翌日、イルカは休暇届に上役の判子を貰って事務局へ赴いた。
カカシの処遇がこの先どうなるのか分からないが、とりあえず今は目の前の旅行が楽しみだ。
久しぶりの温泉だ。いつもは湯治といっても近場の木の葉温泉へ日帰りで行くくらいでわざわざ里の外へ出かけて行くなんて事は滅多にない。
温泉だー。
イルカはいつもの三割り増しの笑顔で窓口に書類を提出した。
「出張先でそのまま休暇に入るんですね?」
窓口の係員は書類をチェックしながら経費などを計算してゆく。基本的に宿泊は火の国の官舎を提供してもらうし、公用の通行証を発行してもらうから通行税もない。なんといっても忍のことだ、最小限の路銀を支給されればどうとでもなる。
「目的地に着いたら向こうの責任者に式を飛ばしてもらうこと。これをしないと抜け忍扱いになりますからね。休暇中も所在を明らかにしておくように。今回発行される通行証は15日間有効です。国外へは出られません。その他の注意はこの紙に書いてありますからしっかり目を通してください」
「ありがとうございます」
経費の入った袋と証明書類などを受け取り、イルカはにっこりと笑って窓口の係員に礼を言った。
「あれ、イルカ?」
「イカ焼きだ」
「は?」
後ろから聞こえてきた声に振返ると書類を抱えた中忍二人がこちらを見ていた。他の中忍とは違う制服を着ている火影直属部隊の者だ。三代目が存命の頃はイルカはよく雑務を言いつけられて火影の執務室に出入りしていたから彼らとは顔見知りだった。。
イズモとコテツだ。いつも二人セットでいる。
「イカ焼きって、なんですか?」
「いや、ちょっとイルカ先生の話が出ていたところだったので」
質問には答えずイズモが涼しげな笑顔でさらりと言った。
「はあ、」
イルカは首を傾げた。
「上忍相手じゃ大変だよなあ」
コテツがぽんぽんと肩を叩いてくる。
「はい?」
イカ焼きを食べたのは先日、カカシと大門まで行った時だ。
「あ、もしかして、見てましたか?」
「俺達じゃないけどね。結構、噂になってるよ」
イズモの言葉にイルカははた、と気がつく。
そういえば、いつも正門のあたりで待ち合わせしている。帰りも特に人目を気にせずぶらぶらしているから噂になっていてもおかしくない。相手はあの、はたけカカシなのだから。
「って、えええぇええ!?」
一拍置いてイルカは驚きの声をあげた。
「って、反応遅いよ、この人」
コテツがつっこむ。本当にそうだ。
そうか、自分達のやっている事はそういう事なのか。
いや、でも、別に俺とカカシ先生が一緒に飯食ってたって噂なんかしなくったって。
「よりによってあの人じゃあねえ。あんた苦労するよな」
「どういう意味ですか」
「上忍の中でも業が深そうじゃん、あの人」
コテツの口振りに一瞬ムッとしかけたイルカだが、その返答には頷くところがある。いつも飄々として大らかで、ちょっと抜けた印象さえあるカカシだがそれがかえって底の知れない印象を与える。
それを業深い、と表現する事はイルカは思いつかなかったが言われてみればそうとしか言いようがない。隠している綺麗過ぎる顔も、隻眼も、忍としての能力も。
「あんまり不躾なこと言うなよ」
イズモがコテツを窘める。
「ああ、すまん。気ぃ悪くしたか?」
「いえ。その、そんなに噂に…?」
イルカの質問にまあな、とコテツとイズモは顔を見合わせた。
「ついにはたけ上忍が動いたかって。上の方が騒いでるな」
「上…」
どの辺の上だ。恐ろしい。
なんだかいやーな予感がする。
「もしかしてオッズ表とか出回ってないでしょうね」
「中忍仲間には同僚を賭け事の対象にするようなロクデナシはいないさ」
そうか、中忍より上のロクデナシどもか。
あ、なんか嫌な感じだ。カカシも一口噛んでいたらどうしよう。最初のあれはドッキリじゃなくて賭けだったのかもしれない。
どうしよう。一緒に温泉に行こうなんて浮かれてしまって。
急に重苦しいものがイルカの胸の内に湧き上がって視界が暗くなったような気がした。
「おーい、イルカ?」
「帰って来いよー」
二人がイルカの目の前でヒラヒラと手を振った。
そうだよな、なんで俺なんだ。普通はもっと綺麗な顔の男を選ぶだろう。例えば今、目の前にいるイズモみたいな。
「俺、上忍の玩具にされてるんだろうか…」
