宴の張られていた部屋へ戻ると、部屋の中にはカワズが一人で皿を片付けていた。
 「すごい叫び声が聞こえましたけど大丈夫でしたか?」と尋ねられてきまりが悪い思いをした。
「他の人たちは?」
 尋ねると、和尚はあの後すぐに潰れて寝てしまったそうだ。
「上忍とオリベさんが和尚を部屋まで運んでくれると言って三人で出て行きました。じき戻ってくると思いますよ」
 和尚の部屋は渡り廊下を渡って本堂を回りこんだ向こう側だ。追いかけようかと思ったが、卓の上の食べ散らかし飲み散らかした食器類が気になった。
「それ、カワズさんが片付けるんですか?」
「いやあ、そのままにしておけって言われてるんですけど、まとめるだけしとこうかと思って」
 人の好さそうな顔で笑っている。放っていくのは悪い気がした。
 −−−だから俺は恋愛が下手だって!!
「ちょっと、行ってきます。戻ってきたら手伝いますから」
「いいですよ、気にしなくって」
「すぐ戻ってきますから」
 言い置いて慌しくイルカは暗い廊下を本堂へ向かった。和尚の部屋は分からないが、カカシ達が戻ってくるのに出会えるんじゃないかと思って、椿の木に囲まれた渡り廊下に出た。
 足を踏み出してすぐに月の光に照らし出された人影を見つけて、イルカは足を止めた。咄嗟に気配を殺して建物の影に身を沈める。
 人影は二人、渡り廊下の欄に凭れて静かに話をしている。
 カカシの白い地の浴衣と銀の髪が月の光を吸ってぼんやりと青白い。傍らの特別上忍は黒い髪のせいで夜の闇に溶け込むようだ。カカシの肩の陰に隠れてしまいそうな小柄な体は女性らしい華奢な造りで、並んで立っているといかにも似合いの二人に見えた。
 この二人なら誰が見ても一対の番に思うだろう。
 椿の暗い緑の葉が重たげにざわざわと風に鳴っている。ここにも水の匂いが立ち込めていた。
 葉擦れの音に紛れるようにカカシの低い声が聞こえてきた。
「あなたのせいだなんて思っていないよ」
 むこうを向いているのでカカシの表情は分からなかった。女は項垂れて小さな声で話している。カカシは、頷きながら聞いている。
「−−−信じ切れなかったのは俺も同じだから」
 自嘲まじりの声でカカシが言った。その声には失われた何かへの哀惜が込められているようでイルカは苦しくなった。
 現実を見せつけられた気がした。
 カカシが愛情を向けた相手がいるのだと思うとたまらない気持ちになった。たとえそれが過去のことであっても、生身の人間としてその相手が現れると割り切れないもやもやとしたものがイルカの胸に湧き上がった。
 あの二人の間にあった事に比べれば、自分がカカシとしてきた事などままごとのようなものではないのか。そんな気がした。
 イルカはそっとその場を離れた。
 廊下を引き返し、後片付けを手伝うためにカワズのいる部屋へ向かった。



 簡単な後片付けを済ませてカワズに就寝の挨拶をしてイルカは自分達の部屋へと戻った。
 押入れから布団を引っ張り出して部屋の床に延べた。少し考えて、カカシの分も隣に並べて敷いた。もう夜遅いし、戻ってきてから敷くのも億劫だろう。
 もう今日は寝てしまおうと思った。
 明日、話をしよう。明日になれば頭も冷えて埒もない感傷も消えるだろう。
 イルカは自分の方と決めた布団に潜り込んで、するするとした綿の肌触りを楽しんだ。
 鎧戸を閉めていないため障子から青白い月の光が布団の上に木々の影を落としていた。風の音といっしょにざわざわと影の形が変わる。ここでも微かに波音が聞こえた。
 静かなのにさまざまな音に囲まれていた。
 急に寂しくなった。
 一人で居ることには慣れているはずなのに、無性に寂しい。
 別に話をしていただけだ。カカシは何もしていない。じきに戻ってくるだろう。
 寂しいと思う事なんて何もないのだ。
 自分に言い聞かせながら慣れ親しんだ胸を締め付けるような感覚にイルカは寝床の中で身を丸めた。
 先ほど木道の上で感じた一人の感覚とはまったく別の気持ちだった。会いたい人に会えない時にこんな気持ちになるのだ。隣にいるはずの人がいない、そういう時にこんな気持ちになる。ずっと昔に置き去りにしてきたはずの気持ちだった。
 心を殺す方法は訓練されていた。
 何も考えず、感じないように軽い自己催眠をかけて眠ってしまえばいい。目を閉じて数を三つ数える。それで夢も見ない深い眠りに落ちてしまえる。
 だが、だからといって、カカシに抱いた感情を消し去れるわけでもない。
 イルカは募ってくる寂しさと冷たい布団の感触を味わいながら部屋の壁に揺れる木々の影を眺めていた。



 気づかぬうちにうとうととしていたようだ。
 イルカはぼんやりと目を開いた。
 背後に人の気配がする。カカシが部屋に帰ってきたようだった。
 ぱさぱさと音がする。髪を拭いているのだろうと思った。もう一度、湯に使ってきたらしい。ほう、と温かい息をついたのが聞こえる。
 もう日付が変わっている頃だろう。女達も部屋に帰って寝ているだろうか。
 イルカはカカシの気配を背中に感じながら横たわっていた。
 ぱさりと布団を捲くる音がして、微かに空気が動いた。衣擦れの音をさせてカカシが布団に身を滑り込ませたのが分かった。
 ごそごそと寝心地の良い体勢を探しているようだったが、しばらくすると静かになった。すう、と静かな呼吸が聞こえた。姿は見えなかったが背後に感じる人の存在にイルカは安心した。
 気配が動かなくなったのでカカシもこのまま寝るのだろうと思い、イルカも目を瞑った。
 音もなく。
 不意に首筋に温かい手が押し当てられて、イルカはぎくりと身を強張らせた。
 慌てたように手が引っ込められる。
 振り返ると半身を起こしたカカシが、行き場のなくなった手を振り上げたままイルカを見下ろしていた。
「すみません、起こすつもりはなかったんです」
 おかしなくらいに狼狽してカカシは弁明した。
 昼間は黒く見える目が、闇の中で月の光を受けて青いガラス玉のように見えた。
「髪を−−−」
 挙げた腕を下ろせなくなったままカカシは目を伏せた。
「髪を下ろしているのを初めて見たと思ったので」
 掠れた囁き声でカカシは告げた。


やっと、カカイル。
でも、まだまだ。

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