#28 Kissing butterfly fish

先の大過を唯一まぬがれた本部棟の火影の執務室には、もうカカシを待つ金の髪のあの人はいない。
とうに代を譲ったはずの三代目火影が、老齢のためだけではなかろう、以前そこに座っていた時よりもずっと小さくなったように見える体を背もたれの高い椅子にぐったりともたせ掛けてカカシの帰還を迎えた。
黒いマントに返り血を浴びた白い暗部装束を隠してカカシは年老いた里長の前に立った。
執務机の上に差し出した任務遂行報告書を一瞥して、三代目火影はやつれた顔で微笑んで「ご苦労じゃったの」と労いの言葉をくれた。
「今日はゆっくり休め」
カカシは頭をたれて、火影の前を辞した。
夜も更けた時刻だというのに、本部等にはぽつぽつと明かりの灯る窓がある。カカシは暗部専用の地下の待機室へ入ると面とマントを脱ぎ捨て自分のロッカーに放り込んだ。金具の多いブーツや鉤爪のついた手甲も一緒に投げ込む。
それから着衣のまま控え室の奥のシャワー室に入った。蛇口のコックをひねる。グッグッと詰まったような音を数度たててからごぽっと濁った水がシャワーノズルから噴出す。鉄錆臭い赤茶色の水を流しきってしまうとやっとまともな湯が出る。カカシはぬるい湯を頭からかぶった。装束にこびりついた血が瘡蓋のように剥がれ落ちて湯と一緒に排水口へと吸い込まれていく。シャワーを浴びながらカカシは白いベストと体に密着した黒いアンダーを体から引き剥がして壁に押し付けて洗った。濯いでも濯いでも血の臭いはなかなか消えなかった。
それらを大雑把に絞ってシャワー室の個室のドアに引っ掛けると今度は自分の身を手でこすり洗う。
最後に冷たい水を一浴びすると、やっと人心地ついた。
タオルで大雑把に体を拭き、髪を乾かすと新しい忍服に袖を通す。こちらは長袖の暗部以外の部隊の者たちが着ているのと同じものだ。任務中は気にならないが真冬にノースリーブの暗部服は少々冷える。ロッカーから砂色のマントを引っ張り出して体に巻きつけると、カカシは暗い階段を上って本部等の正面玄関から外へ出た。
建物を囲ったブロック塀を横目に歩いてゆく。思ったとおり外は寒い。
本部棟の周辺にはまだ焼け残った民家がぽつりぽつりと建っている。その合間に崩れ落ちた家屋の瓦礫がそのまま放置されている。少し離れた空き地へ目を向けると、焼け跡から拾ってきたのだろう、廃材で建てられたバラック小屋が密集している。小屋小屋の真ん中の広場で火を焚いて暖をとる人々の姿が見える。それでもこの辺りはまだましな方だ。九尾の吐いたチャクラが濃く残る地区ではいまだに草一本生えない。
九尾の襲来から一年余りが経っていたが、木の葉の里はようやく復興に向かって歩みだしたばかりだった。
そんな光景を横目にカカシは自分の塒へ向かう。忍である自分達には急ごしらえの物とはいえ、一応、宿舎と呼べるものがある。自分達が任務をこなして外貨を稼ぎ、里を一刻も早く復興させなければならないからだ。
本部の東門の前を通り過ぎた時、後ろから誰かが門を出てきた。自分と同じく夜遅くまでの仕事を終えて宿舎へ向かうのだろう。静かな足音は自分の後ろを一定間隔を空けたままでてくてくと着いてくる。気配を消しもせず、一般人とそう変わらないのんびりとした足取りだ。下忍か中忍かな、と見当をつける。振り返って確認するほどのこともない。
本部の塀が途切れて、人気のない真っ暗な界隈へ出た。本部棟の周囲に民間人を集めて、それを守るように忍達の宿舎はある。宿舎へ向かう途中には飛び飛びにこんな風な亀裂のような暗闇がある。九尾の爪痕だ。残留チャクラが強すぎて民間人は近寄れない区域だ。カカシは今一度、砂色のマントをきつく巻き直して、その暗闇の中へ足を踏み出した。禍々しいチャクラが重苦しく全身へ圧し掛かってくるのを感じた。街灯の一本もない暗い夜道はただの空き地だというのに、まるで幻術空間に取り込まれたようなプレッシャーを感じさせる。後ろを歩く誰かさんも同じように息を詰めているのが伝わってきた。まさか一番安全なはずの里の中にこんな場所が出来てしまうなんて、前線を渡り歩いてきたカカシも考えたこともなかった。
戦で燃えるならまだしも、九尾のチャクラはまるで人間の手に負えるような代物とは思えなかった。それを体内に封じ込められた赤子の事をカカシは考える。
カカシの師である四代目火影は、あの赤子を救世主として扱うようにと願っていたが、それが将来の厄災の種にならぬと誰が断言できるだろう。あの子の体が果たして大き過ぎる九尾のチャクラに持ちこたえることが出来るかどうか。
嫌な噂がある。
木の葉が手にした九尾の力に対抗するために、砂隠れの里が守鶴の封印を解いたという噂だ。それは尾獣を体内に埋め込まれた子供がまた一人生まれたということだ。
厄介な火種を抱えたまま木の葉の里は復興へと歩を進める。
カカシごときが憂えても情勢は変わらない。しかし、これから先のことに思いを馳せると真っ黒な泥濘にずぶずぶと引きずり込まれるような気分になる。
きっと、この里の人々も皆、そんな気持ちでいるだろう。
せめて星でも見えないかとカカシは夜空を見上げた。闇に包まれたカカシの視界の端に、ひら、と光が踊った。
思わずあらわにした右目を瞬いた。
街灯もない暗い空にきらきらと光るものがある。二つ、身をくねらせじゃれあうように空中を泳ぐ魚が二匹いた。長い尾と胸鰭を持った優美な姿の生き物だった。青い鱗が時折、エメラルドグリーンに発光する。尾鰭と胸鰭の縁は赤い。
二匹の魚はひらひらとカカシの方へ空を泳いできた。番なのだろうか、寄り添いあって互いに前後しながらカカシの目の高さまで降りてきた。
そしてカカシの銀灰色の頭をつんつんと口先でつついた。
「へ?なに?」
目の前を流れるしなやかな尾鰭に目を奪われながらカカシは間抜けな声を上げた。
くすくす、と後ろから笑い声がした。
振り返るとさっきからカカシの後を歩いてきた人物が、口元を拳で押さえて笑っていた。黒い髪に黒い瞳をした青年、というにはまだ幼い。予想通り木の葉の額宛を身に着けている同業者だ。
「あ、すみません」
魚達の発する光を瞳に映して彼は微笑んだ。
「あ、どうも」
魚達に集られながらカカシは呆けた返事を返した。つんつん、頭や胸元をつつかれてくすぐったい。
「チャクラ獣みたいですね。害はなさそうだ」
「そう?」
彼の言葉にカカシは不安げに尋ね返した。その様子が可笑しかったのだろう。笑みを深めて彼は人差し指を宙を泳ぐ魚に差し出した。珍しそうに魚の一匹がその指先に顔を近づける。
「九尾の残留チャクラを食べに来る者達ですよ。時々、こういった地区に見られます。チャクラを食べて発光するエネルギーに変えてしまうんです」
真っ暗な闇の世界に住まう者達です、と彼は言った。
「あなたの銀髪が仲間みたいに見えたんじゃないですか?」
笑いながら言われてカカシは気恥ずかしく、頭を掻いた。
やがて魚達はカカシに飽きたのか、ひらひらとまた夜空へ昇っていった。はるか上空へと姿が消えてもその燐光はきらきらと美しく目に届いた。
「あんなきれいなものがこの世にはいるんですね」
夜空を見上げたまま少年は呟いた。
その言葉は素直にカカシの胸に響いた。
あんなにきれいな者が。この世に。本当に。草木の生えぬ暗闇にも。
二人は夜空を見上げた。
闇の中に無数の星の光があることに気がついたのは、魚達の残した光が完全に消えてしまってからだった。

