翌朝、イルカはカカシの腕の中で目が覚めた。イルカの鼻先にカカシの鎖骨がある。組木細工の一片のようにぴったり寄り添う形に体が固定されてしまったみたいだ。イルカは窮屈な姿勢で凝り固まった体を動かし、自分を抱きしめている男の顔を見上げた。
障子越しに明るい日の光が男の肌と髪を照らしていた。日の光の下だと本当にこの男は白い。
里屈指の手練れの晒す寝顔にイルカは少しばかり感動を覚えた。寝顔を見るのは初めてだ。警戒心の強い生き物が無防備に自分の懐で眠っている様をにまにまと眺めるような満足感をイルカは味わった。
眉毛も睫毛も白いんだな。銀色の髪がふさふさしていて気持ちよさそうだ。
呼吸するたびに緩やかに上下する胸や、そこから伝わってくる鼓動が彼が安心しきっている様を伝えてきた。イルカもそれを感じていると穏やかな気持ちになった。久しぶりに誰かと一緒に眠った。一組の布団に二人の人間が身を寄せ合って、窮屈なはずなのに夢も見ないで深く眠った。イルカは自分の腕の中のカカシの体を手でなぞってみた。
男だよなあ。
骨張った輪郭や鼻筋は自分と同じだ。少しカカシの方が線が細いけれど女には見えない。イルカの肩に回されている腕も硬くて大きい男の手だった。
目が閉じられているのをいいことにイルカがじっとカカシの顔を観察していると、カカシが前触れもなくぱちりと目を開いた。
間近で見る色違いの眼にイルカは一瞬、怯んだ。
暗がりではよく分からなかった赤い眼の中の三つ巴がはっきりと見えた。それだけがカカシの白い顔の中で全く異なる色を持っていた。彼が兵器として存在している証のようにイルカには思えた。
カカシは見開いた眼でイルカを視認すると、とろりと溶けた笑みを浮かべた。
寝ぼけているのかな。
あんまり幸福そうに微笑むので、イルカはカカシがまだ夢の続きにいるのかと思った。
「おはようございます」
イルカの耳に口を寄せて掠れた寝起きの声でカカシが囁いた。
「おはようございます」
答えながらイルカは急に気恥ずかしくなった。いい年をした男が女子供のように同じ男の胸に抱き込まれて寝ているのが身に合わない感じだ。居心地悪そうにごそごそしだしたイルカをカカシはぎゅうっと抱きしめた。
うわわわ、と思わず喚いてイルカは跳ね起きた。
「起きます!もう明るいですよ!」
イルカの真っ赤な顔を見上げてカカシはクスリと笑った。
「はいはい」
間延びした返事を返して、のそりと起きあがる。
余裕がないのは自分だけのような気がして少し癪だった。
朝御飯の前にイルカは湯に浸かることにした。
障子からの光が明るかったのでかなり遅くまで寝てしまったのかと思ったがそうでもなかった。山の上だから早い時間に日が差すのだ。カカシはもう少しごろごろしているというので一人で湯殿へ行くことにした。
廊下を挟んだ部屋はまだ静かで女達はまだ眠っているようだった。足音をさせないように気を遣って廊下を渡り、外へと出た。
山の朝の空気は冷たく澄んでいて清々しかった。
下足箱の下駄を突っかけると足裏がひんやりとして思わずぶるっと背筋が伸びた。からころと下駄を鳴らして細い渡し木の坂を下る。
朝靄に包まれた木立は枝枝の間から日の光を帯状に落として清らかな光景だった。時間帯のせいだろうか、昨夜の鬱蒼とした暗い木立の中で一人で立ち尽くしていた同じ場所とは思えなかった。
イルカの心持ちも昨夜とは随分と違っている。
今は昨夜のような追いつめられて選択を迫られているような心情ではない。腹を括ってぶつかってみればなんとかなるものなんだな、と今は気楽に考えられる。
手拭いをぶら下げて軽快な足取りでイルカは湯殿へ歩いていった。
誰もいないの湯殿は静かでただ湯の湧き出でる音だけが響いていた。立ち上る湯気と、山の靄が一緒になって山の斜面へ張り出した手摺りから流れていく。耳を澄ませば眼下の谷川の流れる音が聞こえる。遙かなこだまが山の深さを思わせる。
イルカはまず湯を被って埃と汗を流した。口の中が妙にべたついていて苦いので、蛇口に紐で括って備え付けられた琺瑯のカップに、湧き出し口から新しい湯を汲んでうがいをした。
なんでこんなに粘ついているんだろうと考えて、その理由を思い出した。途端に、咽せてイルカは一人、風呂場のタイルの上でげほげほと咳き込んだ。湯が鼻に逆流した痛みに耐えつつ、頭の中を流れていく昨夜の出来事に一人で頭を抱え赤面した。
やっちまったよ、俺!
