかねた。
「恋愛関係---と申しますと」
「俺と番になってほしいんです」
つがい、とイルカは繰り返して呟いた。
番というのはあれだ、動物の雄雌がペアになって営巣活動に励んだり、子供を産み育てたり。
「すみません、もう一度確認していいですか?誰が何とどうしたいんですって?」
「俺が、あなたと、恋愛したいんです」
イルカは眉を寄せ眉間に皺を刻んだ。
「それは任務かなにかで?」
「いえ、プライベートです」
「公務ではないんですね?」
「公務じゃないとダメですか?」
「いえ、」
イルカは混乱した頭で目の前の上忍を見つめた。
向こうもじっとイルカを見つめ返してくる。
眠たげな目が今は真摯な光を湛えて自分を捉えている。
この男にこんな風に見つめられるのは初めてではないだろうか。
いつもこの男が自分にくれるのは気のなさそうな一瞥だけで、声を掛けるのも挨拶と子供達のちょっとした近況くらいで、言葉遣いは丁寧だが取っ掛かりも引っ掛かりもなく、態度は変わらず飄々とつかみ所がなかった。
ああ、でも一度だけあった。この男が鋭いほどの視線を投げて自分を切り刻むような言葉を吐いた。中忍選抜試験の受験者推薦の時だ。
あの時は悔しくて腹立たしくて「エリートの上忍様に何が分かる!」と息巻いたものだが、結局はこの男の方が正しかった。担当ではなかった試験に無理矢理関わらせてもらい、子供達の成長振りを目の当たりにして、イルカは己の生徒に対する過干渉ぶりを反省した。当のナルトに「もう子供じゃないんだってば」と言われて、己の行き過ぎた愛着に危惧を抱き、密かに自省した。
あの時は数日シクシクと胸と胃が痛んだものだ。
「で、どうですか?」
「え、何が?」
当時の事に思考が飛んでいたため呆けた答えを返してしまった。
「イルカ先生、状況認識に問題アリですよ。内勤に戻ってもう感覚が鈍ったんですか」
呆れたように言われたが、しかしイルカにはこの状況がどういう事なのかうまく把握できなかった。
この男は自分に「番になって欲しい」と言う。
それはなんだ、自分と営巣活動に励みたいという事か?
恋愛がしたいと言う。
それはつまり、この男は自分の事が好きだとでもいうのか?
-----------ありえねえ。
イルカの感覚はそう訴えてくる。実戦を離れ内勤に戻ったのは数ヶ月前だが、そんなに感覚が鈍ったとも思えない。
大体、この目の前の男からはそういった色めいた匂いがしない。
状況が認識できていないのはこの男の方ではないだろうか。
だが、何かしら切迫した必死さのようなものはその目に滲んでいた。
濃紺の、角度によっては黒くも灰色にも見える隻眼がイルカをじっと見つめていた。
こんな訳の分からない申し出を受け入れるわけにはいかない。
前線で他に選択肢のない状況であるなら仕方ないかもしれないが、今の状況で同性同士が営巣活動に励む意義がどこにあるのだ。
そう考えはしたのだが。
つい、イルカは思ってしまったのだ。
こんな綺麗で強い男に求められるなんてことはこの後一生ないだろうなあ、と。
好奇心、というのだろうか。
男同士で一体何をしたいのだか分からなかったが、じゃあ付き合ってみましょうかと思わず応えてしまった。
え、と男は仰け反ってまじまじ自分を眺めていた。
自分から言い出したくせに驚いている。
本気じゃなかったのかな。やっぱりなんかのドッキリとか?
「やめときますか?」
尋ねると男はぶんぶん首を横に振って、「お願いします」と頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
そう言って二人は固い握手を交わした。
その日から律儀にこの上忍はイルカの仕事の終わるのを待っているようになった。
一緒に帰って途中で適当な店に入って一緒に夕飯を食べる。余裕のある日はアルコールが入ることもある。
ナルト達が下忍になった時からだから知り合って結構な年数になるのだが、個人的に話した回数は数えるほどだ。先日の任務で10日ほどを一緒に過ごしたが、戦闘があるような任務でもなくただ獣の生殖活動を観察するという奇妙な内容だったため噂の写輪眼を目にする機会もなく、二人して砂浜を眺めながらぽつぽつと言葉を交わしただけだった。
男は口数が少ない。
下忍の少年少女たちと一緒の時も必要以上の言葉を吐いているのは見たことがないような気がする。
だらりと間延びした声で元気すぎる子供達の後ろから指示を出す姿はちぐはぐなようではまっていた。
クスリ、と笑いを漏らしたイルカに目の前で筑前煮を摘んでいた男が不思議そうな目を向けてくる。
「ああ、いや、思い出し笑いです」
すみません、と言いながらイルカはまた頬を緩めた。
行きつけの一軒である狭い割烹料理屋の狭い卓に大の男が向かい合って座っている。持て余した足が机の下でぶつかりそうだ。
「あいつら、ちゃんとやってますかね」
煮豆を箸で拾いながらイルカは言った。大丈夫でしょ、と緩い返答が返ってくる。
「ナルトたちの事考えてたんですか?」
「ええ、まあ、」
ふうん、と気があるんだかないんだかな返事。
「七班は、他の班もですけど、ガタガタしながらも良いチームでしたね」
「そう思いますか?」
「ええ」
男は唯一伺える右目を細めた。
「初めての下忍担当だったから何もかも手探りでしたけど、イルカ先生にそう言っていただけるならよかったんだろうな…」
箸の先に摘んだ筍に目を落としながら独り言のように言う。
「カカシ先生、寂しいんじゃないんですか?」
イルカが軽く突っ込むと男は驚いたように目を上げた。
「----ああ、そうかもしれません」
言われて初めて気が付いたような顔をして、首元を何度か擦る。
「遅刻しても怒鳴ってくれるチビどもがいないと朝もなんだか張り合いないんですよねえ」
「ざまあみろです」
ウシシ、とイルカは笑った。
「え?」
「俺の事、過保護だって言えないでしょ」
イルカの言葉にきょとんとして、それから男はくしゃりと笑った。
「そういう顔すると、ホントそっくりですよ。あんた達師弟って」
「え!?」
ナルトが悪戯する時と同じ顔です、と言われてイルカは心外に思ったがカカシはクックッと笑って端先の筍を転がした。
「じゃあ、おやすみなさい。また明日」
「あ、明日は、」
それぞれの家への分かれ道へ差し掛かり、ぺこりと頭を下げたイルカにカカシが言い掛ける。
「任務で里外に出ますので三日くらい留守にします」
「そうですか」
下忍担当を外れてからのカカシはずっと任務受付所を介してCランクやBランクの短期の任務ばかり受けていたはずだが、急に受付所を介さないレベルの任務が舞い込んだようだ。
「帰ってきたら、いつものように迎えに行きますから」
「はい。お気をつけて」
イルカはいつも受付でするようににっこりと微笑んだ。
「待っててくださいね」
急に耳元に囁かれて驚いてイルカは屈みこむように自分の耳元に口を寄せた男の肩を凝視した。
「はい。待ってます」
緊張した声で男の耳に言葉を吹き込むと男は身を起こしてにこりと目を細め、イルカに背を向けて夜の道を遠ざかっていった。
その猫背の背中を眺めながら
---これが付き合うってことか。
不意にイルカは実感したのだった。