その日の朝早く、イルカは最小限度の装備を携えて大門を後にした。
朝霧が濃くたれ込める街道を北へ向かって歩いてゆく。
カカシは後から自分の任務を終えてから出立し、イルカが仕事をしているのを追い越して先に湯治場へ到着している予定だ。
街道を北上して関所に辿り着くたびに同じように検問強化のための講習会を開いた。
決まっているのは帰る日付だけだったから、早く仕事が終わればその分長く休暇が取れる。その辺は融通を利かせてくれるそうだ。そうかと思うと自然とイルカの脚は速まった。
一日の間に午前中に一カ所、夕方にもう一カ所、大きな砦のある要衝や、街道同士の交わる大きな関所では一日掛かりで業務の抜き打ちの審査をして報告書を書き、式を飛ばした。
里を遠く離れるにつけ、気候が変わり、空の色が変わってゆく。
見知らぬ土地の向こうに親しんだ人が待っている。奇妙な感じだなと思った。いつも任務で里の外へ出る時、イルカの心が帰属するのは里の火影の膝元だ。慣れない土地で空を眺めては里を恋しがる。
なのに今は、里を遠く遠く、離れてゆくごとに気持ちが弾んでくる。
行く先は火の国国内の木の葉忍の駐屯地で、公務のために里を出てきたというのに、どこか後ろめたい。その分、どきどきした。
イルカにとって大切なのは、里であり、火影であり、アカデミーの生徒であり、だが今はそれらのすべてを置き去りにするために、足を速めて北へ続く埃っぽい街道を歩いているような気がした。
すべてを置き去りにして、あの男と二人だけの時間を持つために歩いている。
−−−俺は仕事のために来たんだ。
−−−ちゃんと業務はこなしている。
−−−その後の休暇はおまけみたいなもんだ。
遊ぶついでに仕事してるんじゃない。仕事の合間に遊ぶんだ。そう自分に言い聞かせても、自分の中でこの道行きの目的は遠い山脈の保養地で待っている男に会うことになってしまっている。
鼻先ににんじんをぶら下げられた馬を想像した。
でもこの休暇ではっきりするんじゃないかと思う。あの男が一体、自分に何を求めているのか。自分がそれに答えることが出来るのか。
里を出てから四日目、街道の交わる分岐路で西へ向かう道へ入ると乾いた黄土から鉄分を含んだ黒い土へと、道の色が変わった。そして大陸北部の乾いた大気の向こう側に、青く黒く連なる野火連山が姿を現した。
野火の砦は火の国の北西部、滝隠れの里との境界に連なる野火連山の小高い峰の上に築かれた山城だ。懐に深い緑青色の湖を抱き、滝隠れとの国境には巨大な瀑布が轟々と音立てて流れ落ちる、空に突き上げられた槍のような峰峰は天下の険と呼ばれるに相応しい。
山道を一時間半ほどは登っただろうか、辿り着いた城門で案内を請うたイルカに警備の忍はすぐに責任者へ取り次いでくれた。
事務官だという中忍が城内へイルカを案内してくれた。すでに里から通達は届いているという。
砦のある山の下には土の国まで続く街道が湖に沿って通り、それを囲んで温泉場がある。土の国と行き来する旅人や商人達はここで宿を取り、湯に浸かって疲れを癒してまた旅立ってゆくのだ。
今回の出張の最終目的地である国境の関所を視察し、指導を終えてからイルカは駐屯地の責任者に挨拶をするためにこの砦へ立ち寄った。
砦は本丸、二の丸、三の丸に出丸もあり結構な大構えだ。各郭への門にはそれぞれ枡形が作られ、急峻な山の上の砦を更に堅固なものにしている。かつて国境の戦いがいかに激しかったかを偲ばせる
しかし今は滝隠れの里も木の葉の同盟国となり、この辺りも安全な保養地として賑わっている。
「冬は厳しいですけれどね。いい所ですよ」
眼下に青い湖面を見下ろして、北部第二十二国境警備旅団長は白いものの混じった顎髭を撫でながら言った。
「今の季節は渡りの鳥が湖にきていてね。ほら、たくさん見えるでしょう」
彼の視線の先を見れば広がる青の色の上に灰色がかった白い小さな点が無数に浮かんでいた。目を凝らせば一羽一羽が羽ばたき、水を跳ね上げる様が見て取れる。
イルカが案内されたのは本丸の上の櫓だった。火影からの親書を渡し、里の近況などを語った。三代目の葬儀の様子を語ると旅団長である上忍は悲しげに眉を寄せ、湖を囲む峰々へ目を向けた。
ひとしきり情報を交換し、出入国者への取り締まりの強化などについても説明し、話を切り上げる頃には既に北の弱い日差しは既に陰り始めていた。
今夜の宿はどうするのか、心当たりがないなら砦に泊まるのもいいが折角、来たのだから温泉場の宿を紹介しようと言われたが、イルカは先に来た連れが泊まっている宿があると断った。
「疋馨寺という所なのですが」
イルカが宿の名を告げると、旅団長は「ほう」と目を丸くした。
「蝦蟇の湯か」
ガマの油?
「外から来た人間には殆ど知られていない秘湯ですよ。傷によく効くと言われていて戦忍達が身を潜ませるような」
「そうなんですか?」
旅団長の言葉にイルカも驚く。
カカシは以前、この砦に駐留したことがあると言っていた。おそらくその時にその宿を知ったのだろう。彼がここへ来たのがどれくらい前のことか分からないが、カカシの名前を出せば、旅団長もカカシのことを知っているかもしれない。
だが、イルカはカカシの名前を口にはしなかった。面識がなくとも「写輪眼のカカシ」の名は旅団長クラスの人間には知れ渡っているだろうし、そうするとまた挨拶に行くとか来いとかややこしい事になりそうだ。
休暇で来たのにカカシに煩わしい思いをさせたくはなかったので、イルカはにこりと笑って黙っていた。
旅団長は櫓の窓から身を乗り出して、砦の下の温泉場への道とは反対の方向を指差した。湖を四分の一周ほどした山中に、瓦葺きの屋根が見えた。
「あの寺ですよ」
砦の上に伸びる細い林道があるそうだ。一本道だから迷うことはないが暗くなると面倒だから早めに立った方がいいだろうと言われた。里への連絡の式は飛ばしておいてくれるというので、イルカは旅団長に丁寧に頭を下げて砦を後にした。
熊でも出そうな鬱蒼たる山中を、落日の光に急き立てられて歩いたが日はどんどん陰ってきた。ゆけどもゆけども木ばかりで気温も下がってくる。本当にこの道はあの寺に続いているのだろうかと訝しみ始めた頃、木々の向こうに山門が現れた。
その向こうに誘うようにぼんやりと滲む光がまるで夢のようだとイルカは思った。