状況1



「先日のAランク任務について苦情が来ている」
 朝、出勤すると同時に呼び出された火影の執務室で、受付での上司にあたる一等書記官にそう告げられて、イルカはぐっと顎を引いた。
 依頼人からの苦情は受け付けに勤務する者にとっては頭の痛い問題である。内情を知っているイルカは、自分がその発生源となってしまったことに少なからずショックを覚えた。
「君を名指しだ」
 苦々しい顔つきで一等書記官は手に持った書類に目を落とす。
 書記官の後ろでは執務机の向こうに座った五代目火影が腕組みをして目を閉じている。
「どういった内容の苦情でしょうか?」
 イルカの問いに、書記官は深々とため息をついた。
「なぜ、黙って帰ってしまったのかと、姫君がたいそうご立腹だそうだ」
 は、とイルカは気の抜けるような声を発した。五代目がふぅぅ、と長く嘆息し、長い睫毛を震わせた。
「おまえ、何か軽はずみに約束を交わしただろう」
「いえ、そんなことは」
 ぱちりと大きな目を開いて、綱手はイルカを鋭く見た。
「嫁に貰ってやるとか、言ったそうだな?」
「言ってません!」
 先日、イルカが担当したAランク任務は瀬の国の姫君を、彼女の母親の生国である菜の国まで護衛するというものだった。国主の正室であった彼女の母親は謎の死を遂げ、新しく迎えられた后の一族がその死に関わっていると噂されていた。姫の身辺でも奇妙な事故が起き始めたため、姫の祖父にあたる菜の国の国主が木の葉に姫を秘密裏に自分の許へ連れてきて欲しいと依頼してきたのである。
 イルカ達は中忍四人の小隊で任務にあたった。
 護衛といっても姫の周辺の人間にも本人にも計画は告げられず、ほとんど誘拐のような格好で姫を瀬の国から連れ出し、菜の国まで送り届けた。
 誰の手の者かは定かでないが、途中、他里の忍達の襲撃もあり、それをかわしながらの移動で交戦もあった。
 危うい峠道を敵に追われながら、幼い姫君が震えながらも微笑んで護衛の忍の一人に「生きて国境を越えることが出来たら、私をお嫁さんにしてね」などと言ったら。
 無碍に断れるものだろうか。
「それで、嫁にすると言ったんだな」
「言ってません」
 イルカは頑として否定した。
「では、どうしたんだ」
「黙って笑っておきました」
 ほう、と綱手は眼を細めた。
「いつもの調子でにっこりとな」
「受付で帰還者を迎える時のように、笑ってやった、と」
 綱手と一等書記官がつなげて言う。
 イルカはこくりと頷いた。
「人選を誤ったな」
 子供相手なら適任だと思ったが裏目に出た、と綱手がぼやく口調で言って椅子の背に凭れた。
「しかし、姫君はまだ十二歳ですよ」
 イルカの弁明に、綱手は首を振った。
「あの国では十三歳で婚姻できるんだよ」
 え、とイルカは仰け反った。十三歳といったらアカデミーを卒業してすぐくらいだ。
「武士階級は結婚が早いんだ」
 家同士の婚姻みたいなものだからな、と綱手が補足する。
「姫も新しい生活に慣れてくれば、一時行動をともにした忍の事なんて忘れてしまいますよ。危機的な状況で他に頼れる者がいなかったから、俺なんかに心が動いたんでしょう」
 吊り橋の恋というやつだ。それにそもそも忍と武士では身分が違う。姫は子供だからまだそれが分からないのだ。そうイルカが言うと綱手は片眉を顰めて鼻を鳴らした。
「もっともらしい事を言うじゃないか。あんまり相手を見くびるなよ。人間は一時の感情で全てを壊してしまえる生き物だ。それに、おまえ、以前も依頼人の大富豪のばあさんに金を積まれたことがあったそうじゃないか」
 イルカは口を噤んだ。黙秘だ。
「おまえは目標に近づきすぎる。行きずりの相手だと分かっているくせに、だ。それにその笑顔も使い方を誤れば武器が凶器になるぞ」
 綱手の言葉の後半はいまいち承伏しかねたが−−−イルカは自分の笑った顔が武器だなどと思っていない−−−苦情を貰ってしまったことは事実なのでイルカは素直に頭を垂れた。
「まあ、菜の国には適当に言い含めておく。今後、このようなことがないように」
 そう締めくくると綱手は机の上の決裁待ちの書類の山に視線を戻した。
 イルカが一礼して執務室を辞すると、閉じかけたドアの向こうから「部下を適切に使いこなすのは難しいものだな」と綱手が一等書記官にこぼすのが聞こえた。
 イルカは項垂れ一つため息をつくと、廊下を受付に向かって歩き出した。




はじまりはじまり。


状況2