さっきとは違う種類の動悸がした。体のすべての血管を伝って上った血が、汗となってこめかみからどっと噴き出したような気がした。動転したのだ。
自分の失言に舌打ちしたくなる。閨で他の人間の事を持ち出すなんて最低だ。
だが、カカシでもそんな事を気にしたりするのかと意外な気持ちもあった。
忍ならそのくらいの経験があったっておかしくはない。
カカシがイルカをどう思っているのか知らないが、このくらいの事が出来ないほど初心なわけではない。女性経験があるのかなどと訊いてくるなんて、随分と見くびられたものだと思う。
「真っ新の新品じゃないと嫌ですか?」
数瞬、考えて、イルカはわざと皮肉っぽい言葉をカカシの耳に吹き込んだ。自分という人間が他人にどういう印象を与えるか、イルカは知っていた。真面目で純朴そうな気のいい中忍先生。だけど、本当はそれだけなわけじゃない。カカシがイルカとこれから先も連れ添うつもりであるなら、早い内にそんなイメージは綻びさせてしまった方がいいのだ。
とはいえ、内心はカカシの機嫌を損ねてしまうのではないかと気が気ではなかった。
先輩とのあれは任務ではなかったし、命令されたのでもなかった。興味本位でしでかした。そういう事が出来る自分をカカシはどう思うだろう。
あれを、今、カカシとしている事と同列には扱われたくない。
先に引き合いに出したのは自分のくせに。違う。カカシがイルカを試すような事ばかり言うからだ。どうして出来ないと思うんだ。こんな事、必要ならば誰とでも出来る。だが今はカカシと出来ないなら、他の誰ともしたくない。カカシとしかしたくない。
あの時は遊び半分で人に触れた。好意を見せられた途端に怖くなって逃げ出した。不実で無様だった。
今は違う。
今は自分からカカシを選んで触れているのだ。
カカシのものは相変わらず熱を孕んでイルカの掌の中で存在を主張している。イルカは行為を続けようとした。
しかし、カカシは身を引いてイルカから距離を取ってしまった。
頭の芯が冷える。カカシは嫌になっただろうか。カカシの想像していたイルカと、今の自分は違っていただろうか。自分に対して持っていたのは、その差が許せない程度の興味だったのだろうか。本当に真っ新な相手じゃなければ番にしたくはないという価値観なのかもしれない。カカシ自身はワケありげな特別上忍とさっきまで密会していたくせに。だが、今、この状況でここでカカシが昔の彼女の事など持ち出したら、そりゃあ、自分は嫌だよな。嫌な気持ちになる。過去に関係のあった人間の話など聞きたくない。
遅ればせながらイルカは自分の失言の重さに気がつく。開き直ったりしないで、やっぱり素直に謝って取り繕えばよかったのだ。
一度、口から出てしまった言葉をどうやってとりもどせばいいのか。
この男は一体、どういう言葉なら機嫌を直してくれるんだろう。
まだ、そんな事も知らずにいたのだ。イルカはこの男の事など何も知らないのだ。
途方に暮れた気持ちで俯いていると、首にカカシの手が掛かった。そのまま後頭部を押さえられて頭を下げさせられる。
カカシの前でイルカは這い蹲らされた。
目の前に丁度、握っていたカカシのものがある。戸惑ってイルカは上目遣いにカカシの顔を伺った。銀髪に縁取られた白い顔が見下ろしていた。表情の読めない静かな顔が怖いような気がした。静かに獲物の様子を伺っている獣の目の光が、暗く沈んだ陰影の中に小さく灯っていた。
「して」
カカシの言葉にイルカは目を見張った。
え!?いきなりこれなのか!? 上忍てそうなの!?
