待つというのは行為ではなく心情だ。
 カカシが里外の任務に出た日の昼過ぎ、ちょうど人のきれる時間帯の報告所の受付机に座ってイルカはぼんやり考えた。
 仕事柄、イルカは待つことが多い。
 依頼人を待つ、依頼を受ける忍たちを待つ、彼らが任務を終え報告所を持ってくるのを待つ。
 アカデミーの仕事も半分待っているようなものだ。指示を出して、子供達がそれに従う様を見ている。彼らが自分で出来るようになるのを待っている。
 卒業してからは彼らが無事に任務から帰還する事を祈って待つ。
 帰ってこない者もいる。
 何年も音沙汰なくてひょっこり現れる者もいる。
 または、自分以外の者のところへ帰っていく者もいるだろう。
 知らないうちに帰ってきて幸せそうに笑っている事もある。
 昔、両親が生きていた頃はいつも二人の帰りを待っていた。
 イルカの家が彼らの家だったので、必ず彼らはイルカのいる所へ帰って来た。
 長じてから付き合った女性とは、一時は帰る場所を共有したもののだんだん擦れ違うようになって自然消滅することが多かった。今では信じがたい事だがイルカの方が彼女達の元へ立ち寄る機会が少なかった。当時はイルカも里外での任務にあたることが多く時間が裂けなかったのだ。新しく目の前に開けた世界に無我夢中で後ろを顧みる余裕などなかった。
 アカデミーの教師になって、一番の問題児だったナルトを卒業させて初めて里外の任務に出した時、心配で夜も眠れなかったのだが、ナルトはイルカの知らぬうちに帰ってきて暫く姿を見せなかった。
 ナルトにもそういう時期が来たのだとイルカは過去の自分を振り返って己を納得させたが、やはり寂しかった。
 ----待っててくださいね。
 男はそう言った。
 それは、自分のところに帰ってくるということだろう。
 ----帰ってきたら、いつものように迎えに行きますから
 それは約束だ。
 イルカは時計を見上げる。カカシが任務に立っておそらくまだ半日も経過していない。
 手元の帰還予定者の名簿を意味もなく繰る。
 約束は果たされることを期待させるから、果たされないかもしれない不安もつきまとう。
 付き合ってみましょうか、なんて軽々しく言うものじゃなかったかもしれない。


 夜、イルカは布団に入ってからまた考えた。
 何故あの男は急に自分とつき合いたいと言い出したのだろう。
 自分と恋愛したいと言った。
 恋愛なんてしたくてするものじゃなかろうに。
 好きだとは言われてないな。
 でも待っててくれとは言われた。
 イルカは今日一日、あの男のことばかり考えている。
 いや、あれからずっとあの男の事ばかり考えている。
 -------恋愛関係になりましょうってゆってるんです。
 恋愛ってなんだ?
 つき合うといったって、一緒に食事したり飲みに行くくらいで恋人のするような事は何一つしていない。男同士でどうするつもりなんだろうとは思ったが、単に世間話をしたり共通の教え子の話をしたりするだけだ。同性同士でも行為は出来る。忍であるからお互いそんな事を知らないとは思わないはずだが。単に友人になりたかっただけなんじゃないかとも思う。
 じゃあ、自分はどういうつもりで男の申し出を受け入れたかと問われれば答えに困る。
 生々しい行為を想定して承諾したわけではなかった。
 ただ、彼が自分と向き合って真っ直ぐに見てくれた事が嬉しかった。
 男が帰ってくるのは明後日の夜か、明々後日か。
 任務が長引かなければいい。怪我などしなければいい。
 早く、自分の所へ帰ってくればいい。
 誰かに対してそんな事を思うのはもう随分久しぶりのような気がした。