少しばかり首が痛くなった頃、カカシは視線を夜空から横に立つ少年へ向けた。少々、恥ずかしかったけれども今更なので思い切って訊いてみた。
「ねえ、この辺で営業している店ってある?任務帰りで腹へってて」
カカシの言葉に少年はちょっと驚いたような顔をして答えた。
「俺も、仕事帰りでちょうど飯食って帰ろうと思ってたとこなんです」
とっておきの店があるんです、と少年はにかっと笑った。
闇の一角を抜け出てしばらく歩くと人の気配のする場所へ辿り着いた。
「あそこにいつも来てるんです」
少年が指差した先には屋台が一台、暖かそうな光を灯していた。
屋台の後ろに吊るされた大きな提灯には「一楽」と屋号が記されていた。昔、カカシが先生に連れられて同じ班の仲間達と行った店と同じ名前だった。
中央通りを少し脇にそれた場所にあったあの店は九尾の災禍で焼けたはずだ。
「木の葉で一番美味いラーメン屋ですよ。店は焼けちゃったけど、また屋台から始めたんです。屋台でも味は全然変わってません」
気のせいか少年の足が早まっている。出汁のいい匂いがここまで漂ってきて空腹中枢を刺激する。
「よかったね、あんたも俺も」
思わずカカシは言っていた。
「生き残れて」
振り返った少年は足を止め、黒い目を見開いてカカシの顔を見つめた。
「なに?」
見つめる瞳があんまり真っ直ぐなのでカカシは居心地悪く肩を揺すった。何かを言おうとして少年の口が開かれる。よく見ると、顔の真ん中に一筋の傷がある。その傷がきゅうっと歪んで少年の顔が泣き笑いの表情になった。
「……はい」
やっと絞り出したような声で言って、少年は口を真一文字に食いしばって俯いた。一つ、こくりと頷いて少年はカカシへもう一度黒い目を向けた。
「生き残れてよかった」
にっと白い歯を見せて少年は笑った。頭の上で括った髪がぴょんと跳ねたかと思うと、少年は駆けだしていた。屋台の暖簾をくぐって大きな声を張り上げる。
「オヤジさん、味噌二つ!」
勝手に注文されてしまった。少年の行動に一瞬、呆気にとられたカカシだが、ま、いいか、と思い直す。
それは先生が一番好きだった味だから。
ただ今少しだけこの世にあって、今夜のような美しい夜を眼に映すことが出来ることを幸運だと思った。

2008.3.14

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