「俺、担当上忍師に淡水魚は絶対に生で食うなって教えられたんですけど」
くのいち達が教えてくれたお薦めの鱒寿司の店の軒先で、カカシが首を傾げながら言った。
寺の石段を下り、湖畔へ行くのとは別の小道を辿ってゆくと街道へ出た。そのまま湖を左手に、連山の砦を背に歩いてゆくと茶店がぽつぽつと現れ、周囲がだんだん賑やかになってきた。道の両側に温泉旅館や土産物屋が軒を連ね人通りも増えてくる。石畳の短い坂があって、それがこの温泉街の中心らしい。関所に通じる街道沿いに発達したこの温泉郷は湯治客ばかりでなく荷馬車を牽いた商人や、国境の砦から降りてきたらしい忍達も多く、賑やかであると同時に物々しくもあった。
石畳の坂道から脇に入り、湖の方へ細い坂道を登ると店先に大きな魚の形をした看板がぶら下げた店が見えてきた。目をまん丸に見開いて剽軽な顔つきの鱒だ。見上げると『鱒の寿司』と堂々とした文字で書かれた看板が入り口の上にある。
店先には古い硝子ケースに一人前の曲物(わっぱ)が並んで積んである。
酢飯と笹の良い匂いがした。
「塩と酢じゃアレって死なないんでしょ」
「はあ、寄生虫ですか」
イルカが「アレ」の名前を口に出して言うと、硝子ケースの向こうにいた老婆がじろっと目を上げた。
あ、やばかったか。
隣のカカシを伺うと素知らぬ風で道端の猫など眺めている。こういう時、覆面をしていると便利だよなとイルカは思った。仕方なく愛想笑いを浮かべると店の老婆は「ふん」と鼻を鳴らして二人を手招いた。
明るい往来から薄暗い店内へ、恐る恐る足を踏み入れると老婆が身を屈めてケースの向こうから両手で何かを掴みだした。
ぎらりと光った鋼に思わず身が竦む。
刃渡り六十センチはあろうかという包丁を二本、老婆は両手に捧げ持って二人に見せた。イルカの胸ほどしか身長のない枯れ木のような老婆に長大な刃物というのが似つかわしくなく、妙な迫力があった。
「昔は鱒は寄生虫の感染源として生では食べられないと言われておりましたが〜」
滔々と老婆は語り始めた。
「この店の初代・弦之助は剣の達人、前原流斎に弟子入りし一柳流剣術を極めた男にございます。しかし、弦之助は人を斬るより旨い魚をおろすのが好きという変わり者、好物の鱒の身を薄く薄く、桜の花びらのように薄く削ぎ、塩と酢でしめまして、酢飯の上に載せて押し寿司に致しましたのが本店の鱒寿司の始まりにてございます」
つらつらと口上を述べた老婆にカカシは「ふうん」と言って
「それで寄生虫は?」
「このように薄く薄く鱒の身を削ぐことによって、身の中に潜む寄生虫もすぐに見つけることが出来るのでございます」
「ははあ」
老婆が両手に包丁を構えて片方の刃を、もう一本の包丁の背に当ててしゃっしゃっと研いで見せた。
「いい包丁だねえ」
カカシは感心したようにその刀身を眺めている。
「忍のお客様は皆、そう仰います」
老婆の肩越しに店の奥を伺うと人の立ち働く気配がしている。
「この店の者どもは皆、熟練の技で鱒を切る事を生業に致しております。味も鱒寿司の本来らしい味わいを大切にしております」
イルカがどうします?と目配せするとカカシは一つ頷いて老婆に言った。
「なるほど。じゃあ、二つ貰おうか」
「ありがとうございます」
ついでにお茶を竹筒に詰めて貰って二人は店を出た。
「なるほどねえ」
良い店ですねと肝心の味も見ていないのにカカシはしきりと感心している。イルカも感心した。研ぎ澄まされた美しい刃だった。使う道具に手入れの行き届いている店は信頼出来るような気がした。
鱒寿司の店から更に小路の奥へぶらぶらと歩いていった。