 三日後の夕暮れ、男は本当にいつものように現れた。
 イルカが勤務を終えて昇降口を出るとアカデミーの壁に凭れて、それが常態であるようにいかがわしい文庫を片手にひょろりと立っていた。
「お待たせしました」
 思わず駆け寄ってぺこりと頭を下げたイルカは、じゃなくって、と慌てて言い直した。
「待ってました」
 頭を上げて見上げると男の青い右目と出会う。
「あ、はい」
 何故か男はたじろいで目線を俯けさせてもそもそ言った。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。ご無事で何よりです」
 イルカは嬉しくなって笑みを零した。
 目の前の男からは怪我をした様子や特に疲れた様子もない。
 汗や埃の匂いもしないし、ゲートルが綺麗なままなことから一旦自宅に帰ってからここへ来た事が分かった。足取りにおかしな所もないし、指先も綺麗なものだ。
 素早く相手の姿を点検してイルカはほっと息を吐いた。
「ご飯食べましたか?」
「いえ、イルカ先生と一緒に食べようと思って食ってません」
「えーと、カカシ先生、今日は飯食ったらすぐ帰って休みたいですか?」
「ん、どっちでも。昼間帰ってきて少し寝たんでそんなに疲れてないです」
「そうですか、」
 男の返答を聞いてイルカは数瞬、躊躇してから思い切って言った。
「あの、うちに夕飯食いに来ませんか?」
 男がまじまじイルカを見つめた。居心地悪くてイルカは早口で続けた。
「そんな大した物作れないんですけど、ええと、いっつも外食ばかりも飽きるでしょう?折角帰って来たんだからゆっくり出来る方がいいかと思って、ええと、あ、でも、カカシ先生がどこか行きたい店があるんなら別にそちらでもいいんですけど、カ、カカシ先生どこか行きたい所ありますか?」
 言っているうちにかーっと頭に血が上ってイルカは真っ赤になった。
「イルカ先生の家に行きたいです」
 男はにこりと笑った。


 途中で買い物をして一緒にイルカのアパートへ向かった。
 頭に上った血はなかなか下がらなくてぎくしゃくしたが、男の方はいたって平静で買い物袋をぶら下げて軽やかに歩を運ぶ。自分だけ意識しているみたいでなんだか恥ずかしい。
「汚いとこですが…」
 アパートのドアを開けて入るように促した。
 おじゃまします、と悪びれずに男は玄関口に長身を滑り込ませた。狭い台所を抜けるとすぐ寝室兼居間である六畳間だ。
「きれいにしてますね」
「いえ、とんでもない!」
 昨夜、突然思い立って猛然と掃除をしたのだ。
「すぐ支度しますから」
 イルカは流しで手を洗い、夕食の支度にかかった。
 野菜は昨夜のうちに煮ておいた。米も家を出る前にといでおいたからおいたから炊くだけだ。あとは味噌汁と帰りがけに買ってきた魚を焼いて、浅漬けでも作ればいいだろう。
 料理の上手い女ならもっと気の利いたものを作るのかもしれないが。
 ふと浮かんだ考えに、うーん、とイルカは唸ってしまった。
 自分もこれまでは彼女の家に招かれて飯を食わせてもらう立場だった。
 アカデミーの卒業生や友人に自宅に押しかけられて飯をたかられる事は、まあ、あった。なんでか奴らはイルカの家に来ると冷蔵庫を漁って昨夜の残りの肉じゃがだのひじきだのを食べたがるのだ。
 そんな風だったので彼女にご飯を作ってもらえるのは嬉しかった。たとえ自分で作った方が数倍上手いんじゃないかと思えるような不器用な料理でも美味しいと感じた。
 自分で作った上出来の料理より、他人の作ってくれた失敗料理の方が美味い。
 一人暮らしの長いイルカの発見した真理である。
 だからって、カカシもそう感じるとは限らないのだが。
 だって、自分のところに帰ってくると言った人に、ご飯くらい作ってやりたいじゃないか。
 イルカはまた、うーん、と唸った。
 どうして自分は彼女達の所へ帰って行かなかったのだろう。
 そして今、かつての彼女達のしてくれた事を自分がしている。男相手に。
 友人なら別にどうってことないが、一応お付き合いしましょうということになっているから、これは…
 営巣活動?
 イルカの胸中は複雑だった。

いかん、前後編で終わらなかった。