「のう、カカシ。そろそろ里へ落ち着かんか?」
執務室で木の葉忍びを率いる長はキセルをふかしふかし、カカシに言った。この言葉は何度目だろう。ここ数年、この季節になるたびに聞かされる。新年度の人事異動に備えて探りを入れているわけだが、これはカカシの意志ではどうしようもない。
「俺のテストに合格する奴らがいれば」
毎年返すカカシの言葉も同じだ。
カカシは別に上忍師として下忍の指導をすることが嫌なわけではない。自分のような人間が子供を預かるということに抵抗がないわけではないが、少し憧れてはいる。かつての恩師のようになれるとは思えないけれど、意地汚く掻き集めてきた術の数々が子供達を生き延びさせるのに役に立つなら、左目をくれた友人も喜んでくれるんじゃないかと思う。
だが残念なことに毎年行われる下忍認定試験でカカシの課す試験に合格する子供はいない。それほど難しいことを要求しているわけではないのに。ただ、仲間を大切に思って欲しいだけなのに。あの頃の自分のような馬鹿な真似をする人間になって欲しくないだけなのに。
ふう、と年老いた里長は煙を吐き出した。
「おぬしは理想が高いな」
そんなことはない。それが最低限のラインだ。
「まあ、いい。志のない忍びは木の葉には必要ないからの」
上忍師候補のリストにおまえも入れておくから日程通りに面接をして試験を行うこと。最後に「遅刻するんじゃないぞ」と言い足して火影は話を終えた。
カカシは火影の執務室を出て本部棟の廊下を上忍待機所へ向かった。窓の外の風は冷たそうだがガラス越しの日差しは暖かい。ポーチから愛読書を取り出して読みながら歩いてゆく。
結局、あの晩の女とはそれっきりだった。
事が済むと二人ともシャワーを浴びてさっさと帰った。
朝起きてドッキリとか、過ちの一夜から始まる熱い恋とか、ぜーんぜん。
イチャパラのような事ってどこで起こってるんだろう。世間でラブラブイチャイチャしている恋人達って一体どこで発生してるんだ?
ま、こんなもんだろうとは思っていたが予想通り過ぎてがっかりだった。
春は物憂い。
重い溜息を吐いて目を上げると、今まさに思い出していた人物がいた。肩までの亜麻色の髪を揺らしてこちらへ歩いてくる。隣には男が並んで歩いていた。男の腕に掛けられた女の手が、二人が親しい間柄だと伝える。
ふーん。あれが例の彼氏か。
黒髪を髷のように頭のてっぺんあたりで括っている浅黒い肌の男だ。忍服も額宛もスタンダードな身につけ方でいかにも真面目っぽい。鼻っ面に一文字に掃かれた傷跡が厳しい印象を与える。
女がこちらに気づいて笑った。カカシも小さく頷きを返した。はいはい。余計なことは言いませんよ。仲良くね。
あんな風に睦まじそうな二人なのに女は他の男を取っ替え引っ替えなのかと思うと、カカシの夢見ている恋人同士というのはやはり空想の中にしか存在していないのかも知れないと思えてしまう。可哀想にね、彼氏。
その時、ふと女の視線に気づいた男がカカシの方へ目を向けた。
黒々とした犬のような目がカカシを捉える。
考えていることを見透かされたのかと思ってぎくりとした。あまりにも真っ直ぐな眼だったからだ。
誰でしたっけ?
そんな表情が浮かんで消え、男は黙礼してカカシから視線を逸らした。
素知らぬ風で一組の男女はカカシとすれ違い、廊下を向こうへ歩いてゆく。後ろ髪引かれる思いでカカシは振り向いて二人の背中を目で追った。男のうなじにゆらゆらと黒い髪が揺れていた。