「落日の缶チューハイ」
あ。今日、俺、誕生日だった。
イルカがそう気がついたのは少しばかりの残業を終え、家に帰って夕飯を食べて風呂に入り、パジャマがわりのくたくたになったTシャツを着て畳の上に新聞を広げた時だった。
朝、出勤する時に新聞受けから引き抜いて台所の床に投げ出したままだった新聞を拾い上げ、片膝を抱えて床に座ると濡れた髪からぽたぽたと滴が紙面に落ちた。ところどころ濃い色になったくすんだざら紙の上で滲んだインクがイルカの生まれた日を示していた。
イルカは壁に掛かっている時計を見上げた。
十時を少し回ったところだった。
何かをするにはもう遅い。
誰にも何も言われなくて、イルカ自身も忘れていた。
周囲に自分からアピールして祝ってもらうなんていうのも、もうとっくの昔に卒業した。子供の頃はなんだか特別なもののように感じていたけれど、この歳になると誕生日もそうでない日も違いなんてない。
特別だと感じていたのは周囲がそう扱ってくれていたからだ。
今のイルカには祝ってくれる恋人もいないし、家族はとうの昔に失った。
去年はどうしていたんだっけ。
やっぱり仕事だの任務だのでそれどころではなかったんじゃなかったろうか。
そうだ。去年は三代目の執務室に呼びつけられて書類の整理をしていた。帰りにお供を申しつけられて一緒になんだか高そうな店で鰻の白焼きをご馳走になった。
ナルトが卒業したから肩の荷が下りただろうとか、そろそろいい相手はいないのかとか、そんな話をしたんだっけ。ふんわりとイルカの鼻孔に香ばしく焼けた鰻の匂いが蘇った。ごつごつした重たい湯飲みの中の、深い緑茶の色や肝吸いの中に浮いた三つ葉の芳香、そんなものがありありと思い出された。
そうか。あれは誕生日だったからか。
立てた膝に顎をのせてイルカはぼんやりと思い出した。
慣れない高級店の座敷で三代目と二人、向かい合ってお膳をつついた。里ではこの店の鰻が一番美味いんだと言っていた。三代目は美味い店をよく知っていた。イルカは時々、お供としてご相伴にあずかった。年を取ると食べること以外に道楽もなくなる。そう言って笑っていた。それから接待にはこの店、贈り物をする時にはあの店かあの店、それ以上の格式のところでないとだめだ。そんな知識をさりげなく与えてくれた。そういった事も知っておかなければ恥をかくぞ、と。大人になって肉親以外には訊けないような事は殆ど三代目から教わった。
三代目の皺々の顔を思い出す。両親を失ってからなにくれとなくイルカに目を掛けてくれた。他にもイルカのような子供はたくさんいたはずだが、おまえは特別扱いされていると人に言われたこともある。
自分を特別に扱ってくれた人。
今はもういない。
一人の部屋に時計の音が響いた。
これからはこうやって失っていくばかりなのだろうか。
漠然と感じた事にイルカの背筋は冷たくなった。
これから先はもう、自分はなくすばかりなのじゃないだろうか。
ナルトは今、里にいない。他の子供達もそれぞれイルカの手を離れていった。
サスケのことは−−−−誰も口にしようとしない。
音忍の襲撃後の混乱でアカデミーや受付の職員達も随分顔ぶれが変わった。任務だと出て行ってそれきり帰らない者もいる。
両親を失って、イルカの世界は壊れた。
だが周囲には同じような傷を受けた友人達がおり、抱きしめてくれた里長がいた。
もう一度、イルカは世界を今度は自分の手で作っていくのだと思っていた。生きていれば得るものもあるはずだと信じてきた。
確かに友人はたくさん出来た。同じ小隊に配属された先輩や後輩達、職場での同僚、可愛い生徒達。愛情をかけてくれる相手に巡り会ったこともある。
けれど結局、独りになるだけじゃないのか。
誰もいない小さなアパートの一室で時計の音を聞いている。
サンダルを引っ掛けてイルカは外へ出た。
夜道をぺたぺたと足音も消さずに歩いていく。
春よりも夏に近づきつつある季節は夜風もさほど冷たくはない。昼間のうちに暖められた地面からじんわりと熱が放射されているのが靴底ごしに感じ取ることができる。
住宅街の狭い小路を抜けて角を曲がると商店街だ。ほとんどの店がシャッターを下ろしている中に、ぽつんと一軒だけ明かりの灯る店がある。
あの店だけは十一時まで開いている。夜遅くに帰ってくる者達が利用する小さなスーパーで食料から文具、衣料品まで、品揃えは少ないが幅広い商品を扱っている。イルカも仕事で遅くなった日など総菜や弁当をこの店でよく買って帰る。
イルカは店の戸をくぐると買い物籠を手に奥のアルコールの並んだケースに向かった。