カカシさんにあんなこと!!
カカシさんのあんなとこ!!!
しかも俺、随分と強引じゃなかったろうか。
気持ちよかったのか。ちゃんとイッてくれたから全然良くなかったってことはないだろう。
カカシさんのあんな切羽詰まった声、初めて聞いた。
ぶるっと頭を一振りしてイルカは生々しい記憶を追い出した。
やっぱり度胸出してよかったなあ。
イルカは軽く湯に浸かった後に、ようやく石鹸でごしごし体を洗って旅の垢を落とした。髪もよく泡立てて洗った。
任務中は気にしやしないが、やっぱり体の汚れを落とすとさっぱりする。疲れがリセットされた気持ちになれる。自分の髪から石鹸の匂いがするのがいい気持ちだ。
再び湯船に身を沈めてイルカは縁石に身をもたせ、谷の朝の景色を楽しんだ。山の端の向こう側の湖面には朝霧が立ち籠めている。
いい所だな、と思った。
しかし、昨夜は気がつかなかったけれどこの風呂の湯の吹き出し口はなんとも独特だ。
イルカは口から湯を噴きだしている蝦蟇の姿をした岩を眺めた。初代様を助けた蝦蟇の姿を象っているのだろう。
里の外だがここも木の葉の一部のような土地だ。忍であることを隠して一般人に気を遣う必要もない。ある意味、カカシの選択は正しかったのかもしれないなとイルカは思った。
片眼を塞いで顔を隠して、イルカなどよりもずっと用心してカカシは暮らしている。
そういう人間とこれからつき合っていくのだ。色々と勝手が違ってくるかもしれない。そういう覚悟も決めていかなきゃならないんだなあ、と改めてイルカは考えた。
「お邪魔しますよー」
カラカラと引き戸が開く音とともに声を掛けられて、イルカは驚いて振り返った。
「まだ寝てるんじゃなかったんですか?」
「うん。そう思ったんだけど、やっぱり体だけ流そうかと思って」
腰にタオルだけ巻いた姿でカカシが湯殿に入ってきた。戸板一枚向こうにいたのに気がつかなかった。見事に気配のない人だ。
カカシはざぶざぶと湯をかぶって身を清めた。昨夜のことを考えればカカシも体を流した方がいいだろう、と考えてまたイルカは首を振った。
こんな明るい開けた空間で自分は一体、何を考えているんだ。
波も立てずに湯の中のイルカの横に入ってきた。
黙って並んで湯に浸かる。
ふーっとカカシが心地よさそうなため息をついた。
イルカがちらっとその顔を見ると、日向で微睡んでいる犬のようだった。朝、起きてからずっとカカシは上機嫌だ。
そっと様子を伺っているイルカにカカシが顔を向けた。にっこりと微笑まれてイルカはどぎまぎした。いつもの目元だけを細める笑い方ではなくて、顔全体がとろけている。
「イルカせんせー、真っ赤ですよ」
「そ、そりゃ、湯に浸かってますから…!」
ふふ、とカカシは笑った。
「先生、朝飯食ったら湖に降りてみましょう」
「…はい」
なんだか本当に身に合わない感じだ。調子が狂う。