宿坊の部屋でイルカは部屋の隅に積まれた座布団に頭を凭せ掛けてぐったり目を閉じていた。止血のために鼻にちり紙を突っ込んで鼻を摘んでじっと座っている。
 先刻の騒ぎを思い出すと情けなさで死にそうだ。
 血を見てきゃあきゃあと騒ぎ立てる女達に囲まれて、イルカは慌てて湯船の中で立ち上がったが立ち眩みを起こして浴槽の縁の岩に手をついたまま動けなくなった。
 「大丈夫?」と女の手が背中に触れて更にかーっと頭に血が上った。目の前にチカチカ星が飛んだ。鼻を押さえている掌を濡らす血が止まらない。灯りが落とされたようにゆっくりと視界が翳ってゆく。
「その人、触らないで」
 イルカの窮地を救ったのはカカシだった。後ろからざぶざぶと湯を蹴散らして近づいてきてイルカを抱えるようにして湯船から救い出してくれた。
 貧血で視界が暗くなって周囲がよく見えなかった。ぐらぐらする頭で状況を把握しようとするのだが腕を大きな手で握られている感触と、脇腹に触れるカカシの硬い筋肉と、耳元に触れている濡れた髪、床板の冷い硬さ、そんなものがばらばらに意識を掠めていくだけだ。
 脱衣所の冷たい床板に、壁に凭れるように寝かされた。「押さえてて」と手拭いを鼻に押し当てられた。血塗れの自分の右手が見えた。少しずつ視界が戻ってきた。浴室の戸口から女達が心配そうに顔を覗かせている。
 カカシはイルカの体に脱衣籠から引きずり出した浴衣を掛け、自分もさっと浴衣に袖を通し大雑把に帯を結んだ。
 自分の上に屈み込んだカカシと目が合う。既に覆面を引き上げていつもの何を考えているのか分からない顔に戻っていた。カカシさん、と呼ぼうとしたけれど声は出ずにイルカは口をぱくぱく動かした。カカシはそれを見て微かに眉を寄せたが答えず、イルカの体を浴衣で覆うと担ぎ上げて湯殿を後にした。
 外に出ると山の冷たい空気が逆上せた体を冷やしてくれた。きーんと鋭い耳鳴りが頭の中に響いていて周囲の音は聞き取れない。イルカはくったりとカカシの肩に凭れ掛かったまま荷物のように運ばれた。
 部屋に戻るとイルカを畳みの上に横たえ、カカシは部屋を出て行った。
 呆れられただろうか。怒らせただろうか。
 こんな事で前後不覚になる中忍なんてありえない。
 ずっと移動しながらの仕事で気がつかないうちに消耗していたのかもしれないが、そんな言い訳もこの状況では考えるだけ空しい。
 一人で凹んでいるとカカシが戻ってきた。カカシは水を張った洗面器を抱えてイルカの前に膝を着き、濡らした手拭いを固く絞ってイルカの顔に載せた。ひんやりとして気持ちいい。視界が塞がれたイルカの首に手を添えて、うなじの下とはだけた胸にも手拭いをあてがってくれた。
 正しい処置だ。いつもは自分がアカデミーで子供たちにしている。
 イルカはおとなしくその冷たい感触を味わった。
 カカシはそんなイルカを見つめて傍らに座っている。
 ああ、くそ、呆れてるんだろうなあ。
 ナルトのお色気の術で鼻血を吹いた時も同僚には大笑いされ、上司には失笑された。
 一端の中忍としてそこまで初心なつもりはないのだが、どうもダメだ。
「本当に鼻血吹くんですねえ」
 しみじみと感じ入った声でカカシが言った。イルカは「うう、」と小さく唸った。
「ナルトが大袈裟に言ってるんだと思ってました」
 なんだって?ナルトの奴、一体どんな話をしているんだ?!
「ナルトってなんでも大袈裟に言うみたいなイメージありますけど、意外と本当の事しか言わなかったりしますもんねえ」
 イルカは少し首を傾けてカカシを見ようとした。顔に濡れ手拭いが載っているのでカカシの顔は見えなかったが、鼻と手拭いの隙間から畳に座るカカシの膝が見えた。