祝杯をあげようと思ったのだ。
一人でも構わない。
折角、気がついた誕生日だ。自分くらい祝ってやろう。
このまま何もなく、ただ忘れ果てていくだけの日常よりも一人でも何かしたい。そうじゃないと何かがどんどんだめになっていくような気がした。
侘びしいのなら、きちんと侘びしいという気持ちを味わっておかないと、そう律儀に思う質なのだ。
棚に並んだ焼酎や洋酒の瓶を横目に通り過ぎ、ガラス張りの冷蔵ケースを覗き込む。明日も仕事があるから軽くリラックスできるようなアルコール飲料で十分だ。
パクッと呼吸するみたいな音をたててケースを開くと葡萄のデザインの描かれたロング缶を一本、籠に入れた。銀色の缶がきらきらしていて甘くてジュースみたいな口当たりの女の子が好きそうな缶チューハイだ。
つまみは、まあ、いいか。
夜中に食べると太るしな。
精算しようとレジに向かうと店の引き戸がからりと開いた。
人が入ってきたようだが気配はなく、ひんやりとした夜風だけが店に入ってきたようだ。ご同業らしい。里の中でもこんなにひっそりと気配を忍ばせているのは同業者でも珍しい。イルカは振り返るでもなく店の中へ入ってきた人間に視線を走らせた。店の入り口から真っ直ぐ入った弁当や総菜を並べた棚の前に立っている。
びっくりした。
くすんだ灰色の髪がまず目についた。夜の空と同じ紺色の忍服とカーキ色のベストはこの里のどこででも目にするものだが、ひょろりとした猫背の痩身に顔の殆どを隠す覆面と額宛は彼独特のものだ。
「カカシ先生!?」
カカシはきょとんと声を上げたイルカへ目を向けると、目の下に皺を作って目を細めた。少々くたびれた感じの微笑みだった。
すごく久しぶりに見たような気がする。
ナルトが自来也と修行の旅に出て、サクラも五代目の弟子になりカカシは上忍師の任を解かれた。それ以来、カカシの姿を受付所で目にすることはなくなっていた。上層部から回される重要任務で駆けずり回っているのだろう。今も任務帰りなのか忍服は薄汚れてゲートルやサンダルも泥にまみれている。近づくと珍しく、うっすらと汗のにおいがした。
「今から夕飯ですか?」
カカシの手元を見てイルカは尋ねた。
「あ、はい」
おかかのお握りを手に取ったままカカシは夢から覚めた人のような顔をしている。
「びっくりしました」
その表情のままカカシは言って、また目を細めた。イルカもつられて笑う。
「俺もびっくりしました」
イルカ先生は?と訊きながらカカシがイルカの手に持った籠へ目を向ける。
「晩酌ですか?」
「はは。祝杯をあげようかと」
「祝杯?」
なんの?と目で尋ねてくるカカシにイルカは鼻の頭を掻いた。
「今日、俺、誕生日だったんですよ」
カカシは片方だけ見えている青い目を見開いた。
やっぱり侘びしいことしてるかな。恥ずかしい。
「さっき気がついて、折角だから一杯飲もうかと思って−−−」
ははは、とイルカは誤魔化すように笑った。
「それは、おめでとうございます」
ぺこりとカカシが頭を下げた。
上忍に頭を下げられて慌てたのはイルカの方だった。相変わらず拘らない人だ。
何もお祝いになるようなものを持っていない、とカカシが困ったように言う。別に気を遣って頂かなくて結構ですよとイルカが言う。カカシが店内を見回したがこの店で買えるのはちょっとした菓子やつまみくらいだ。祝いの品といえるようなものは置いていない。じゃあ、軽く飲みにでもと誘いたいところだが、もう時間が時間だ。明日は仕事があるし、カカシの方も体調を整えておかねばならないから最近はアルコールを断っているそうだ。
それぞれレジで精算を済ませて、ではおやすみなさいと別れてしまえばなんにもない、ただ終わっていくだけの一日だ。
別にそんな一日はいつもの一日で、誕生日だからと何かが変わるわけでもない。
昨日や今日と同じ一日が明日も待っている。
二人で店を出た。
カカシは買った握り飯を入れた袋をぶら下げて、数歩先で立ち止まってイルカを待っている。
遅くに任務を終えて、帰りがけに買った握り飯を食べて風呂に入って布団に潜り込む、彼の方も今日の残りはそんなところだろう。
少し疲れた顔をしている。
もう少し一緒にいたいなと思った。でも迷惑かもしれない。
引き留めるための言葉を言い出しかねてカカシの顔を見つめた。別れがたい気持ちを抱いているのはイルカだけなんだろうか。イルカは手に持ったチューハイの缶を掲げて見せた。「これ、」と手振りに遅れてもたもたと言葉を紡ぐ。
「飲む間だけ、つき合ってください」
カカシは「はい」と答えて微笑んだ。