「上忍式中忍式〜思案の外〜」



 毎年、桜の花の咲く頃にイルカはぴかぴかの真新しい額宛を一箱用意する。
 木の葉の鋳型職人が一つ一つ型を抜き、木の葉のマークを打ち出した鋼の一枚板は刃もくないも弾き、それを身につける者の命を守る。藍で染めた布に留め金でしっかりと縫い止められ、けして軽くはないがその重みが忍達の動きを妨げることもない。
 木箱に詰められたそれを卒業試験が行われる教室へ運び、試験官の座る教卓の横に並べていくと、前から後ろへ向かって階段状になった教室の机から、いくつもの子供達の眼が銀色の鈍く光る鋼に引き寄せられるように集まるのが分かった。
 忍の証。
 火影様から授かる最初の誉れ。
 それを身につけて火影様のため、里のために働くことが忍者アカデミーの生徒達の憧れなのだ。
 もう一人の試験官と視線を交え、手元の時計を確認してイルカは教壇の中央に立った。
 緊張と期待に満ちた教室にイルカのぴんと張りつめた声が響いた。
「これより卒業試験を始める」



 ちょうどイルカの目線の少し上あたりの高さの土塀が延々と続いていた。
 里の中央通りから宅地に逸れ、細い通りを二度三度と曲がっただけで思ってもみなかった静かな場所に出る。白い土塀の上から庭木の緑が覆い被さるように繁っている。人がやっとすれ違えるような小路には平たい石が敷き詰められている。何度も行き来した人の足裏で削られて凹んだ石の表面が滑ったように午後の日差しを反射していた。
 暫く道なりに歩いてゆくと、こんこん、と軽い木槌の音が空に響いた。ごりごりと何かを削る音も聞こえてきた。
 そして唐突に土塀は途切れて小さな店がきちきちと軒を連ねる通りに出る。店と言ってもイルカがアカデミーの行き帰りに立ち寄る商店とは違う。店の前に品物を並べる露台もなく、ただガラス戸の向こうの土間に木箱が積まれ、その奥で老爺、老婆が黙々と手仕事をしている。更にその奥の中庭で見習いの若い衆が鋸引きに精を出している。
 中央通りから小路を右左、白い土塀の向こうは職人達の町なのだ。
 イルカの身につけているベストも、紺地のシャツも履き物も、利き手側の腿に装備したホルスターもその中のくない、手裏剣も、すべてこの界隈からきたものだ。
 買い付けに来た商人が笠を編む婆さんと話し込んでいる店先を通り過ぎ、少し大きな構えの店の前にイルカは立った。見上げると煤けた木の看板に忍具、と黒く太い文字で記されてある。
 かつん、かつんと甲高い音が響く引き戸の向こうを覗くと、何人もの職人がそれぞれの机で一心に自分の仕事をしている。その中に懐かしい顔を見つけてイルカは知らず口元が緩んだ。
 イルカがこの町へ自分で足を踏み入れることはあまりない。忍具一式は基本的に里から支給されるため、自分専用の特注の武器や防具を誂えるような用事がない限り、どの店でどんな人々が自分の使う道具を作っているのか、大抵の忍は知らずにいる。
 イルカが前にこの町に来たのは忍の道を諦めて、別の職に就くことを決めた生徒に働き口を斡旋するためだった。


 卒業試験を合格して一度は手にした額宛てを、本部棟へと返しに来た子供達の顔を見るのは辛い事だ。イルカや他の教師達が何年もかけて体を鍛練し忍術を教え、これで大丈夫と送り出した子供達が、上忍師から不合格を言い渡されて戻ってくるのを見れば子供達と同じようにイルカ達も悔しい。
 だが、上忍に不合格と判定されたということは、その子供は忍として生き延びられないと判断されたということだ。イルカ達には分からない何かがその子供に欠けているのが上忍達には分かるのだ。
 何度、挑戦しても、どの上忍師にあたっても下忍認定試験に合格できない子供が確かにいる。
 そういう子供は忍になることを諦めて別の道に進むしかない。
「他になりたいものはないのか?」
 面接室で長机を挟んで座りそう尋ねたイルカに、もう子供とは呼べない年齢の少年は
「額宛が作りたい」
と言った。


 ガラス戸の前に佇むイルカを見つけて店の中から若い男が引き戸を開けた。
「何か御用ですかい?」
 白い手拭いを頭に巻き、汗を浮かべた鼻面を手の甲で拭った無骨な顔で、しかし声は柔和だった。
「お仕事中にすみません。ちょっと様子を見に来ただけなんです」
 答えたイルカの声にかぶさって、店の奥から「イルカ先生!」と少年の声がした。
 若い職人の肩越しに、仕事場の机から中腰になった元生徒の顔がのぞいていた。


 親方の許しをもらった少年とイルカは店の裏庭へ通された。この里で忍を無碍にする町衆はいない。この里を支えているのは忍達なのだということと、先ほどの厳つい若者よりも気のよさそうな顔つきのイルカの方がずっと物騒な存在だということを彼らは弁えている。
「先生、久しぶりだねえ」
 縁に腰掛けると、イルカともう目線の高さのさして違わない少年が、ここ数年のうちに身についたのか、職人らしいからりとした調子で言う。
「どうしているかと思ってな。元気そうで安心したよ」
 イルカの言葉に少年はにっこりと笑った。
「あの時は先生のこと随分困らしたけど、今はもう全然平気なんだ」
 少年の生き生きとした表情を見て、本当にそうなんだな、とイルカは思った。何度も下忍認定試験を落とされて、鬱屈した様子で黙々と術の練習をしていた頃よりもずっと幸せそうだった。
「今はまだ留め金付けとか簡単な仕事しかさせてもらえないけど、これでも随分、腕は上がったんだぜ」
 ここへ来た最初は本当に何にも出来なくて、下働きばかりだったのだという。
「何度やっても出来ないことをやるよりも、やれば出来ることをやる方が楽しいよ」
 少年の言葉にイルカは少しばかりの苦さを感じた。
 大丈夫だ、やれば出来る、諦めるな、そう教え続けて、結局、少年は諦めざるを得なかった。自分が教え子にしたことの結果を見届けたくてここへ来たのだ。彼だけじゃない。この季節になると、アカデミーを巣立っていった子供達の誰も彼もが気に掛かる。忍になってよかったのか、忍になれずどうしているのか。後悔を抱いているのはイルカの方だった。
「俺、手先が器用だって親方に褒められるよ」
 そんなイルカの気持ちを知ってか知らずか、少年は明るく言った。
「イルカ先生に印の特訓させられたおかげだぜ」
 少年の言葉にイルカは苦笑した。そんな気遣いも見せるようになったか。
「なんだか大人になっちゃったなあ」
 呟いたイルカの感傷を「俺だってもう17だぜ」と少年は笑い飛ばした。
 その手には傷が増え、指の内側の皮は厚く硬くなっているのが見て取れた。職人の手だった。
「先生、来てくれてありがとう」
 俺のこと覚えててくれて嬉しいよ、と別れ際に少年は言った。帰るイルカの背に何度も何度も、「先生、気をつけてな」「任務行っても気をつけてな」と声を掛けてきた。
 行き来が制限されているわけでもないのに、白く長い土塀以上のものがイルカと彼らを隔てている。