イルカは肘をついて首をもたげ、下からカカシの困り果てた顔を見上げた。赤い方の目は閉じられて額に垂れかかった前髪の陰にある。
寄せられた眉根と、その下の腐食して黒ずんだ銀盤を張ったような虹彩を覗き込む。この眼が一つ欠けているのは惜しいことだ。
壁に映る影が遠い波音とともにゆらゆら揺れて、障子越しの月の光が男の髪を青白く照らしていた。
鋼のような男だ。優秀な猟犬のような、薄く切り出された鉱石のような男だ。
掴み所がないのに、触れれば手が切れそうだ。
手を伸ばすのにはとても勇気がいった。だが、もしかするとこの男の方も自分に対して同じような恐れを抱いているのかも知れない。どこまで踏み込んでもいいのだろうと迷い、危ぶんでいるのは自分だけではないのかもしれない。
イルカはゆっくりとした動作で振り上げられたままのカカシの手を掴むと自分の首筋に導いた。さっきされたように耳の下にあてがう。
カカシは目を見開いてイルカを見ていた。イルカは面映ゆくて笑った。
「あったかいですね」
カカシの手は温かくて寝ぼけ眼のイルカに布団とは違った心地よさを与えてくれた。
「風呂入ってきたんで」
イルカの手の中で強張っていたカカシの手から力がとれてイルカの首筋に沿う柔らかい形になった。
「ずっと括ってたからぼさぼさです」
イルカはカカシの手を握っていない方の手で乱れっぱなしの髪を梳いた。カカシの手がおずおずと動いて、イルカの髪に触れてきた。しまったな、と思った。自分も風呂に入ってくればよかった。今朝からずっと街道を歩いてきた。道中の汗と埃にまみれた髪を、湯上がりでこざっぱりとしたカカシに触れられるのは気が引けた。食堂の片づけを終えた頃にはまだ女達が湯殿にいて近づけなかったのだ。
そう思うと急に自分は汗臭いかもしれないと気になった。一度、湯船に浸かったとはいえすぐに鼻血を出してあがる羽目になったし、酒も飲んだ。男同士で二人部屋で、いちいちそんな事を考えるような神経質な質ではないのだが、カカシの白い肌や洗い立てのさらさらした髪を見ていると、自分がとてもむさ苦しいもののように思えた。
「俺も風呂に入って来た方がいいかな」
「え?」
この時間に湯殿が開いているか分からないけれど、忍び宿ならいつでも入れるようになっているだろう。さっきまでカカシも入っていたようだし。今は何時だろう。明け方までまだ数時間はありそうだ。
さっぱりして体を温めたらよく眠れるだろう。一眠りした後で朝湯というのもいいけれど。今ここにある布団の温もりと、湯に浸かった時の心地よさを頭の中で天秤に掛けてイルカは身動ぎした。
「俺、汗臭くないですか?」
「そんな事はないですけど……え?」
カカシが目を見開いてイルカの顔を覗き込んできた。
「イルカ先生? −−−−え?」
「え?」
何かを確認するみたいに問いかけられてイルカはどうしたんだろうとカカシを見返した。
二人で数瞬、見つめ合った。
「………あの、さっぱりしてきたらよく眠れるんじゃないかと思って」
「−−−−−」
何かがみるみるとカカシの中で萎んでいくのが目に見える気がした。
「いや…そうですよね………」
カカシの見開いた目の瞼が徐々に下がって、いつもの眠たそうな半眼に戻った。イルカの肩に手を預けたままカカシは項垂れた。その段になってようやくイルカは合点がいった。我ながら察しが悪すぎる。
「え…! いや! あの…!」
つき合っている二人が同じ部屋で布団を並べて、夜−−−そんな状況なのだ。男女なら何も起こらないはずがない。風呂に入って身を清めたら、やる事やるに決まってる。
だが、自分達の場合もそうなるんだろうか。そこのところが今ひとつ確信が持てないのでイルカはつい鈍い反応をしてしまう。
するりと身を滑らせて自分の布団に潜り込もうとするカカシに、イルカは慌てて離れていこうとするその手を握った。
細い指先から筋張った腕の線はだぶついた浴衣の袖の中を通ってきれいな鎖骨に至る。同性でもちょっと見とれるようなそのラインを見て、イルカは大丈夫かなと考える。この期に及んで、だ。
「イルカ先生、彼女たちと風呂に入ったんじゃないんですか?」
「入りませんよ!」
カカシがいるのにそんな事をするわけがない。
「カカシ先生こそ…」
「俺はもう先生じゃありませんよ」
やんわり窘めるように言われてイルカは口を噤んだ。
布団に寝そべりかけた半端な姿勢でカカシの灰色の眼がイルカを見上げてくる。笑っているのか悲しんでいるのかよく分からないような曖昧な色だ。一つ対応を間違えたら、すぐに目を背けて去っていってしまいそうな気がした。
「カカシさん」
「はい」
繋ぎ止めたくて名前を呼んだ。カカシはきちんとイルカを見つめたまま返事をした。イルカの次の行動を待っている。
こういう時ってどうしたらいいんだろう。ムードで流すにははっきり目が合いすぎてしまった。
イルカは昔、中忍の先輩と行為をした時のことを思い出した。あの時はもっとその場のノリとか、悪い冗談みたいに強引でなし崩しだった。こっちも負けん気で応じてしまった。
あれか?
ああいうのか?
『なんだ、したことないのか?』『気持ちよくしてやるから、な?』『俺のも握ってくれよ』
いや! 無理! それは無理! どの口がこの上忍様に向かってそんな不遜な口をきくのだ!?
でもイズモが言っていたみたいに格下の男に組み伏せられるのが好きな種類の人だったら、強気で押さないとだめかもしれない。カカシはどういうのが好きなんだろう。期待に応えられるんだろうか。これで幻滅されてつき合いがダメになるってあるんだろうか。
カカシの手を握ったまま固まってしまっているイルカをじっと見据えたままカカシは身を起こした。布団の上で向き合って座る。
「出来ますか?」
静かな声で尋ねられた。
「出来ます」
イルカは殊更はっきりと言い切った。