夜の商店街をぶらりと歩いて、道端の一段高くなったコンクリの上に並んで腰を下ろした。シャッターの下りた通りには他に人影もなく昼間の猥雑な空気を夜風が散らしている。
 いい年をした男が二人して、家には帰りたくないけれど行くあても金もない子供のようなことをしている。十代の頃は酔いつぶれて路上で夜を明かしたこともあるが、さすがにこの歳になって教職に就いてからはそんなことはしたことがない。忍びでも教師はやはり聖職という意識があって里の中では体面の悪いことは出来ない。
 一方、木の葉の上忍の中でも精鋭と謳われたカカシにも面子や体裁があるだろうに頓着した様子もなく買い物袋をガサガサいわせて握り飯を取り出すと覆面を引きおろし、さっそくぱくつきはじめる。腹が減っていたのだろうか。ずいぶんな早食いだ。
 その様子を眺めながらイルカもチューハイのプルタブを開けた。プシッと炭酸の抜ける音がしてアルコール混じりの甘いにおいが香った。
 カカシは案外、無造作に覆面をはずす。はずさなきゃ飯も食えないし、顔も洗えないだろう。それでも素顔を見たことがないという人間が多い。一番行動を共にした時間の長い子供達さえいまだにカカシの素顔を知らないらしい。自分の素顔にあんまり興味を持つからカカシが面白がってわざと見せないようにしているみたいだけれど。
 それなのに自分の前では平気ではずすんだよなあ。
 イルカははぱくぱくとお握りを片づけてゆくカカシを眺めた。
 片目は額宛で覆ったままだけれど覆面をはずしたカカシはちょっと顔の整ったただの男にみえる。いつもは彼と周囲を隔てている壁、それは彼自身の警戒心なのかもしれない、そんなものが消えて彼の特異性が薄れるように感じるのだ。そんな姿を身近で晒してくれるのはやはり嬉しい。
 イルカは冷たい缶の縁に口をつけた。炭酸の泡がしゅわしゅわいいながら口の中に流れ込んでくる。
 チューハイを含んだ口元が自然に笑みの形になる。
 ちらりと目を上げてそんなイルカをカカシが窺う。
「イルカ先生は、一人でもそうやってちゃんとしてるんですねえ」
 カカシが感心した風で言う。いや、全然ちゃんとしてません、と自分の襟の伸びたよれたTシャツを見下ろしてイルカは思う。
「一人でも時間がなくてもそうやってちゃんとお祝いするんでしょ。そういうの、えらいですね」
「全然、えらくなんかないですよ。いい歳して独り身の男の誕生日なんて−−−」
 思いがけない言葉にイルカは手を振って否定した。どちらかというと恥ずかしい事をしている自覚はあったから慌ててしまう。カカシは薄く笑みを浮かべたままでイルカを見つめている。
 そんな包み込むような目で見つめられると尚々いたたまれない。
 ほんと、この人変わってるよな。
 己の恥ずかしさをカカシに転嫁してイルカは思った。
「今日イルカ先生に会えてよかったです」
 思わずじっと見つめ返してしまったイルカに照れたのか、カカシは俯いて胡座をかいた膝に載せた握り飯に目を落とした。
「ちょっとめげそうになってました」
 カカシの言葉に驚いてイルカは彼の伏せた顔を見た。
 少し痩せたかもしれない。元々薄い目蓋が更に薄く、尖った顎のラインも更に鋭くなったかもしれない。
 −−−−部下から抜け忍を出したのだ。
 今の火影自身が里を出てあちこちに借金を作っては逃げ回っていたような人だから表立っては何もないが一部でカカシに対する風当たりがきつくなっているという噂はイルカの耳にも入っていた。それと同時に今までは誰も口にしなかった過去の噂なども漏れ聞こえてくるようになった。一つミスをしただけでそれまで築き上げてきたすべてが帳消しになってしまう、今までは好意でとらえられてきたすべてが悪意を持って解釈される。そういう状況にカカシはある。
 里の中が今、そういう空気なのだ。砂と音の襲撃直後は皆、一丸となってがむしゃらに復興のために働いた。三代目 を失った痛手は深く、里の象徴ともいえる巨大な障壁を崩されたことは物理的にも精神的にも里の内外の人々に衝撃を与えた。だが砂との同盟を早急に回復させた五代目の柔軟な姿勢は内外の情勢を安定させたし、通常通りの任務を受け続けることで木の葉は信用を落とすには至らなかった。新しい火影の下で外回りの者も内勤の者も関係なく任務にあたり、足りない戦力を補おうと激変した環境の中で任務にあたってきたおかげだ。
 その疲れが出始めている。
 それどころではないと外へと向けられていた視線が情勢が安定すると内側へ向けられるようになる。あの時の何が悪かったのか、誰が悪かったのか、そんなことを考え始める。失ったものを振り返るささくれだった気持ちのぶつけどころを探し始める。前線に立っているが故にカカシは矢面に立たされることが多い。
「カカシさん、」
 どう声を掛けたものか躊躇ったイルカにカカシは首を傾けてふう、と溜息をついた。
「新技の開発が思うようにいかなくって」
 俺、コピーは得意なんですけど自分で編み出すのって不得手なんですよね、とぼやくように言った。
「俺の先生はそういうの天才的だったから、ちょっとコンプレックスですよ」
 え。写輪眼のカカシのコンプレックス?つか、千も技持っててまだ新技を開発するつもりなのか、この人!