イルカの発した暗い呟きは精鋭二人を慄かせた。
「いや、それはないだろ。はたけ上忍はああ見えてきれいな遊び方する人だし」
「遊んでるのか…」
そうだよなー。モテそうだもんなー。あんな二枚目で上忍だったら女に不自由しないだろう。
「イルカ、ちょっと来い。な。」
イズモがコテツに目配せしてイルカを事務局の外へ連れ出した。
「二人とも仕事中じゃないのか?その書類提出しなきゃいけないんだろ?」
暗い目のくせに真面目なことを言うイルカを、仕事をサボったくらいでは殺されないが写輪眼を怒らせたら殺される、とイズモはぐいぐい引っ張って廊下のソファに座らせた。
コテツに「珈琲買って来い」と使いッぱな事を言ってイズモはイルカの隣に腰掛けた。
「はたけ上忍はそういう事しない人なんだよ。付き合ってる女がいても素振りも見せない。すごい秘密主義者なんだよ」
「そうなのか?」
「そう!だから皆驚いてるんだよ。上忍達も面白がってオッズ表が出回ったりするわけ」
イズモはやけに必死でイルカを説き伏せに掛かっている。それを指摘すると「当たり前だ!俺とコテツの命が掛かっている!」と涼しげな顔を珍しく紅潮させてイズモは続けた。
「俺も、まあ、色々あったから分かるんだけど、はたけ上忍はおまえで遊んでるわけじゃないと思うよ」
だから怖いとイズモは自分の二の腕をさすった。
「こういう話はコテツが嫌がるからいつもはしないんだけど」
遊びの男はあんな風情はしていない、とイズモは言う。色々あったと言うイズモはやはり上忍達に言い寄られたりしてきたのだろうか。
イズモは綺麗な顔をしている。中忍の中でも美形といえばミズキかイズモかとかつては言われていたっけ。イルカの情報ソースも大概古い。今はサスケかネジだろう。
線が細くて整った顔をしている彼ならそういった意味の声は多く掛かっただろう。ミズキだってそうだったかもしれない。
「------俺には分かりません」
上忍なんて人種が何を考えているのか。格下の男を口説くなんて悪趣味な真似、自分だったらたとえ上忍になれたとしても絶対しない。
「そ、それを言っちゃうと立つ瀬のない人がたくさん…」
イルカの呟きにイズモは引きつった笑いを浮かべた。
「俺は不真面目なのは嫌いです。相手が上忍だろうが俺は真剣に向き合ってます。それが分からないような奴は相手になんてしたくない」
「まあ、まあ、まあ」
自分で言ってるうちにヒートアップしてきたイルカをイズモが宥める。
「上忍にも色々あるからな。俺たちよりストレスもプレッシャーも掛かっているだろうし危険な任務も多い。時々息抜きしないとやってられないんだよ」
それに、とイズモは続けた。
「上忍なんて俺達とはかけ離れた世界の人間だと思ってるけどな、俺達だってとっくにそっち側の人間なんだから」
イズモの言葉にイルカの心臓はどきんと大きく鳴った。
「分からないとか、ゆってやるな」
イルカは俯いて唇を噛んだ。
イルカは自分の考えが間違っているとは思わないが、視野狭窄になりがちなのは自覚している。実際に有ることを否定したって始めらないのも分かっている。
「まーなー。ついていけないと思うことも沢山あるからな。別に嫌なモンは嫌でいいんだけどな」
自省しているイルカにイズモはさりげなく言った。
「格下の男に組み伏せられるのがたまらん、って人もいるし」
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「男?」
「男」
「男に?」
「上忍ってよっぽどストレス掛かってるんだろうなーって思ったよ」
「-------------」
本当に色々あったらしい。
さすが火影直属の精鋭。
「こいつこんな顔して鬼畜生だからな」
ひょい、と紙コップを持った手を差し出してコテツが二人の前に立った。珈琲の香ばしい匂いがあたりに漂う。
「何言ってんの。俺は優しいだろ」
「ハイハイ、そうですねー」
イルカは大人しく珈琲を受け取って美味しくいただいた。
ほろ苦さが胸を満たした。
「ご馳走様でした」といつもの人好きのする笑顔を浮かべて二人に礼を言い事務局のある棟から渡り廊下へ出た。
-----------------------って、俺が頑張らないといけないのかっ!?