「俺はいいですって!また鼻血吹きますよ!!」
湯殿へと、宿坊の裏口を出ると山の夜気が染みた。ここは木の葉よりずっと北の山地なのだ。夜になるとぐっと気温が下がる。
夜の森の静けさを姦しく破って女達は木道を軋ませて下ってゆく。立ち上がって歩き出すと頭がふらふらして自分もかなり酔っていることが分かった。そのせいか移動する集団の中で藻掻いても女達の体はするするとイルカの腕を擦り抜けてしまう。小柄な女達にさほど力があるとも思えないのに、ふにゃふにゃと掴み所がなく水の流れの中にいるみたいだ。皆、歴戦を潜り抜けてきたくのいちなのだ。集団でかかられたらまるで敵いそうにない。
流されるままイルカは湯殿の入り口まで来ていた。
「入る前にちゃんと水分摂らないとだめですよ」
風呂に入るのをやめさせることは出来ないらしいと諦めて一応、注意をした。
「アルコールが入ると体は脱水状態になるんですからね」
皆、自分の面倒くらいみられるだろうと分かっていはいるが、ずいぶん酔っ払っているようだから少し心配だ。
「先生、真面目だねえ」
ぎゅう、と後ろから柔らかいしなやかな体が抱きついてきて、押し込められるように中に入る。
「俺は入りませんから!」
背中に感じる体温は人間の女というより得体の知れない獣のような気がした。
「気を利かせなよ。オリベさんとあの上忍、ワケありっぽいじゃないか」
先に脱衣所に入った女が脱衣籠を引っ張り出しながら言った。
「え」
「積もる話もあるだろう。二人にさせてやろうよ」
この人たち、気がついてたのか。考えてみれば百選練磨らしい彼女たちが、イルカが気がついたことに気がつかないはずがない。
でも、だったらこっちにも気を利かせてくれ。
カカシと今、一緒にいるべきなのはイルカなのだ。つき合っているのだ。本当は上官の休暇につき従ってきた部下じゃないんだ。
だが女達の圧倒的な存在感を持った肉体を前に、イルカはそれをどう言葉にしたらいいのか分からず口をぱくぱくさせた。
「先生はあたしたちと遊ぼうよ」
ね、と女が体を背中へ密着させてくる。
「いや、俺は…」
女達はカカシとイルカという組み合わせなんて端から考えていない。上官のために気を利かせて、部下は部下同士で楽しもうと誘ってくる。
そりゃあ、カカシとイルカが並んでいたって誰もそんな風には考えないだろう。毎日、いい大人の男同士が十代の子供みたいなたわいない逢瀬を重ねていたなんて、思いやしないだろう。
イルカ自身、なんでそんな事やってるのか分からないのだから。
どうしてカカシのような男が自分とそんな事をしているのか、さっぱり分からない。分からないけど楽しかったのだ。誰にも二人の間には割り込んでほしくないと思うほど楽しかった。
初めて人にときめいたような、やっと辿り着いたような、そんな気がしていた。
最初から自分の手なんか届かないと諦めていたものがすぐそこにあった。
だからもっとカカシとの関係を確かなものにしたくて、期待して旅行へ来たのだ。
一気にそれまであやふやだったさまざまな気持ちや考えがイルカの中で一筋の流れになって収束していった。
「うみのー、見ろー」
数瞬、自分の考えに没頭していたイルカは声をかけられてはっと顔を上げた。
真正面でアンズが浴衣の襟を開いて豊かな胸を晒していた。
「うわあ!!」
イルカは仰天して湯殿の建物を飛び出した。
後にした建物からけらけらと女達の笑う声が聞こえてきた。
これではエビス先生も泣いたことだろう。
暗い木道を駆け上がり、坂の途中でイルカは立ち止まり息をついた。酔っているのに急に走ったせいでくらくらする。
山の下から水のにおいをのせた風が吹いてきて、斜面に生い茂る木々の梢をざわざわと揺らした。イルカは頭上の木々を振り仰いだ。葉陰に宿る月が明るい。
坂の下にはさっきまでいた湯殿の灯りが、坂を登れば静けさの中に宿坊の建物がある。
微かに波音が聞こえた。
麓に湖があるのだ。
柵に手をついて酒と女達のからかいのせいで沸騰していた頭を冷ましながらその音に耳を澄ました。
一人だな、とイルカは思った。
今のイルカは一人で、暗い夜の森の中に立っている。
これからカカシのもとへいく。
どうしてあなたの隣に自分を置かないのかと責めに行く。
自分をどう思っているのかと質しに行く。
滑稽なことだ。
そういうのをカカシは嫌うかもしれない。少しくらいなら遊んでもいいと言う男は束縛するのも、されるのも嫌うかもしれない。
だから男であるイルカを選んだのかもしれない。
修羅場るかもな、と少し憂鬱だ。
坂を登れば、もう気楽で身軽な一人にはかえれないのかもしれない。
二人になるためにこれからカカシのもとへいく。
男同士か。
ついてないな、とイルカは思った。
ずっと以前から、カカシの姿を目にするにつけ、ついてないなとイルカは思った。
カカシは同性で、イルカはカカシの目を引くような何も持っていなかった。
それは仕方ないことで敢えて考えようとも思わなかった。
だが、なんの気まぐれか、カカシはイルカに目を向けた。
ついてないことには変わりはないが、それはイルカの心を浮き立たせた。
まだ引き返せるところにいるのは分かっている。
一緒に飯を食って、たわいない話をした。一緒に旅行に来た。少し親しい友人で終われる。お互いにちょっと勘違いした時期もありましたよね、そんな風に笑い話に出来る。
木々の葉がざわざわとイルカの上に影を落とした。
いつの時代から生えているのか分からないような木々達を見上げていると、イルカは小さな子供に戻ってしまったような気持ちになった。
子供の頃から自分はなんにも変わっていない。一人になるとそれが分かる。
両親を失くしてから、その前からいつだって、決断する時は一人だ。
自分で決める。
これからあの男と一緒にいるために必要な手数は惜しまない。
暫く、そうして一人で佇んでいた。風の中に山の下の湖の気配を感じていた。
水の匂いのする風を大きく吸い込み、イルカは坂の上へと向かって歩き出した。