「鼻の粘膜弱いんです…」
 イルカはもぐもぐと言い訳した。
「異性にも弱いですよね」
 さっくりと言われてイルカは言葉に詰まった。
「失礼なことかも知れませんけど、一応訊いておきます。女性経験はおありですか?」
「なっ…!?」
 がばっと身を起こしたイルカの顔から手拭が落ちた。
「お、俺だって彼女の一人や二人いたことはっ…あれは不意打ちだったから驚いて…っ!」
 そりゃあ、そんなにモテる方ではないけれど。格好いいカカシ先生は女の裸ごときで平常心を乱されるような事はないくらい経験を積んでるのかも知れないが。っていうか、なんでこんな事カカシ先生に申告しなきゃならんのだ?!
「はいはい、興奮しないで。また鼻血吹きますよ」
 カカシは正座したまま落ちた手拭いを拾い上げてイルカの鼻に押しつけた。
「最初に混浴だって教えておいてくれればよかったんですよ。何にも言わずに一人で逃げるなんてひどいです」
「だって忍宿ですもん。混浴なのは普通でしょ」
 そんなの聞いてねーよ!
 ただの宿坊だと思ったんだよ!休暇とって忍宿に泊らないだろう、普通!
 ああ、だから最初にカカシは「ここでもいいですか?」と言っていたのだ。二人で泊まるのに予約した宿が思ったよりもしょぼくて「ごめんね、ここでもよかったかなあ?」みたいな、「いや、俺も君に任せきりにしてたから」みたいな、「二人でいられればどこでも構わないさ」みたいな、そういうのと同じようで根本的にどっか違う。違うような気がしますよ、カカシさん。
 服を脱ぐ前に浴室を確認していたのもそのせいか。
 イルカは手拭を自分の手に取り返して座布団の山に再び頭を埋めた。
「女たちの気配に気がついたらすぐに隠れればよかったんですよ。なんであんな所でぐずぐずしてたんですか?」
 なんで?と問われても、どうしていいのか分からなかったからとしか答えられない。察しが悪いと責められても分からなかったものはしようがないではないか。
 一を聞いて十を知れ、とか言い出しそうな人だ。
 いるんだよな、そういうタイプの上忍…。
 そういう人が上官や師匠になると苦労するんだよ。
 ナルト達も苦労したんだろうか。
「イルカ先生、本当は見たかったんじゃないんですか?」
「はあ!?」
「女達が来るって気がついた時、ちょっとは嬉しかったんじゃないんですか?」
 何を言い出すんだ、この人は。
「びっくりしてそれどころじゃなかったですよ!」
「でも、彼女たちの裸を見たいという気持ちがまったくなかったと言い切れますか?胸に手を置いて誓えますか?」
 正座したまま背を丸めたカカシに詰め寄られてイルカは答えに窮した。女達のあられもない姿を見られてラッキーと思わなかったかというと、そりゃあ少しは…。目の泳いだイルカに物思わしげにカカシが溜息をついた。
 いや、だからってこんな醜態を晒してまで見られて嬉しいかというと微妙なところなんだ。男は誰でもスケベだが、それだけなわけでもないのだ。こっちだって裸を見られたわけだし、そのあたりの微妙な男心をもうちょっと汲んで欲しい。
「やっぱり無理なのかな…」
 カカシが小さく呟いた。
 驚いてイルカはカカシを見上げた。キン、と冷たい針がこめかみに刺さったみたいな気がした。
 確かめたいと思っているのは自分だけではないのだと、唐突に分かってしまった。
 むしろ、試されているのかもしれなかった。


 −−−恋愛が出来るかどうか。

手探りで。お互いに。

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