#3 遠足弁当

それは毎年のことだった。
寒気がほどけ、冬枯れた木々が息を吹き返す。昼が長くなり、無闇に悲しくなる冷たい夜が遠ざかる。風の冷たさに縮こめていた手足が警戒をといて伸びやかに動き出す。そんな頃にその行事は行われる。
春の遠足。
遠足といったって忍を養成するアカデミーの遠足だ。ただの遠足ではない。
ひたすら歩く。
野を越え山を越え、流れを渡り谷を下る。
一晩のうちにどれだけ距離が稼げるか、それが生死を分けることがある。走らず歩かず、一定の速度を保って休みなく歩き続ける忍独特の歩行法を身につけるための演習だった。大切なのは歩調と呼吸、足に負担の掛からない足運び。それを体に叩き込む。
いつもの演習では数人の班に分かれ集団での行動をとるが、この遠足では自分の体力にあった歩行速度を知るために個々人での行軍となる。
己の限界を知るための演習でもある。クラス全員が予定された行程を踏破できることはまずない。脱落者は後から来る教師が拾って中継ポイントへ連れていってくれるまでそのまま捨て置かれる。
スタート地点に他の生徒達と集められ、常と違う訓練に興奮してキャアキャアと騒ぐ群の中で張り上げる教師達の声を聞きながらスタートの時間を待つ。一通りの装備のチェックを済ませると教師の号令で一斉に歩き始める。最初はアカデミーの裏手の森の中をぞろぞろと集団になって細い道を流れに落とされた果実のように移動する。次第に集団はほぐれてばらついてくる。
サスケはいつも先頭集団にいた。
歩きながら色々なことを考える。まだ前後に幾人かの生徒達がいる。キバの奴は最近身体能力が上がってきているとか、チョウジはあの体のくせに身のこなしが早いとか、シカマルはどうせ最初のポイントまでしか歩くつもりはないだろうとか。周囲を伺いながらペースをはかる。一人と、また一人と追い抜き、引き離す。徐々に自身のペースが分かってくる。その速度は変えないまま歩き続ける。体が一定のリズムを刻み始める。
そのうち頭の中は空っぽになる。
ただ歩くだけ。
呼吸する。足を踏み出す。視線を前方へ。
周囲には誰もいない。
森を抜け、視界が開ける。山際を緩やかに蛇行する道が延々と続く。暖かい日が頭上から注ぐ。汗が滲む。腰にくくりつけた水嚢から一口水を飲む。
なんの標しもなく、ただ続く道。どこまでもどこまでも歩け。歩け。まだ倒れない。まだ行ける。
「ペースが上がってきてるぞ」
不意に掛けられた声に振り向くと、クラス担任の教師が後ろを歩いていた。気づかなかった事に少し驚く。
「もう少しペースを落とせ。焦るな。早く着くためじゃなく、より長く歩くための訓練だ」
その言葉の過酷さを受け止めてサスケは顎を引き、速度を落とす。ふっと教師の気配が離れる。後方を歩く生徒達の様子を見るために歩調を緩めたようだ。引きずられそうになるのを堪える。他人の存在から受ける圧力と引力を体が知る瞬間。
それを振り切ってサスケは歩く。

 

