彼女のあんな華やいだ顔を見たのは初めてかもしれない。
他の男が心を占めていても、人から向けられた好意というのは嬉しいものなのだな、とヤマトは思った。
「花でも贈ろうかな」
「誰に?」
上忍待機所のソファの上で一人呟くと、後ろから人の声がしてぎくっとした。
誰もいないと油断しきっていた。
振り返ると、背中合わせに配置されたソファに寝そべる男がいた。
仰向けにだらりと弛緩した体を投げ出している。腹の上に愛読書を広げて載せている。声を出しても、相変わらず気配はない。
「先輩、いたんですか」
「いたよ。おまえが入ってくる前から」
気がつかなかった。この人は本当に気配が薄い。ついでに体も薄っぺらいから、そうやって寝そべっているとソファに同化してしまって、そこにいるなんて気がつかない。衣服の下の体はしっかりした筋肉がついているのに、着痩せする質なのかひょろりとして見えるのだ。
「で、誰に花を贈るって?」
片方だけ見えている右目をちらりとヤマトへ向けて、カカシは尋ねた。声はいつもの間延びした調子だが、目には剣呑な光がある。
わかっているくせに。
答えないでいると、カカシはむくりと身を起こした。
「おまえの、その、あの人をその辺のお姉ちゃん扱いするとこ、ムカツク」
別にお姉ちゃん扱いはしていないが、実際、彼はその辺にいるあんちゃんである。
「おまえにとっちゃあ、行きつけの店にいるちょっと可愛いお姉さんみたいなもんなんだろ」
まあ、よく行く受付のちょっと可愛いあんちゃん、ではある。
「先輩こそ、その、地上に降りた最後の女神的な扱いはどうかと思いますよ」
つい皮肉っぽく言ってしまう。
あからさまにカカシはムッとした目をした。
この先輩がこんなに感情豊かだとは、何年も一緒に組んで任務をこなしてきたというのに知らなかった。暗部を抜けて上忍師などを引き受けたせいだろうか。それともあの人のせいなのだろうか。
あの人が絡むとこの人はおかしくなる。
「おまえには分からない」
今もそんな事を言って、子供みたいにぷいとそっぽを向いてしまう。
ヤマトは苦笑した。ヤマトは彼の事をカカシのように特別な人間だとは思っていない。
その辺にいる、朗らかで闊達な、ちょっと熱血の、笑顔に愛嬌のある中忍だ。容姿は平凡だし、所詮、男だ。
まあ、時々、可愛いけれど。
それだけだ。
むしろ、カカシの方がよほど特別にヤマトには見える。
いや、他の人間にとってもそうだろう。
覆面の上からでも分かる、細い顎や鼻梁、切れ長の目、きれいな線のうなじ、あんな鋭く重い打撃を生むとは思えない細い手首。肌も髪もどこもかしこも色素が薄い。
そして桁外れの殺傷力。
ほれぼれするような忍だ。
女だけではなく、昔はよく男にも言い寄られていた。無理はないと思う。手に入れたくなるような存在なのだ。
なんだって、この人はあんな平凡な中忍にトチ狂っているんだろうと正直、思う。
ふと、カカシが窓の方を見た。
ヤマトも気づく。
窓の外から響く賑やかな笑い声。
窓から地上を見下ろすと、一階の渡り廊下をまさしくカカシの焦がれる相手が子供達にまといつかれて歩いてくる。
子供達は皆、イルカにタックルするように腰にしがみつき、腕にぶら下がって教師の行く手を阻もうとしている。子供達を引き摺ってイルカは渾身の力で歩を進める。
「こーら!放せって!先生はまだ仕事があるんだ!」
「なんでー?休み時間じゃん!遊ぼうよー!」
「ドッヂボールしよー!」
「明日な!先生はこれから本部で仕事なんだ!」
顔を真っ赤にして叫ぶが、子供達はますますはしゃいでイルカにぶら下がる。
「ふぬーーーー!」
イルカは叫んで子供達を振りほどく。振り切られて子供達がきゃあ、と嬉しそうに甲高い声を上げる。皆、必死で振りほどかれまいとしがみつく。
ああいう遊びが流行ってるのかな。子供達相手にあんなに必死になって。
次々、子供達を振り切って最後の一人を振り落とすとイルカはぴょん、と一階の窓の軒に飛び上がった。
「ほらほら、休み時間おわっちまうぞ!帰った、帰った!」
しっしっとイルカが手を振ると、子供達は不満そうな声を上げながらアカデミー棟へ戻っていく。
ほんとに気の好いあんちゃんだなあ。
そう思って眺めていると、イルカは子供達の背中を見送りながら柔らかく微笑んだ。
子供達を見つめる、温かくて強さのある眼差し。
つい、目を奪われぼうっとなったヤマトの顔に視線が突き刺さる。
「おまえは分かんなんなくていいから」
「いやいやいや!」
カカシに冷たく言われて、ヤマトはブンブン、首を振った。
ボクは先輩とは違いますから!
「おまえはイルカ先生のこと、見るな。減る」
「なんですか、それ」
ひどい言われようだ。
「先輩達は両思いなんでしょ。ボクの事なんて気にしないで大きく構えてればいいじゃないですか」
そもそも、自分がイルカに構ったのはカカシがあの人を邪険にしているのに同情しただけだ。
「−−−−−−」
カカシは無言で向こうを向いてしまった。