部屋に揃えられていた浴衣と手拭いを持って二人は部屋を出た。
 廊下の向こうに外へ出る引き戸があって、靴箱に並んだつっかけを履いて山道に渡された板の上をからころと下ってゆく。木立の中を、山の斜面に渡された木道は古びていて、細い木の手摺りは心許ない。こんな所に温泉なんか本当にあるのだろうかと思えてくるが、数分も歩かないうちに木立が途切れ、木造の湯殿が見えてきた。
 古びてはいるが手入れはいいのだろう。入り口の引き戸はからりと軽く滑って開いた。中には黒ずんだ木目の棚があり、棚の升目のひとつひとつには脱衣籠が置かれている。イルカは寺の宿坊など泊まったことがなかったが設備的には普通の温泉と変わらないようだ。入り口の土間に突っ掛けを脱いでイルカは年季が入ってつるつるになった床板の上にのぼった。他に客はいないらしく整然と並んだ脱衣籠には誰の衣服も入ってはいなかった。ちょうど胸の高さの使いやすい位置の棚を選んで、服に手をかけた。こういう場合、脱衣所では照れないことが鉄則だがやっぱり少々照れがあってイルカは後ろから来ているはずのカカシを伺った。
 カカシは入り口から真っ直ぐに浴室に繋がる引き戸へ向かった。何をするのだろうと見守っていると、からからと半分ほど戸を開いて浴室の中を見渡している。
 用心深いんだな、とイルカは感心した。
 ビンゴブックに名前が載るような上級の忍は旅先でもそんな風に気を張っていなければならないものなんだな。イルカのように日々のんべんだらりんと過ごしている中忍とは違うのだろう。
 そう思いながらイルカはカカシに見られていないのを幸いとさっさと服を脱いで籠に適当に畳んで突っ込んだ。
 国境近くとはいえ火の国の砦がすぐそこにあって、旅団クラスの警備隊が駐留しているような土地でそうそう滅多な事など起こらないと思う。
 イルカは裸になると手拭いを腰に巻いて浴室の入り口まで行って、カカシの肩越しに中を覗いた。湯気の向こうに平らな石に囲まれた浴槽が見えた。
 わあ、と思わず呟いた。
 大小の岩に囲まれた浴槽の向こうは切り立った崖で、木製の手摺の向こう、生い茂る木々の合間の暗い空に今日最後の赤光が熾火のように天の底を舐めているのが見えた。ちらちらと炎が瞬いているように見えるのは麓の湖が波立っているからだ。
「絶景ですね」
 嘆息を漏らしたイルカに「ええ、」とカカシは振り返って、ぎょっとした顔を見せた。
「なんでもう脱いでるんですか!?」
「脱がなきゃ風呂入れないでしょう」
「そりゃそうですけど…」
 見開いた目のままカカシはイルカの顔から足先までを見下ろし、足下から再び舐め上げるように全身を眺め回した。いつもは眠たげに半分下がっている目蓋が開くと、切れの長い目は驚くほど大きかった。目玉が零れ落ちるんじゃないかと心配になってしまう。
 思わずといったその反応は、イルカや中忍の友人達が道で露出の多い服を着た女性とすれ違った時に思わずしてしまう挙動とまったく同じで、イルカは写輪眼のカカシともあろう上忍がそんな無防備な表情を晒すことがあるんだなあ、と変なことを感心した。そんな視線を向ける対象が同性である自分の体だというのはなにかのギャグなんじゃないかという気がする。
「先に入ってますよ」
 そう言ってイルカは細く開いた浴室の戸を思い切り開いて中に入った。
 カカシが可笑しいというか、この状況自体が可笑しくて「ははっ」と声を出して笑うと板壁で囲まれた湯殿に篭った響きが返る。地熱で暖められた岩盤をぺたぺた裸足で歩く。湯気が籠もっているけれど、流石に風が冷たい。
 岩の間から勢いよく浴槽へ注ぎ落ちる湯を手桶に汲んで軽く体を流すと、足先からゆっくりと湯に浸かった。体の表面からじわじわと熱さが伝わって指先がぴりぴりする。湯の熱さに食いしばった口が勝手ににんまりとしてしまう。何とも言えない心地良さだ。
 やっぱり家の風呂とは全然違う。
 どうどうと贅沢に潤沢に、後から後から湧いて出る湯の音に体も気持ちもゆったりとほどけてゆく。
「なに笑ってるんですか?」
 衣服を脱いだカカシが浴室に入ってきて、湯の口に屈み込むと手桶に汲んだ湯を被った。
 白い。
 湯船から見上げたカカシの体の白さにイルカは息を呑んだ。
 白磁のような、いっそ青白く見えるほどの作り物めいた白さだ。
 無駄な一切を削ぎ落としたような肉体だった。胸は思っていたよりも広く、渓流に棲む魚のような薄い腹の脇にはあばら骨が透けている。筋肉はついてるが関節は細く締まり、手首や足首は華奢に思えるほどだ。 痩せていながらよく走る猟犬のような体だ。
「あんまり見ないで下さいよ」
 屈んだ姿勢のままカカシが困った顔を向けてきた。
「あ、す、すいません」
