塩辛い犬

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 小さなバスタブに身を寄せ合って浸かった。
 ぐっしょり濡れた衣服は脱ぎ散らかして湯の底に沈んだりバスタブの縁に引っ掛かっている。
 カカシは自宅で使うのはシャワーばかりなのだが、たまの休日などに膝を抱えてこの狭いバスタブに浸かっていると、辺境のある地方の風習を思い出したりする。
 死んだ人間を埋葬する時に木棺ではなく甕を使うのだそうだ。遺体の手足を折り畳んで甕に詰める、屈葬という。
 想像するとあまり良い気持ちがしない。
 だが、足の間にイルカを閉じこめて温い湯に浸かっていると、それはそれでいいかもしれないという気がした。薄いカーテンに遮られただけの薄暗がり。イルカの肩に顎をのせてまどろむような心地でいる。暖色電球に照らされた薄っぺらい皮膜に包まれた小さな空間。
 甘ったるい空想だ。
 明日になれば塩辛い現実が皮膜を破って押し寄せてくるだろう。
 今はイルカは自分の腕の中にいる。
「イルカ先生って意外とテクニシャンですねえ」
 イルカのうなじに鼻をすり寄せて言った。イルカが身動ぐとちゃぷんとお湯が音を立てる。
 イルカは後頭部をぐりぐりとカカシの肩に押しつけた。甘えられている。可愛いくて思わずうなじに噛みついてしまう。
「俺は別に……あなたがめちゃくちゃなんですよ…」
 甘噛みを許しながらイルカが凭れかかってきて目を閉じた。
「だって、初めてあなたに触れるのにどうしたらいいかなんて分からないです」
「随分、可愛いこと言いますねえ」
 こんなもっさい男相手に、と呆れた口調だった。
 そんなことは知らない。そうだとしても知ったこっちゃない。
 自分の信じていたものを否定されて、抗いもせず諾々と人形になっていた。あんな自分に戻るのはごめんだ。
 オビトが眼をくれた。
 よく見える眼だ。
 自分が愛していたものを信じ続けていいのだと教えてくれた。
 彼はすぐに逝ってしまったけれど、この人を見つけたんだ。親の敵の器になった子供を慈しめるような人だ。子供達を守るためなら里長の前でも上忍に意見するような人だ。大切なものを守るために身を投げ出せる人だ。
 自分はオビトのようにはなれないし、イルカのような生き方もしないだろう。
 だが、心惹かれる。
「あなたは素敵ですよ」
 真面目に答えたのだが、イルカはずるずると湯の中に沈んでいった。
 あれ?と思っていると、いきなり湯を飛び散らせて立ち上がった。
「もう、あがりましょう! 逆上せっちまう!!」



 本当に逆上せたらしく、イルカはバスタオルでおざなりに体を拭くと、それに包まったままベッドにばたりと倒れ込んでしまった。
 上気して色づいた体をシーツの上に横たえている様はなかなか扇情的だった。
 −−−この先生は結構、やるよなあ。
 濡れた髪を包んだタオルからイルカの鼻面が覗いている。傷痕が妙に可愛い。
 自分ではもっさいとか言っていたが、こういう男を好きな奴は自分以外にもいるんじゃないだろうか。好きになった相手への欲目だろうか。
 イルカの寝ている横に腰を下ろして手をつくと埃がじゃりじゃりした。今朝、任務帰りに布団に潜り込んでそのままだったのだ。イルカも気になるんじゃなかろうか。カカシは立ち上がってイルカの周りをぱんぱんと手で叩いて埃を払った。
 イルカが体を反転させて枕に顔を押しつけた。
「カカシさんの匂いがしますね」
 少し埃っぽい匂いなんですよね、自分では気がつかないでしょう?とイルカに言われてカカシは思わず自分の匂いを嗅いでみた。今は水の匂いしかしない。
「俺、人の枕の匂いって好きだなあ」
 そんなことを言いながらイルカは寛いだ顔で体を伸ばした。
 俯せで真っ裸だからタオルの端から尻が見えている。あちこち無防備すぎる。
 あとでもう一回しよう。馬油の出番はあるだろうか。
 考えているとイルカが起きあがった。
「カカシさん、パンツ借りられますか?」
「新品はないかもしれないですよ?」
 カカシは立ち上がってクローゼットを漁った。