「ガイには言わないでくださいね」
 カカシが戯けたように言って目を細める。
「はー。カカシさんは頑張り屋さんなんですね」
 しみじみと呟いてイルカはチューハイを啜った。サスケのことを気に病んで精神的にガタガタになっていたっておかしくはないのにこの上忍の腹の据わり具合ときたら。
「頑張り屋さん、って」
 カカシがきょとんとした顔をイルカに向けた。
「俺にそんなこというのイルカ先生くらいですよ」
 う、とイルカは言葉に詰まった。
「す、すみません」
 よくアカデミーで放課後に一人、授業で出来なかった術を延々と自己練習しているような子供に「○○は頑張り屋だなあ」とか声を掛けるのだけれど、上忍が相手だから丁寧語にしてみた。んだが、上忍に向かって言う言葉ではなかったか。
「イルカ先生のそういうとこ好きだからいいです」
 そんな科白を吐いてカカシは三つ目のお握りに齧りついた。イルカはなんだか据わりの悪い心持ちになったが黙って缶チューハイに口をつけた。
「俺は自分で自分を終わらせるようなことは絶対にしないんだ」
 静かに自分に言い聞かせるようにカカシが呟いた声がイルカには聞こえた。なぜだかそれが胸に迫って、イルカは夜空に目を向けた。狭い土地にごちゃごちゃと建物のひしめく里の空は狭い。けれど周囲に大きな街もなく家々の灯の消えるこの時間は澄んだ空気がくっきりと星や月の光を地上へ落とし込む。井戸の底から空を見上げるように、高い建物の狭間の路地の底からきれいな夜空が見える。そういえばここのところ忙しくて空もまともに見ていなかった。アカデミーでの授業はまだ再開されていないから子供達と一緒に校庭で夕焼けを見たりもしない。三代目の葬儀の日に見上げた雨空が最後に見た空かもしれない。あの日からずっと目の前には壁ばかりが続いているような気がしていた。
「俺も今日、カカシさんに会えてよかったです」
 目まぐるしい日々の中でどんどん飛び去るように周囲から知った顔が消え、知らない顔が増えていく。また一から知り合って、そしてまた失うのかと思うとたまらなくなった。
 ふと立ち止まると、すべてが空しく感じた。
 だけどそんなこと言っていられない。明日も仕事に行くのだ。笑って、まだよく知らない新しい火影の元で依頼を捌いて忍達を見送らなくてはならない。一杯飲んで、自分におめでとうと空元気でも声を掛けて眠るのだ。両親が死んだ時と同じだ。
 そう自分に言い聞かせて夜道を歩いてきたら、この人がいた。
 変わらない飄々とした様子で目を細めて笑ってくれたのだ。
「あなたの顔見たら、なんだかとても安心しました」
 笑って言うとイルカは肩の力が抜けるまま後ろのシャッターに背をつけた。ぅわん、とトタン板が震える。体重を掛けると曲がってしまいそうで後ろ手に体を支えながら尻で後じさってそっと体を凭せ掛けた。
 ナルトもいない。三代目にはもう二度と会えない。サスケはここを捨てていった。
 この人もそんな里の中で生きている。
「カカシさんもたまには顔を見せてくださいよ」
 イルカは首を傾げて隣に座っているカカシを見た。いつもよりくすんだ髪の色や埃と汗のにおいがやけに彼を間近い存在に思わせた。カカシもイルカの方へ顔を傾けた。握り飯はもうすべて腹に収めてしまったらしい。だのに覆面を引き上げもせずじっとイルカを見つめている。物言いたげに唇が薄く開かれたが言葉はなく、少しの躊躇いを見せてカカシはイルカへ顔を寄せてきた。
 鼻先がぶつかりそうになって避けようとすると同じようにカカシも顔を傾ける。何度かそれを繰り返して、もう避けようがないほどイルカの眼前に白い頬が迫る。顔を見せろとは言ったがそこまで近くで見せなくてもいいだろう。イルカは後ろにしたシャッターに背をはりつけた。ちょっとこの距離は近すぎる。そう思っている隙に、ちゅっと唇に吸いつかれた。びくりと震えた拍子に後ろのシャッターがごわぁんと鳴った。夜の町に不似合いな大きな音が響いてイルカは慌てた。その音を押さえ込むようにカカシに肩を掴まれてシャッターに押しつけられた。
 ちゅ、ちゅ、と何度も唇を吸われた。
 なになになにしてるんですか!?俺は今日で二十ン歳になる中忍ですが男にキスされたのは初めてですよ!?
