原生生物並みの扱いを受けた地の守護聖はしかし御機嫌だった。
こんな場所が現実にあるなんて思わなかった。木が生えている。たくさん。たくさん。たくさん。オアシスの周囲に辛うじて出来たまばらな林などではなくて、視界を覆うほど生い茂り歩いても歩いても途切れることのない深い緑。本に出てくる[鬱蒼とした森]というのはまさしくこれを指すものだったのかと感嘆した。
木の根に足を取られ幾度か転びそうになりながらも、それでも周囲をキョロキョロと見回さずにはいられないらしいルヴァが危なっかしくて、ゼフェルはルヴァの手を引いてやった。小さな手はゼフェルの掌にすっぽりと入ってしまって、なんだかおかしな気分になった。
「こんなちっせーのがあんなおっさんになるんだもんなー」
これだったら自分もすぐに大きくなるような気がする。自分が九つの時はこのルヴァより大きかったような気がするし。
「よし。将来の明るい展望が見えてきたぜ」
「あ・・・・」
不意に森が途切れ眼前に広がった光景にルヴァは言葉を失った。
湖だ。
心を吸い取られたようにルヴァはその美しさに見とれた。世界のすべての音を吸い込んでしまうような滑らかな水面は鏡のように周囲の森を逆さまに写しだし不思議な空間を作りだしていた。
「こんなきれいな場所は初めてです」
放心したように呟くルヴァ。
「うん」
ゼフェルも見慣れたはずの湖の、初めてみるような美しさに眼を奪われた。
「ねえ、この前はあの子達がいたから言わなかったけどさ----」
昼下がりオスカーの執務室へ現れたオリヴィエが珍しく沈んだ口調で言った。
「ああ」
その言葉を予想していたかのようにオスカーは頷いた。
「マルセルもカティスの幼い頃によく似ていたというからな」
リュミエールも、とオスカーは低く続けた。
「そう思ったみたいだ。いつもよりぼんやりしてる」
午後のお茶の時間に彼は自慢のハーブティーを蒸らしすぎてダメにした。いつも儚げでおっとりしている彼だが今日は特別上の空だった。
「あんた達って、ほーんと仲がいいのか悪いのか分かんないね」
犬猿の仲の水の守護聖を心配するオスカーをからかうようにオリヴィエが笑った。
「別に。あいつの不抜けた顔を見てるとこっちまで気が削げるからな」
「あの子、心配事があると天然はいるからねー」
「まったく、あいつがルヴァと気が合うのがよく分かる」
肩を竦めるオスカーにオリヴィエは苦笑を漏らした。
年中組の三人が考えたことはこうだ。
ルヴァが体の調子を損なったというのは、つまりサクリアが衰えてきたということではないか。マルセルが見たというルヴァそっくりの子供はルヴァの後任で、ルヴァがゼフェルに面倒を見るように言ったのではないか。ゼフェルに気持ちの整理をつけさせ、一人立ちのきっかけになるようにと後任の少年の世話を頼んだ。
ルヴァの考えそうなことだ。
「本当にそうだったら…」
低くオリヴィエが呟いた。自分たちはどうすべきなのか。
もし自分がそうなったら、その時は、どうしたいと望むだろう。
誰にも何も言わずにひっそりと?それともさばさばと割り切って事務的に…。
ルヴァはどうしたいと望むだろう。
もう一週間もルヴァの顔を見ていない。
「ジュリアスは何か言ってないの?」
オリヴィエの言葉にオスカーは黙って首を横に振った。
「あの方は知られたくないような事は知っているくせに肝心なことを知らないからな」
考え込むように顎に手をやる仕草には幾人の女人が吐息を吐いたであろう、が、オスカーの科白は上司に苦労させられる部下のさえない本音だった。
「・・・今の言葉、ジュリアスに言いつけちゃお」
「オ、オリヴィエ!!」
本気で慌てたオスカーにオリヴィエはあっはっはー、と舌を出してみせた。
「冗談だよ」
「本当に言うなよ」
「はいはい」
再び、二人は考え込む。
「ジュリアスが知らないんだったら・・・」