 イルカにまだ封を開けていない支給服の包みを渡すと、カカシも服を着た。台所に立ってグラスを手に取る。
「なにか飲みますか?」
「とりあえず、水を一杯」
 タオルを肩に引っ掛けてイルカもシンクの前に来た。水を汲んでコップを渡すとイルカは一気に飲み干した。
「きついの飲んでるんですねえ」
 台所の棚に置いてある酒の瓶を見てイルカが言った。
「カカシさんぽいけど」
 アルコール度数52%のドライ・ジンだ。疲れた時に気付け薬代わりに飲んでいる。
「店でもジン・トニック飲んでたし」
「スーッとするのが美味いと思って」
 でも、そんなに飲む方じゃないんですよ、とカカシは言い訳のように付け足した。
「…! 俺は、いい事を考えつきましたよ」
 にかっと笑ってイルカは部屋の方へ引っ込んだ。デスクの上に置かれたビニール袋を取って戻ってくると、残りのグレープフルーツを取り出して流し台の上にごろごろと転がした。
 グレープフルーツの果汁をグラスに絞り、ジンを加えて掻き混ぜる。グラスの縁に塩をつけるとイルカは出来上がったソルティ・ドッグをカカシに渡してくれた。
「カカシさんぽいですよ」
 イルカはまた言った。
 −−−犬っぽいってことか?
 このカクテルの名前は実際は船乗り達を意味するスラングだ。カカシは塩のついたグラスの縁に口を付けた。しょっぱい。更にグレープフルーツの酸味と苦み、ジンの香りが口の中に広がった。三口ほど飲んでカカシは片眉を顰めた。
「氷を入れた方がいいかもね」
 キッチンのテーブルの上で二つのグラスを並べて、冷凍庫から取り出した製氷皿からちびた氷を入れた。
 果汁100%のソルティ・ドッグはなかなか、いけた。
 カカシはイルカの袖を引っ張ってベッドの上に移動した。床に酒瓶や氷を入れたボールを並べて、二人で並んで腰掛けて飲んだ。一杯目を飲み干すとすぐに二杯目を作った。柑橘類と塩を一緒に摂るとアルコールの分解がよくなり悪酔いしないという。それでというわけではないが、五個のグレープフルーツを半分ずつ使ってグラスを重ねた。
 ぐふふと誰のものだか分からないような笑い声をたてながら、自分の親指の付け根に盛った塩を舐めているイルカを見ているうちにまた気をそそられて、カカシも一緒にイルカの手を舐めた。
 塩辛い。
 イルカの他の部分もしょっぱかった。
 夜明けまではまだ間があったので、「もう一回」と強請ってカカシはイルカのあちこちにキスした。イルカはキスが好きみたいだ。
 ビタミンCを摂って寝不足と運動に備えたつもりだったが、結局、二人ともメロメロに酔っぱらって互いを触りあっても射精までは至らず、熱を持つばかりの体を持て余してじくじくと股間を濡らした。甘く痺れる体を絡めキスし合って眠った。
 黄色い不細工な犬の夢を見た。
 鼻面に傷がある。
 可愛い。




 朝、しょぼつく眼を擦りながらカカシは二人分の濡れた服を持って部屋を出た。半地下のランドリー室に行くと早朝だというのに先客が一人、乾燥機を回していた。黙礼して、空いているドラム式の洗濯乾燥機に自分とイルカの服を放り込んだ。
 白々とした朝の光の中で任務帰りらしい男と並んで洗濯機の回るのを眺めているとなんだか笑いがこみ上げてきた。「ふ、」と笑い声を漏らしたカカシに男が不審そうな視線を寄越した。
 カカシは覆面の奥で笑いを噛み殺した。
 既に塩辛い現実が始まっている。
 だが、イルカはまだ自分のベッドで眠っている。カカシは自分の手首に巻かれたイルカの髪紐に触れてみた。
 それも現実なのだった。




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