まだ肌寒い空の下でいつもの角を曲がって、いつものように見上げれば、彼の部屋の窓はカーテン越しに暈のかかった月のように薄く淡い光を投げかけてくる。暖かそうなその光に安心してカカシは安普請のアパートの鉄階段を登ってゆく。自分以外の人間の家を、まるで我が家のように恋しがって早足になる自分がおかしい。
ドアを開け、ただいま、と声を掛けると、入ってすぐの台所から続きの六畳間で卓袱台に向かって座り込んでいるイルカがぱっと顔を上げた。振り返った眼がどこかぼんやりしていた。
おかえりなさい、と笑った顔もいつもよりぼやけている。
「夕飯は?」
「済ませてきました」
三和土で履き物を脱ぎながら、カカシは奥の間のイルカの気配を探った。
食事なんかよりしたいことがある。
この間、アカデミーの卒業試験があった。それから数日は卒業生達に対するガイダンスや、スリーマンセルの組み分けを考えたりとイルカは忙しかった。だが、明日は上忍師による下忍認定試験だからアカデミー教師達は一日、本部棟で待機のはずだ。
ああ、じゃあ今夜はできるなあ。
先ほどまで上忍待機所で、初めて上忍師に選ばれた連中が胃をきりきりさせているのを眺めながらカカシが考えたのはそんなことだ。
かれこれ一週間以上、イルカに触れていない。
下忍認定試験が済むと今度は出戻り組の身の振り方を相談したり、それを終えるとすぐに新入生の受け入れでまたイルカは忙しくなるはずだ。
じゃあ、今夜しかないじゃないか。
だからカカシは上忍同士のミーティングを早めに切り上げて、本部の食堂で夕食をかっ込んで急いで帰ってきた。イルカの家に転がり込んで、せんせい、せんせいとじゃれついてそのまま事に及んでしまおうと思っていたのだが、なんだかそんな雰囲気じゃない。
六畳間の卓袱台の上には今年の卒業生達の名簿と、上忍師達の名簿が広げられている。イルカが苦心して組んだスリーマンセルの名簿だ。
こんなものいくら眺めていたって、結果は明日にならなければ分からないのに。
お茶を煎れましょう、そう言って立ち上がったイルカと入れ違いに六畳間へ入ってベストを脱ぎ、額宛と覆面を引き下ろして鴨居のフックに引っ掛けると、カカシはイルカの座っていたのと斜向かいの位置に腰を下ろした。
恋敵を見るように名簿をじろじろ眺めていたら、横からイルカの手が伸びてカカシの前に湯飲みを置いた。自分の前にも湯気の立つ湯飲みを置いて、腰を下ろすとイルカはそれらの書類を綺麗に折り畳んで自分の仕事鞄に仕舞った。今夜は仕事はしないということだ。カカシは少し嬉しくなってイルカの方へ体の向きをずらした。
期待を込めて見つめたイルカの顔は、しかしまだどこか上の空だ。眼の奥がカカシを見ていない。なんらかの物思いに捕らわれているようだ。
意外にイルカは落ち込みやすい。
「大丈夫です」と「俺が何とかします」が決め科白の頼もしいアカデミーの先生で、受付の感じのいいお兄さんは、実はもの凄く心配性で悪い予想ばかりをしては一人になると重い溜息をついているのだ。その分、立ち直りも早いのだが、どこかに彼の懊悩は沈み込んで降り積もり、何かの拍子に表層へ浮かび上がってくるように見えた。
「心配な生徒でもいるんですか?」
「いえ、」
静かに答えて、そしてイルカは笑った。
「ナルト以上の問題児なんてそうそういないですよ」
いつもの調子に戻ろうとイルカがわざと叩く軽口を、しかしその中に滲むうっすらとした悲しみと苦しみの色をカカシは噛みしめた。
そういうものが案外、カカシは好きなのだ。
アカデミーの校庭で、子供達の明るい声に取り囲まれて朗らかにきりりと立っているこの人が、内に抱えた物思いを抱えきれなくなってぽろりと落とす、その様を見ているのが好きだ。自分のような薄暗い生き物に、とりつくしまもない明るい笑顔の人がこんな隙を見咎められて、そう思うとぞくぞくした。
「先生、今日は色っぽいね」
カカシの言葉にイルカを「は?」と見開いた眼を向けてきた。素で驚いているのが分かって可笑しい。カカシは下心を込めて卓に下でイルカの手を握った。
「いや、あの、」
カカシの意図が伝わって、イルカが狼狽えだす。
「今日は…」
「今日はするつもりで帰ってきたんですけど」
「でも明日は下忍認定試験ですし…」
「一日中、待機でしょ」
「でも、こんな日に…」
「試験を受けるのは子供達で、イルカ先生じゃないですよね」
心配性に釘を刺す。イルカの黒い瞳が少し曇った。そういう顔がたまらないの、分からないのかな。
カカシは身を乗り出して、イルカのこめかみに鼻先を擦りつけた。日に焼けたイルカの匂い。けれど今日はその髪から僅かに違う匂いがするのにカカシは気がついた。
「先生、今日どこか行きました?」
もっとよく嗅ごうと、カカシはイルカの肩に手を置いた。
金気臭い、独特の匂いがする。
「忍具屋へちょっと、アカデミーの用事で」
「ふうん」
アカデミーの用事と言えばカカシには分からないと思って時々、イルカはそれを言い訳に使う。実際、カカシにはアカデミーでどんなことが行われているのか内情は知らないから、そう言われると黙るしかない。アカデミーの用事で忍具屋へ行って、どうしてそんな沈んだ様子でいるのかなど分からない。
「この手甲、誰が作っているか知っていますか?」
見逃してやるか、問いつめてみるか、どうしようかと考えていたカカシの掌を掬い上げて、手にはめた黒い手甲の鋼を指でなぞりながらイルカが訊いた。
「いえ」
おかしな事を訊く、と首を傾げながら答えたカカシにイルカはふふ、と笑った。
「カカシさんはなんにも知らないんですね」
少し得意そうだ。
黒い目がきらっと光って可愛い。
苛めてやりたくなる。