表通りには観光客向けの大店が軒を並べていたが、横道に逸れると古い小さな店が多くなる。あちこちで蝦蟇の油という幟が立っている。あの蝦蟇寺の伝承にちなんで名産品になっているようだ。
イルカが店先に並んでいる小瓶を覗き込んでいると、カカシが「欲しいんですか?」と訊いた。
「蝦蟇の油だったら和尚に頼めば本物を譲ってくれますよ。ここらで売ってるのはどうせ馬油かなんかでしょ」
「はあ、まあ、そうなんでしょうけど」
身も蓋もない言い方にイルカは苦笑した。積まれた薬瓶の横に置かれた瀬戸物の蝦蟇が良くできてるとか、そんな事を考えていただけだ。土産物屋で売っている物にそこまで期待してはいない。ただ雰囲気を楽しみたいだけだ。
小間物屋や匂い袋の店などを通り過ぎると手焼き煎餅の店があった。店先の炉から香ばしい醤油の焦げる匂いがする。丸い煎餅を積み重ねて円筒形にした包みが店先にたくさんぶら下がっている。夜、部屋で食べようかな。お茶は部屋に用意されているがお茶請けがあったら良いなと思って、イルカは醤油煎餅と塩煎餅を買った。
「観光地って店ばかりですよねえ」
カカシが店の建ち並ぶ往来を見渡して不思議そうに言った。
「カカシさんはこういう俗っぽい所はお嫌いですか?」
「−−−そんな事はないですけど、どうも慣れないというか」
何をしていいのか分からないです、と困ったように言う。イルカは笑って
「用意された物に乗っかって楽しめば良いんですよ」
いつもはこちらが用意して依頼人や標的を乗せる方だから居心地が悪いのかもしれない。忍は常に世の中の仕組みの外側に存在しているものだから。
「カカシさんはいつもは休みの日は何をして過ごしているんですか?」
「−−−−−−−−−−−−−洗濯したり?」
長考した後の答えにイルカは笑った。
「はは、じゃあ、俺と変わらないなあ」
「でも最近はイルカ先生と会えるからいいかなあ」
耳の後ろを掻きながらカカシが言った。
「え、や、まあ、そうですね。そうですよね−−−」
イルカはばたばたと手を振りつつ頷いた。否定しているのか肯定しているのか自分でもよく分からないリアクションだ。こういう言葉をよく照れもせずに言えるものだ。社交的なタイプでもなさそうなのに気取りや衒いとは無縁そうだ。この人と友達だったら面白いだろうなあ、とイルカは思った。ガイやアスマとはどんな風なつき合い方をしているのだろう。でも彼らもカカシと同じくらい変わっているから平気なのかもしれない。イルカ自身は今となっては友人としてのカカシを見る事が出来ないのが少し残念だ。
こういう形でしか隣に立つ事は出来なかったのだ。
思い当たってイルカは思わず足元に目を落とした。少しだけずれた歩調で前を歩くカカシの足を見る。けして短くはない時間を知り合いとして過ごしてきたのに、二人の間の距離を縮めるにはカカシの告白めいた行動が必要だった。
友人になんてなれない。
恋でなくてはならない。
番の相手。
イルカはもうそれを始めてしまった。
石畳が途切れた。二人は来た方向とは逆側の町の外れに来ていた。保養地として賑わってはいるが田舎の小さな町だ。大人の男の足ならすぐに一周してしまう。木の葉の里よりも小さな箱庭のような町だ。
「ここでお終いか」
町の境に置かれた道祖神の前でカカシは振り返った。イルカを見てその目が柔らかく微笑んだ。なだらかに道は続いて白い砂の向こうに湖畔が見える。中点近くなった陽に温められた水の匂いがする。濃厚な生物たちの匂いがする。遠くの水面にゆらゆらと陽炎が立っているのが見えた。