 さっき、カカシの反応を笑ったはずなのにイルカ自身もカカシの体に目を惹きつけられるままじろじろと視線を向けてしまった。
 −−−あ、顔出してる。
 当然の事ながらいつも鼻から下を覆っている覆面もしていない。
 変わった男だと思う。
 上忍には変わり者が多いと言われるが、その中でもカカシは不思議な存在感を持っている。斜め掛けの額宛や、顔を覆った風体がそう見せるのだろうと思っていたが、それらを取り除いても、むしろ取り除いた状態のカカシの方が特殊なのだとこうして見ると分かる。特殊だからこそ覆い隠されているのだ。
 すいません、と言いながらカカシを見つめ続けているイルカにカカシはふう、と溜息を落としてざぶざぶと湯船に入ってきた。
「あなたの目って時々、子供並にハードですよ」
 顎まで湯に浸かってカカシがぼやいた。
「え、」
 それは不躾すぎるということだろうか。
「すいません」
 だって珍しいのだ。
 写輪眼のカカシの素顔に裸体なんて、里の上層部や担当忍医くらいしか見ることを許されていないと思う。
 それか、情交の相手か。
 あれ、なんで自分、こんなとこで素のカカシを見てるんだろう。
 カカシがイルカに視線を寄越す。
「俺が先に入るんだった。そしたらイルカ先生の体、じっくり見られたのに」
「ははっ、風呂は先にとっとと脱いで入っちゃった方が恥ずかしくないんですよ」
 また、笑う…とカカシが眉尻を下げた。濡れた前髪が額にへばりついていて情けない顔になる。物言いたげな、そんな顔をよくさせてしまう。イルカはあたふたと付け足した。
「俺の体なんて珍しくもなんともないですよ。そんなに絞り込んでるわけでもないし」
 触れれば手の切れそうなカカシの体とは比べるべくもない。
「俺はそのくらいの方がいいなあ。俺って細すぎるでしょ」
 浴槽の縁の岩に頭を凭せ掛けてカカシはちゃぷりと湯の中から手首を覗かせた。
「体の質量分、スタミナが詰まってるような体がいいなあ。ほら、こないだ一緒にデカイ海獣見に行ったでしょ。あんなのいいですねえ」
「え、あのトドですか!?」
 トドじゃないですよ、とカカシが海獣の正式名称を挙げたがイルカは釈然としない。
「俺なんてちょっと油断したらすぐあんなんなりますよ」
 その上、名前が海豚だからまったく洒落にならない。イルカがそう言うとカカシは笑った。
「でもすごい迫力だったじゃないですか」
 迫力か。たしかにカカシは実力の割に存在感が薄い。だがそれは忍としては理想的だと思う。ガイや自来也のような全身から気合いと迫力が漲っているような強い忍もいるが、あれはまたあれでイレギュラーだと思う。
 人は自分にない物を求めるのだろうかとイルカは思った。
 暫く、並んで岩に凭れて遠い空の下の湖を眺めていた。見知らぬ土地の見知らぬ夕闇は物寂しい気持ちにさせたが、同時に開放感もあった。この男とこんな風に同じ風景を眺めるのは二度目だ。一度目は任務で、今はただ約束をしてここへ来た。
 二人で里を離れてこんな遠くまで来て身を晒し合って、何を許し合おうとしてるんだろう。
 不意に視界の端で湿って鈍色がかった銀髪がたぷんと湯に沈んだ。そのまま音もなく、すい、とイルカの脇を離れてカカシは岩の向こうへ移動した。
 どうしたんだろうと思っていると、きしきしと木道を軋ませてやってくる数人の足音が聞こえた。
 足音はだんだん近づいてきて、華やいだ人声も一緒に聞こえてきた。からら、と脱衣所の戸が開く音がして、甲高くはしゃいだ声と一緒に衣擦れの音がする。
 え、まさか−−−。
 イルカは浴室の戸とカカシが隠れた岩とを交互に見回した。
 特に説明はなかったし、湯殿の入り口にもなんの但し書きもなかったけれど。
 −−−ここって混浴なのか!?
 出るに出られず、逃げる間もなくイルカの目の前で浴室の戸が開き、女達が入ってきた。
「あら、先客がいるわ」
 手拭いで前を隠しもせずにやって来た女達の裸体を前にしてイルカは湯の中で固まった。
 女達は恥じらう様子も見せずにわらわらとイルカに近づいてきた。
「見かけない顔ねえ。体つきは忍みたいだけど」
「あ、あれじゃない?今日、里から一人派遣されてきたっていうの、あなたでしょ?」
 女達は男がそこにいるというのに気にした風もなく掛け湯をして湯船に入ってきた。
 質量を伴った迫力。
 カカシの言った意味がはっきりイルカにも分かった。
 あ、やべえ。
 ぷちん、と鼻の奥で小さな音がしてイルカは鼻を押さえた。
 たら、と暖かい物が鼻の下を伝い、そのままぼたぼたと液体が落ちて湯を赤く染めた。
 きゃあ、と女達が声を上げる。
 湯に浸かっていたせいか鼻血は結構な勢いだった。

やっぱり鼻血。鼻血先生。

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