イルカは軽く混乱して目の前のものを見つめた。カカシは口でしろと言っているのだ。
もしもイルカがつきあい始めの彼女にこんな事を要求したら「私のこと大事にしてない!!」とブチ切れられて、甘い情事が一転、修羅場と化すところだ。
イルカは布団の上で四つん這いになったまま思案した。カカシはいつもこういうやり方をする男なのか、不用意な発言をしたイルカに対する意趣返しなのか。
さすがに同性の性器を口に含むのは躊躇われる。
したことなんてない。
上官から命じられる場合や、同じ部隊の者同士でする事もあるとは聞いていたが、イルカはそういう局面に立った事はない。互いに手で、というのはそれほど珍しい事ではないらしい。しかし口淫までするというのはやはりどちらかが上位に立って下位の者に奉仕させるという場合が多い印象がある。
カカシが促すようにイルカの後頭部に掛けた手に力をいれた。人を這い蹲らせるのに慣れた手だ。
−−−男は数に入らねえよ。仕事だし。
同僚の言葉が頭を過ぎった。
そういう事なのだろうか。
「やっぱり無理?」
少し掠れた伺うような気配を滲ませた声が聞こえた。見上げるとカカシは少しだけ笑っていた。諦めたような、耳をしおたれた犬みたいな顔。「やっぱりね。無理なんでしょ。仕方ないよね」そういう顔だ。それが癇に触って、イルカはカカシをじろりと睨み上げた。
無理ってなんだ。
無理だったらどうするというのだ。
つき合いをやめるとでもいうのだろうか。
まだなんにも知らないのに。カカシの中に触れさせてももらえていないのに、これでお終いにするのか?
冗談じゃない。
「出来ます」
イルカは挑むようにカカシを睨んだまま、手の中のカカシのものに口をつけた。
「イ、イルカ先生!?」
カカシが慌てた声を上げた。後退ろうとするのを、両腿に手を掛けて止めた。
この男はいつも自分から言い出すくせに、イルカがそれをするとひどく慌てる。本当に自分をなんだと思っているんだろう。何を言っても反応を返さない壁かなんかだと思っているんじゃないのか。
閉じた唇で感触を確かめてから、最初は先端を少しだけ唇に挟んだ。
石鹸の匂いがした。それから紛れもない雄の匂い。ちら、と舌で舐めてみた。しょっぱい。それに独特の癖のある味がした。
イルカは眉間に皺を寄せながら、覚悟を決めてそれを口に含んだ。舌の上に裸の熱い生き物がのっているような気持ちがした。正直、どう扱っていいのか分からない。舌で舐りながら口の中で転がしてみるが、大きすぎて銜えにくいし、えぐい味に反応してだらだら唾液が出てきてしまう。苦さに飲み込みきれず口の端から唾液が零れる。
よくキャンディーのようにしゃぶれと言うが、キャンディーは甘いから自然にそう出来るのであって、こんな苦いものを舐めたり啜ったり出来るものではない。それが実際の味覚が感じている苦さなのか、同性の性器を口に含むという行為がもたらすものなのかは分からない。
口の中のものを持て余してぺちゃぺちゃと行儀の悪い音をたてながら、ふと、自分は何も進歩していないのじゃないかという気がした。負けん気だけで男のものを口に含む羽目になっているんじゃないか。
でも今更、吐き出すわけにもいかない。何も考えないで無念無想になって取り組めばなんとかなるだろうか。
−−−いや、そういうもんじゃないんじゃないか。
こんな風にしたかったわけじゃない。
ぷつりと小さな泡のようにイルカの胸底深くから切なさが浮かび上がってきた。
それを感じ取ったように一度はずされたカカシの手が再び後頭部に宛がわれた。イルカのうなじに掛かる髪を掻き上げてくしゃりと頭を撫でると、カカシの手はイルカの耳を擽り、頬を撫でた。
イルカはその手に甘さを感じた。
「嘘つき」
掠れたカカシの声が言った。
「全然、慣れてないじゃない」
カカシの指先は飲み込みきれずに顎を伝った唾液を拭い−−−イルカと同じ場所にくないダコがある硬い指先だ−−−自分のものを銜えているのを確かめるようにイルカの唇をなぞった。
「まだキスもしていないのに」
軽く揶揄するような声で言い、人差し指と親指で下唇を摘まれた。
キス。してもよかったんだ。
したかったな。
イルカは首を竦めて口に含んだものを一旦、出した。ちゅるっと水っぽい音がした。
暫し、息を整えて今度は手を添えて恭しく先端に口づけた。
あ、とカカシが驚いた声を上げる。構わず、ちゅ、ちゅ、と音を立てて先端から根本までキスで埋め尽くす。時折、唇で食み、丹念に舌を這わせた。
イルカの頭を抱えた手がたまらないという風に黒い髪を掻き混ぜた。
「イルカ、先生…」
呼ぶ声が熱を帯びる。イルカの背筋をぞくぞくと駆け上がる何かがある。もっと自分の舌で、唇で感じて欲しい。とても大切なもののように扱いたかった。大切なもののように扱って欲しい。