春、駒鳥たちは胸を血に染める。

 若い頃、といってもまだ若いつもりだが、カカシはモテた。
忍びの世界では強い者が男女の別なく賞賛を受けるが、精鋭を選りすぐった部隊の中でも屈強な男達に混じる年若いカカシの細身の体や色素の極度に薄い髪の色などが異彩を放っていたせいだろう。
幼い頃から実戦に投入されてきたせいでカカシの周囲には死が満ちていた。あの時代に生きていた誰しもがそうだったのだと今ならば分かるが、十代の頃はまるで自分が凶事を振りまいているように思い込んでいたから、とにかく暗い奴だった。そして尖っていた。
自分だったらそんな自意識過剰で人づき合いの下手な奴とはお近づきになりたくないと思うのだが、なぜかモテた。女にも、男にも。
ある意味、純粋培養だったカカシにはそういう心情は理解しがたいものだった。日々繰り返される戦闘と仲間の死、その中にあって何故、みな呑気にそんな事にかまけていられるのだろう?
夢見がちにとろんとした視線を送ってくる年頃の少女や、喉を鳴らしてあからさまに誘いを掛けてくる妙齢のくノ一、野営のテントで寝袋に手を突っ込んでくる部隊の男、すべて蹴散らして任務に邁進した。
若かった。
そのうち適当に遊ぶことを覚えた。
一人前の忍びになるなら必要な事よ、と閨房術の指南役がついて、なんだかひたむきに修練を積んでしまい、それでどっかが緩んだらしい。
人間は血と肉と骨だ。
それだけだ。
他人と肌を触れあわせても戦場で見てきたことをまた確認しただけだった。
だが、その血と肉と骨が命を宿すというだけで温かく心地よく感じられるのだということも体で知った。
自分の肉体さえ疎ましく感じる時もある。いっそ自分を含め、この地上の肉で作られたすべての獣が消え失せてしまえばいいのだと、血の滴る戦場の土に怨嗟を吐いたこともある。
けれど息を凍らせ、焦土のそちこちからぽつりぽつりと立ち上がる仲間の影を見れば、カカシは自分と他の人間達が生き残ったことを感謝せずにはいられない。
血の通う彼らの肉体に触れたいと思うのは当然のことなのだ。
温かい湿った呼気を感じ、滑らかに脈打つ皮膚の感触を味わいたいと思うのは本能だ。
愛だ恋だと浮き足立つ周囲の同世代の者達をカカシは皮肉な気持ちで眺めていたけれど、そうやって命あるものに引き寄せられすり寄ってゆくのが動物として組み込まれた生理であり、自身の中にもそんな欲求があるのだと自覚してカカシは少しだけ周囲にも自分にも寛容になった。
エッチっていいものだよね。
素直にそう思うようになった。

そして今は人前で平気で18禁本を広げる薄汚いおじさんです。
いやいや、まだオジンってほどじゃない。若い。ピッチピチだ。今時の子は「オジン」なんて言葉も使わないのかもしれないが。
顔だって悪くない。一楽のオヤジさんが「先生、男前だねえ」ってチャーシュー一枚おまけしてくれるほどだ。
で、まあ、それなりの経験があるのでそういう視線はすぐに分かる。
今、本部の奥の薄暗い一角にあるブリーフィングルームで、中央に置かれた長机越しに哨戒任務の段取りを説明している自分に向けられる中忍達の眼。その中の一人、中忍の若いくノ一の眼が艶を含んできらめいている。
性的に意識した相手を見る時、人間の眼は少しだけ瞳孔が開いて黒々と光る。そうやって相手に発情しているという信号を送るのだそうだ。
動物でも発情期になると体の一部が大きくなったり色が変わったりするものがある。普段と違う声で鳴き、特別な匂いを発する。
気持ちは言葉にしなければ伝わらない、と人は言うが案外伝わることも多いのじゃないかとカカシは思っている。
生理に深く結びついた事柄ほど体は雄弁に語る。隙も多い。
出来うる限りそれを表面へ表さないのが忍びの習いだ。
正面のスクリーンを見上げ、ポインターで国境の哨戒ラインの地図の要衝を指し示して話すカカシの横顔へ、女の視線が痛いほどに注がれているのを感じる。他の中忍達のただ集中しているだけの視線とは明らかに種類が違う。
個人的な感情を持っている相手が部隊内にいるのは好ましくない。感情を持つのは自由だが、それを隠せないのは拙い。
だが、部隊からはずしてもらうほどの事でもないだろう。上官に対する憧れが奮起剤になる場合もある。
ちら、と目を向け女の顔を見ると彼女はぽぅっと頬を上気させた。
まだ若い。二十になるか、ならないか。
人生の春だ。
俺はそんな季節をどこにおいてきちゃったのかねえ。
そんな年寄りじみたことをカカシは思った。
説明を終え解散を告げると、中忍達はそれぞれブリーフィングルームを出て行った。その背中を見送りながらカカシは机に広げた地図や書類を片づけた。
「やっぱりはたけ上忍ってカッコイイー!!」
さっきのくノ一のけたたましい声が廊下の向こうから響き渡ってきてカカシはガクッと肩を落とした。最近の若い娘はあっけらかんとしている。女というより、女の子という感じだ。
苦笑を漏らしつつカカシは束ねた書類を手に窓辺に寄った。ブラインドの下ろされた窓から斜めに薄く何条もの光が漏れている。その隙間に指先を差し入れて外を見る。
今日は朝から小雨がぱらついていたが夏の近づく空は明るく、室内の薄暗さに慣れた目には雲間越しの光も目映く眼の奥がチカチカと痛んだ。

 

