#12 居酒屋玉子

「玉子焼きかあ」
ぼそりと呟いた言葉に、目の前の受付に座った中忍は「え?」と黒い眼を上げて訝しそうな視線をくれた。
「ああ、」
そうされて口に出して呟いていた事に自分でも気がついた。
上忍のくせに我ながら弛んでいる。
「ナルトがね、イルカ先生の穴子の入った玉子焼きが美味いって言ってたから、どんなのかなあって」
この人の伏せた目蓋の影を見ながら考えていた。
「ああ」
イルカ先生は合点がいったように頷いてにこっと笑った。
「食べてみますか?」
え!今度はこちらが仰け反った。
「いいんですか!?」
「いいですよ。この後お暇だったら今日にでも」
ええ!そんな急に!?
玉子焼きなんて大した準備もいらないんだろうけど、穴子は内陸に位置する木の葉の里じゃ微妙なところだけれど、ま、それほど高級魚と言うわけでもない。でもそんなに簡単に友人でもない男を家にあげるのもどうかと思う。まして同里とはいえ相手は海千山千の上忍なのだし、どんな下心があるかも知れたものではないではないか。元教え子の上忍師でも油断しすぎです。と、既に二回も家に押しかけている上忍は数瞬で考えた。
でも、いいなあ。穴子の入った玉子焼き。

連れて行かれたのは小さな居酒屋だった。
近所の人間ばかりを相手にしているような安い定食と安い酒の店だ。
イルカの自宅へ向かうものとばかり思っていたからカカシは戸惑った。イルカは迷うことなく色の抜けた藍染の暖簾を払ってからりと引き戸を開けた。
「おや、先生」
いらっしゃい、店の奥から声が響く。イルカについて入り口を潜ると縦に長い店内にはカウンターしかない。促されるまま席に着き、手甲を外して貰ったお絞りで手を拭った。カウンターの中には胡麻塩頭のオヤジが一人、すぐ奥からおかみさんが盆に湯飲みを二つ載せて出てきた。
「いらっしゃいませ。先生が誰か連れてくるなんて珍しいわね」
気安い口調からイルカがこの店の常連である事が分かる。
あれ?
イルカ先生、玉子焼きは?
カカシの心の声が聞こえたようにイルカは朗らかな調子で注文をとるおかみさんに言った。
「この方がね、ここの玉子焼きを是非食べたいって仰るから連れてきたんだ」
じゃあ特別に腕を振るわないと、とカウンターの中のオヤジが言った。
「え!?玉子焼きってイルカ先生が作ったんじゃないんですか!?」
カカシの上げた声にきょとんとイルカが振り返った。
「え、俺が作ったと思ってたんですか!?」

「俺にそんなの作れるわけないじゃないですか」
やだなあ、と笑われた。
「だってあんなに美味いカレー作るのに」
「あんなの野戦料理じゃないですか」
でも美味しかったのに。
少なからずショックだ。イルカ先生の巨大弁当箱はカカシの夢想の産物だったらしい。
俺のメルヘンがまた一つ…沈痛に眉根を寄せたカカシに頓着せずにイルカはハハハ、と笑った。
「ここね、教員になった頃から通ってるんです」
それで初めて学校の行事で弁当持って行かなくちゃならなくなって、どうしようかと思っていたらおかみさんがうちで作ってあげるよってね。
「朝、弁当を受け取りに来たら吃驚ですよ。こんなお重にぎゅうぎゅうに中身詰まってて」
こんな、とイルカは両手で重を抱えるような仕草をした。
「この人、はりきっちゃって。近所の連中と花見に行くみたいな弁当こさえちゃってね」
おかみさんも笑ってつけたす。オヤジはむっつり黙って手を動かしているが耳と首が赤い。
「でも美味いし子供達には好評だし、それから毎年作ってもらってるんですよ」
そうなんだ。
「はいよ」
ことり、とカウンターの上に四角い皿が置かれた。柔らかな黄色の玉子焼きがほっこりと載っている。ぱきん、と割り箸を割りながら「どうぞ」とイルカが言った。カカシも割り箸を割ると取り玉子焼きの端っこの一切れに箸を入れた。
柔らかな感触と共に割れた玉子焼きの中から穴子の白い身が覗き、ふんわりと湯気がたった。箸で摘まむと頼りない感触がふるんと揺れる。
そのままぱくりとカカシは玉子焼きを口に入れた。
「ぅんまい」
思わず声が出る。同じく玉子焼きを口に含んだイルカがイヒヒと笑った。
「弁当も美味いけど、やっぱり玉子焼きは焼きたてが一番です」
美味しそうな笑顔だ。
一つの皿を挟んではふはふと、上忍と中忍は黄色い柔らかな至福をいただいた。

何品か追加して、サスケ賞賛のちくわの梅肉巻きも頂いた、締めに茶漬けをいただいて、二人は店を出た。暗くなった小路にひんやりと夜の匂いがした。
小ぢんまりとした店は、建物自体は古いが掃除もいきとどいて丁寧に使い込まれた品々に囲まれ居心地が良かった。カウンターの分厚い一枚板は磨きこまれてぴかぴかだ。人の温かい気配がする場所だ。
戸板一枚挟んで、もう外は冷たくて暗い。
「昔は料理苦手で。一人だと作る気しないじゃないですか。任務に出ている時は当番になったら否応なしに大勢の飯作んなきゃいけないけど、里に居つくと、ね」
そう言って言葉を途切らせた中忍は、ふと虚空を見つめるような眼差しになった。
「今は慣れましたけどね」
カカシにも少しそれが分かる。
それまで駆り立てられ急き立てられてきた足取りを急に緩める事を要求されて不安になったのだろう。
カカシにも思い当たる節がないではない。暗部を抜け、下忍担当上忍師になってから。
なるほど、彼は確かに自分の同胞だ。この店の主人やおかみよりずっと自分たちは近しい。他人の作り上げた巣に潜り込んで一時の安寧を得ては、また飛び立ってゆく。
孤独なのか恵まれてるのか分からない人だなあ。
「先生、また玉子焼き食べさせてくださいよ」
少し先を行く背中に滲む夜のような寂しい気配にカカシは呼びかけた。

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