昼をとるための折り返し地点は山頂に近い開けた盆地だった。短い草地が続いており、名前のしれない黄色い花が咲いていた。山の上の空気は澄んで冷たく気持ちよかった。不思議と達成感はない。まだ体が先に行こうとしている。まだ、まだ、まだ。
「余裕があるならあそこを一周してこい」
またいつの間にか後ろについていた担任教師が道の続く先の小さな頂を指さした。峰の上には登山者が積んだ石の山が風に吹きさらされている。
サスケは一人で石ころだらけの斜面を登る。
教師はそのまま折り返し地点で他の生徒を待つつもりらしい。振り返ると後続の生徒達が小さく見えた。教師が彼らに向かって何か大声で言っているのが長閑な春の空気の中にぼんやりと響いてくる。いつもの気のいい笑顔を見せているに違いない。
その声を聞き取る気力も残っていない。耳が遠い。
足元の石が崩れて思わず地面に手をつく。掌に小石が食い込み、じんと熱を持った。舌打ちして埃を払う。
頂に立つと、やっと体が満足を覚えた。山の斜面を這う白い道にはぽつぽつと生徒達の姿が米粒のように見えた。途中で渡った川や草原、アカデミーの裏まで続く森の濃い緑。今まで歩いてきた道程が一望できた。ほっと一息つく。シャツの袖や襟口を風がビリビリ揺する。この空間に自分しかいないことに安堵する。汗が出なくなっていることに気がついて水を口に含んだ。
斜面を下って行くと数人の生徒達が草地に座り込んでいた。皆、へとへとで口をきく元気もない。だが自然と一人の時間が終わったことをサスケは感じ取る。
「おまえら、よく頑張ったな」
担任教師は折り返し地点まで辿り着いた生徒達に労いの言葉を掛ける。立ったまま、時計を見て後から来る生徒がないか確認しながら。
「もう昼になったから弁当食ってもいいぞ」
今、腹にものなんか入れられないよ、と言う生徒達に、今、食っておかないと帰りもたないぞ、と 笑う。
「あれが最後だな」
斜面を上がってくる女生徒二人を見て小さく頷く。
「いのとサクラじゃん」
「ずっと張り合いながら歩いてたぜ。元気だよなー」
地べたにへたりこんだままの男子生徒達は、それでも人心地ついて軽口を叩き始める。
「サスケ君は私のものよ!だってさ。どーするサスケ」
「別に」
ニヤニヤ笑いの少年にサスケは無感動に返す。鼻にも引っかけない態度にケーッと顔を顰められるが知ったこっちゃない。
「げ。先生、それ食うの!?」
鼻の利くキバが声を上げた。
なんだと思って見れば、担任が濃い紫の風呂敷包みを地面に広げていた。そういえばずっと肩に担いでいた他の教師よりも大きな装備の、その正体は重箱だった。
「おう。おまえ達も一緒に食うか?」
そう言いながら水筒から茶をぐびぐび飲む。
それは、ちょっと、壮観な眺めだった。
重箱いっぱいの卵焼きと唐揚げと竹輪とおむすびと野菜スティックにほっけ。
何も食べられないと言っていた生徒達が匂いに釣られてノコノコ四つん這いで近づく。なんだか急にお腹が空いてくる。いや、もうずっと空腹だったのだ。
「サスケも来いや」
呼ばれて迷う。いつもだったら絶対にそんな誘いには乗らない。自分には自分の弁当がある。今朝、握ってきた握り飯数個。
来い来い、と手招きされる。
空っぽの胃袋と空っぽの頭。目の前の豪勢な重箱。
つい、ふらふらと。
手を着けたら、もう何も考えず他の生徒達と一緒にガツガツ貪っていた。
「おい、先生の分まで食うなよ。おにぎりくらいは持ってきてるんだろーが」
担任も負けずにガツガツ食うから、ちょっと競争みたいになる。
途中で、あー!先生ずるいってばよ!!と遅れてやって来たドベっけつも乱入して交差する箸と箸がぶつかるほどの混戦状態に突入する。車座になって重箱を囲んでいる一団を女生徒達は呆れたように見ている。
一通り人様の弁当を食い荒らして腹が落ち着くと、少年達は足を伸ばしてくつろいだ姿勢になった。サスケはまだ残っている竹輪の梅肉巻きを抓む。初めて食べたが気に入った。うまい。
無表情で竹輪を食っているサスケを見て誰かがぶっと吹き出した。
「うちはがちくわ食ってる」
何故かそれがツボにはまったらしく、皆がゲラゲラ笑い出す。
面白くないぞ。
そう思うのだが、担任教師まで口の中の物を吹き出さないように拳で口を押さえている。
「いや、みんな疲れてテンションがハイになってるんだ」
言い訳のように言われるがサスケは憮然とした。それでも竹輪は抓み続けるから皆、笑いが止まらない。サスケ、おもしれー、キバの奴が腹を抱えて言う。不本意だ。
その後はそれぞれに休息をとるために寝転がったり、場所を移動したりして集団はばらけた。ナルトは最後まで意地汚く重箱を漁っていた。そして休憩時間が終わってもへたって動けなくなって一人で後から出発する羽目になって「ドベっけつは出発までドベっけつかよ」と呆れられていた。大体、昼になったらどの地点にいてもそこで弁当を食って折り返すって決まりだっただろーがと担任教師に小言を言われながら、でも絶対最後まで歩きたかったんだってば!とキーキー喚いていた。
俺はあの山頂まで登ってきたんだぞ、と少しだけ優越感に浸りながらサスケは黙って一人で時間通り出発した。

 

一人から、また一人になるまでの間のあの時間。
なんで自分はあんなに素直に担任教師の誘いにのってしまったのか。
親のない子供。
そう思われるのが一番嫌だ。
あの時だけ嫌われ者のナルトがあの輪の中にいることを他の少年達が許していたのも不思議だった。
みんな、あんまり疲れて空腹すぎてそんな事はどうでもよくなってしまっていたのだ。
それに今になって気がついたこともある。あんな嵩張る荷物を持って、あの距離を生徒に合わせて速度を速めたり緩めたりしながら平気な顔で歩いていた担任教師。無意識にその背中を頼もしいと思っていた小さな自分。
人を殺そうと思っている。
そのために生きている。そんな自分にそんな時間が訪れることが不思議なのだ。
農作業で疲れ切った手足を放り出して荷車の上でぼんやりサスケは雲雀の声を聞く。
空が晴れていて、風が気持ちよくて、傍らに柔らかな温もりがある。同じように疲れ切っていて声もなく、ただ座り込んで呼吸している三人。穏やかなこの心地よさをどうすればいいのか分からない。
一人きりなら耐えればいい。泣こうが喚こうが黙りこくっていようが一人なら同じ事だ。だから泣いたり喚いたりしない。今更。
では、三人でいるにはどうすればいいのか。分からないから一人のように振る舞う。ずっとそうしてきたように。他のやり方なんていらない。これまでも、これからも。
だけど、ふと訪れるこんな時間をどうすればいいのだろう。黙っている。心が騒いでいるわけじゃない。ただ穏やかなのだ。どうしようもなく三人は一緒にいる。同じものを見て、聞いて。共に、在る。

 

空っぽの心が考えるより先に掴み取ってしまった。
何もかもを捨てねば殺せない。そう思っていたのに。
失えないと思う。そんなものは欲しくなかった。
ナルトは強くなった。
サクラは強くなった。
自分は、強くなったのだろうか、弱くなったのだろうか。

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