イルカは子供の頃に聞いた昔話を思い出した。
ちょうどこんな夜の山道を歩いていると、遠くに灯りが見えてくる。山奥にあるはずもないような立派な屋敷が建っている。一夜の宿を請うと綺麗な女の人がご馳走を出してもてなしてくれる。豪勢な風呂に入って、絹の布団に寝かされて、朝目が覚めると野っ原で寝ている自分に気づく。
「ぼた餅は馬の糞、風呂の湯は牛のしょんべん」
呟いたイルカに、案内の男が振り返って笑った。
「狸ではなく蛙の宿です」
作務衣を着た剃髪の若い男は寺男らしい。砦が近いせいか忍には慣れている風で、庫裡の玄関に現れたイルカをすぐに宿坊へと案内してくれた。庫裡の横から伸びた傾斜のある渡り廊下を上っていく。
昔から蝦蟇は木の葉の守護として尊ばれてきた生き物だから狸ほどは嫌な気持ちはしないが、寺院という場所のせいかあやかしがそこここに潜んでいるのじゃないかと思ってしまう。
渡り廊下の片側は剥き出しの岩盤で、もう一方は野生の椿が鬱蒼と茂っていた。黒々とした緑の葉が幾層にも折り重なって重たげだ。異界にまぎれ込んでしまったようなようだ。
廊下は宿坊らしき木造の建物に繋がっていた。きしきしと鳴る廊下を歩いて奥の間の襖まで来ると、寺男は内へと声を掛けた。
「お連れの方がみえましたよ」
開かれた襖の向こう、寺男の肩越しにもそりと銀の髪が揺れた。
八畳敷きの部屋の中央には座卓が置かれ、雪見障子の下に細長い手脚が投げ出されている。
畳の上に寝転がっていたカカシは男の声に身を起こしてきちんと正座した。ベストと額宛は身につけていない。いつもどおりの黒い上下で、顔の下半分は隠しているが膝の上で軽く握られた手には手甲はない。異界の宿ですっかり寛いでいたらしい。
「どうも」
居住まいを正してカカシは軽く頭を下げた。イルカも姿勢を正して三十度の角度で頭を下げた。
「どうも、お待たせしました」
畏まって辞儀をし合う二人に寺男は怪訝そうな顔をした。温泉へ来た連れ同士が堅苦しく挨拶を交わしたのがおかしかったらしい。どんな関係の二人かと訝しんだのだろう。
「湯はこの建物を出て斜面の下へ続く木道を少し下った所にあります」
内風呂はないそうだ。洗面は建物の裏手にある水場から常時、温泉の湯が流れ出しているのでそこを使うようにと言われた。食事は寺の者達が摂るのと同じ精進料理を用意してくれるそうだが、自炊場もある。どうやら本格的な湯治場のようだ。若い寺男が座卓の上に盆に載せられた茶器一式でお茶を煎れながら一通り施設の説明をしてくれた。
食事の用意が出来ましたら呼びに参りますから、それまで湯に浸かってきたらいいでしょう、と勧めて寺男は部屋を出て行った。
二人きりになった。
カカシは障子の白さを背に座卓を挟んだ向こう側に座っている。
簡素な造りの部屋だが四隅の柱や梁がしっかりしていて趣がある。カカシはここの宿主のようにこの場の空気に馴染んでしまっていて、イルカだけが場違いな所へ入り込んでしまったような気がする。山の静かな空気が辺りを取り巻いている。
「とりあえず楽にしたらどうです?」
ベストも脱がずに畏まって座っているイルカにカカシが言った。
「あ、はい、そうですね」
イルカはあたふたとベストを脱ぎ、額宛をはずして部屋の一隅に置かれた衣桁に引っ掛けた。既にカカシのベストと額宛もそこにあった。
「休暇だし、私服で来ようかとも思ったんですが普段ずっとこの格好でいるものですから、やっぱりこの格好で来てしまいました」
カカシが照れくさそうに頭を掻きながら言った。
「それになんだか浮かれすぎているような気がして」
先刻まで仕事だったイルカと違い、カカシは休暇として里を出てきたのだから忍であることを示す額宛もベストも必要ない。
「休暇を外で過ごすなんてあまりしたことがないので勝手が分からなくて。ここも昔、駐留した時に来たことがあった湯なんでここを指定してしまったんですけど、山の下にはもっと豪華そうな宿がたくさんありましたね」
はは…、とカカシは眉尻を下げて情けなさそうな顔をした。
この人が言い訳をするのを初めて聞いたような気がする。少し驚いた。
「いえ!俺はこういう静かな所の方が好きですよ!」
思わずイルカは不自然にカカシの目を覗き込んで力説してしまった。
「そうですか?」
「そうですよ!普通の温泉宿なら今までも行ったことがありますし、ここってすごい秘湯なんでしょう?そういう所の方が温泉通には好まれるんですよ」
まるで自分が温泉通であるかのような言い草だ。イルカは趣味は湯治と言ってはいるものの、どちらかというと「ゆっくり温泉に浸かりに行けたらいいなあ」という願望の方が強くて、実際に温泉場に行ったその殆どが職場の慰安旅行などだから本当に温泉に詳しいというわけでもない。
時々、温泉地のパンフレットなどを眺めて、心の中のいつか行ってみたい温泉リストに加えている程度だ。海の岩場にある温泉とか、船でしか行くことの出来ない川縁に建つ温泉宿とか、そういう秘湯と呼ばれる場所にイルカも行ってみたいものだと思っていた。
そう考えると砦の師団長が言っていた「秘湯中の秘湯」という言葉が気になる。どんな湯なんだろう。
「お風呂、入りに行きましょうか」
自然にイルカは、にへっと笑った。
カカシは上忍の中でもあまり心の内を見せない人だという印象があったが、自分で言うように彼なりに浮かれているのかもしれない。
可愛いなあ、とイルカは思ってしまった。