 唖然としていると、イルカにのし掛かっていた男はゆっくりと身を起こした。
「海苔ついちゃった」
 呑気にそんなことを言って、カカシはイルカの唇をぐいと親指で拭った。
「俺、今でもあなたのこと好きなんですよ」
 イルカの顔を覗き込んだままカカシは言った。
「そ、それは初耳です」
 シャッターに背をはりつけたままのイルカに、ああ、そういえば言ったことなかったですねえ、とカカシは笑った。
「あんまり長いこと好きだったから、とっくに伝わっているような気になってました」
 そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿な」
 考えたことがそのまま口をついて出た。
「すみません」
 カカシが目を伏せた。そうすると切れの長い目が強調されてやけにきれいな顔立ちに見える。
「俺もまだ色んな事諦めたくないなあと思って。あいつらも今、頑張ってるでしょ」
 小さかった子供達は今は自分達の手を離れて伝説の三忍と呼ばれた忍達の下で修行に励んでいるはずだ。
「イルカ先生、好きです。俺とのこと前向きに考えてくれませんか?」
 諦めたくないと口にしながら一度は諦めたことのように、まるでだめ元とでも思っているような口調でカカシが言う。そんな風に言われたら無碍にはできない質だ。なんと答えたらいいものかと混乱する頭で必死に考えていると、また唇に吸いつかれた。
「ん…ん…、ふ……」
 きつく噛みしめた唇を、中に入れて欲しいとカカシの舌がなぞってゆく。なんだか悩ましい息が漏れて焦ってイルカはカカシの胸を力一杯押しやった。
 早食いは飯だけにしてくれ。
  この機会を逃したら二度と触れることは出来ないとでも思っているのかカカシはなかなか離れようとしない。
「考えます。考えときますから…!」
イルカは真っ赤になって悲鳴のように叫んだ。
「ありがとう」
 行動とは裏腹に誠実な響きの声でカカシは笑った。
 強引なくせに儚げな笑顔にイルカは文句も言えなくなる。そういうのってなんだか狡いなあ。
 恨みがましく睨みつけていると名残惜しげにカカシの白い指がイルカの頬をなぞった。
 その仕草にそろそろ別れる時間が近づいてきているのをイルカも感じた。もう日付が変わろうとしている。
 じゃあ、ね。またね。そう言ってカカシは立ち上がった。
 自分の周りを適当に後始末するとゴミを詰めた袋をぶら下げてふらりと歩き出す。
 ちょっと、待て。
 その後ろ姿をぽかんと見送りかけてイルカは我に返った。
 人を道端の下ろされたシャッターに張り付かせたままこんな夜の中置き去りにする気か。
 イルカは飲みかけの缶チューハイを手に立ち上がるとカカシの後を追った。
「帰りますよ、俺も!」
 隣に並んで怒ったような声で言うと、カカシは心配そうな顔でイルカを窺ってくる。どことなくアンバランスな人だなあと思った。前々からそんな印象はあったけれど。
「俺、水曜日は早上がりなんです。来月、砂隠れの視察団が来るらしいんでその準備もあって休日出勤とかも多いんですけど、水曜日の午後はわりと暇なんで」
 早口でまくし立ててイルカはほんの少しだけ背の高いカカシの顔を見上げた。
「カカシさんも忙しい人だし、会おうと思ったらそのつもりで時間作らないとまた何ヶ月も会えないでしょう?」
 それに釘を刺しておかないとこの人、新技が完成するまで会いに来ないような気がする。
「任務が入ることもあってシフトも変則的なんですけど、水曜日はなるべく空けておきますから」
 だからちゃんと顔を見せて下さいね。そう言うと「はい」と答えてカカシは目を細めた。



 もう自分の人生は打ち止めかなあ、などとすっかり斜陽な気持ちになっていたのが数時間前、そんな自分に降ってきた、今はまだ扱いの分からないこれは幸運なのか、不運なのか。
 機嫌良さそうな顔を隠すように読み古した文庫を広げたカカシはちょっと可愛かった。
 誕生日に貰ったものなんだから大事にしようとイルカは思った。




誕生日なのでチュウくらいしとけ!しとけや!



前編