「陛下か、ロザリアか」
簡単には聞き出せそうにない相手だ。あるいは・・・
「クラヴィス・・・」
その名前が出た途端、オスカーは両手を上げてお手上げだというポーズを作っ
た。
「それはリュミエールの役目だな」
銀糸の髪に憂い顔を半ば隠すように俯いてリュミエールは窓辺から外を眺めていた。昨日、マルセルとランディの話を聞いてからずっともやもやとした不安に胸を締めつけられてリュミエールは昨夜はよく眠る事が出来なかった。はっきりとした形を取らない不安。だがそれがどういったものなのかは薄々自分でも分かっていた。敢えてはっきりさせてしまうのが厭だったのだ。
別れは自分たち守護聖に限ったことではない。誰にも訪れるものだろうに。
それでもいつもどこかでその気配に怯え続けている自分。やるせない気持ちでそっと溜息を吐いた。
---気分転換でもしましょうか。これでは執務にも障ります。
リュミエールは傍らの竪琴をとるとそっと自分の執務室を後にした。
いつもながらその部屋は暗かった。主の司る力と同様に暗くしっとりと落ち着いた空気。微かに香の匂いが漂っている。人によっては陰鬱で居たたまれない雰囲気だと言うがリュミエールはこの部屋に来ると不思議と心が安らぐ。闇の力と水の力は相性がいいのだろう。
部屋の主人はいつものように執務机の向こうに座って水晶球を眺めていた。
が、いつもの気難しげな眉間の皺は消えて、気のせいか微かに口元が緩んでい
るようだ。
「失礼します。クラヴィス様?」
訝しく思いながらリュミエールが声を掛けるとクラヴィスは、ああ、と答えてクスリと笑みを漏らした。
「どうなさったのです?」
「つい、面白くてな」
「水晶球に何か映っているのですか?」
つられるように微笑んでリュミエールはクラヴィスの手元を覗き込んだ。彼に水晶球の映し出す事柄は見ることは出来ないのだがつい、足がそちらへ向いた。
クラヴィスはクスクスと笑いながら
「あれも、ああなってしまうと」
と呟いた。
「あれ?」
クラヴィスの言う「あれ」というのは大抵人を指すことが多い。この場合は誰のことを言っているのか。リュミエールが考えを巡らせていると不意にクラヴィスに名を呼ばれた。
「心配することはない。それはもっと先の事だ」
驚いてリュミエールはクラヴィスの顔を見つめた。この男は他人の心が読めるとでもいうのだろうか?
だがクラヴィスはリュミエールの視線を気に留めた様子もなく静かに続けた。
「あれ達にも心配はいらぬと言ってやれ。気を揉んでいるようだ」
彼の言う意味に気付くとリュミエールは晴れやかな笑みを浮かべた。
「はい。クラヴィス様」
「お前…さ…、」
「あ、あ、離さないで下さいよ………」
「ガキの頃からこんな鈍くさかったのか…」
ぶらん、とルヴァは木の枝に引っかかっていた。
湖の上に大きく枝を張り出した楡の木は丁度良い枝振りで、年少の守護聖達の木登りポイントの一つだった。他にもマルセルが見つけてきた木登りポイントはいくつかあって、メルもティムカも、聖地へやって来た少年達は遊び仲間に入るための通過儀礼のように一緒に木に登る。いや、マルセルが勝手にそう決めているらしい。マルセルとしては「僕のとっておきの場所を教えてあげる!」という気持ちらしいが、登ってみろと言われた方は試されているような気持ちになる。ゼフェルも「こいつ可愛らしい顔して良い根性してるじゃねーか」と思った。
思う。フツーは。
サルのように登れといわれたら木でも崖でも人ン家の壁でも登るランディは別として。
しかしティムカもメルも人並みに運動神経があったから問題はなかったわけだ。しかし、この鈍くささが服を着て歩いているような青鈍色の髪の少年は…。
「うう…手が痺れてきた…」
「ひゃっ、お、落ちる…」
ルヴァがなんとか枝に身を乗り上げようと足をジタバタさせる。
「バカ、揺らすなって…!!」