長い回廊を本部棟へ向かって歩いていく。窓の外からオルガンの音が聞こえてきた。
軍事施設の密集する木の葉の中央棟に子供達の声が響いているのを聞くと、外からの客人達は皆一様にぎょっとする。非戦闘員である子供が何故、こんな所にいるのかと驚くのだ。
客人に何故かと問われれば案内役の忍びは「ここが一番安全ですから」と答える。実際、障壁に囲まれた狭い里の中でここ以上に安全な場所はない。本丸であるこの中央棟が落ちる時は木の葉が滅ぶ時だ。
だが、この中央棟に戦闘員以外の人間がいるのかというとそうではない。子供達も戦闘員だからここにいるのだ。忍びとして額宛を与えられていなくとも、大人の忍びがいなければアカデミーの子供達が一般人を守って戦うだろう。忍び達が死に絶えても、他の国々では非戦闘員と目される人々が武器を取って戦うだろう。誰も里を捨てたりはしない。
ここはそういう土地なのだ。
開いた窓から暖かく湿った風が吹き込んでカカシのふさふさとした髪を揺らした。オルガンの音が流れる空をつい、と切り裂いて燕が黒い背を見せた。雨のせいか低く飛ぶ。
カカシは回廊を抜け、辿り着いた報告所の引き戸を開いた。
受付の長机についた係員達がさっと顔を上げる。
そのうちの一人の目がカカシを認めて黒々と輝く。
黒い髪を頭の上でぴょこんと括ったイルカ先生だ。いつもカカシは誤解しそうになる。自分を見て嬉しそうな顔をしたんじゃないかと。しかし、イルカの視線はすぐにカカシの後ろや腰あたりに移動する。そうして、カカシの後ろにはもう小さな部下達の姿はないのだと気がついて少しがっかりした顔つきになる。
カカシは確認したくもない、そんなイルカの微細な表情を見届けてゆっくりと窓口の机の前に近づく。
「お疲れ様です」
イルカは愛想良く笑ってカカシに言う。
依頼人や斡旋される忍び達が出入りする受付とは違い、こちらは任務を終えた忍びが報告書を提出するための窓口であるから午後一のこの時間帯は大抵、閑散としている。
カカシはイルカの前に、ひら、と報告書を机の上に置いた。
イルカはその報告書に生真面目な顔つきで目を通す。午前中に片づけた簡単なCランク任務の報告書だ。
カカシはイルカの伏せた目蓋や、鼻梁の傷、顎のラインや耳の形をじろじろ見回した。奥二重の目蓋の下に隠れた睫の長さや、軽く前歯で噛んだふくりとした下唇の窪みまで。それらに指で触れ、唇で感触を確かめたらどんな感じだろう。いつも子供達の頭をわしわしと撫でている平の厚いごつごつした手で、自分にも触れて欲しい。きっと温かいだろうな、と想像しただけで心地よくなってしまう。鞣したような浅黒い肌の味はどんなだろう。
「依頼人からは既に経費は受け取っているんですね?」
子供達と一緒の時は殊更ははきはきと良く響く声が、大人相手の時は低く落ち着いたものに変わるのが、どうしてこんなにクるんだろう。
はい、と平坦に答えながらカカシは目の前のイルカから得られる情報を最大限に取り込もうと集中する。意識してやっているわけではない。タチの悪いことにすべて無意識だ。勝手にカカシの眼はイルカを深く観察し、耳はイルカの立てる音を拾い聞こうと聳つのだ。
しかしそんな不躾な視線はイルカが検印を押して顔を上げるまでだ。
「問題ありません。お預かりします」
そう言ってイルカが顔を上げた時にはもうカカシはいつもの捉え所のない、気のなさげな顔つきに戻っている。
真っ直ぐにカカシを見上げてにこりと笑うイルカは、自分がカカシにどんな眼で見られているかなんて微塵も気づいていないようだ。
まだ大丈夫だとカカシは思う。
気づかれていなければ、どんな眼で見ようとこちらの勝手だ。

 

 初めて会った時、イルカは血の匂いをさせていた。
七班の三名をつれて初めて受付へ行った時だ。
「アカデミーでこいつらの担任をしていました、うみのイルカです」
そう言った健全そうな笑顔にそぐわない血と消毒薬、真新しい包帯と化膿止めの匂いがした。
ナルトが飼い主を見つけた子犬みたいに眼を輝かせて、でもそうっとイルカを気遣って彼の袖口を握ったのが印象的だった。
初々しい恋人のような仕草で、ドキッとさせられた。
三代目以外に九尾狐を封じられた子供が懐いている相手がいるなど考えられなかったのでひどく意外だった。
イルカの黒いアンダーの首元からは白い包帯が覗いていた。だがイルカは怪我をしていることなど感じさせない快活な笑い声をたて、無造作にナルトの頭をくしゃくしゃにした。屈み込んでサクラとサスケの顔を順番に覗き込み、「下忍昇格おめでとう」と声を掛けた。二人がはにかんだ笑みを浮かべるのをみて、これは大変なものを預かってしまったとカカシは実感したのだ。
小さなその体の中にナイーブな魂を包んだ生き物。
これらの者達を、人も騙せば殺しもする、そんな強靱な忍びという生き物に変えてゆかねばならない。
目の前に立つ、血の匂いをさせながら平然と笑っている男のように。自分のように。
イルカの服の裾を握ったナルトの小さな手を見ていて思いだしたのは、十年以上前に死んだ友人の手だった。短くて丸い爪、くないや手裏剣で擦れ黒ずんだ指先、そんなものがよく似ていた。
だぶついた袖から小さな手が覗いていた。
動きを妨げないくらい、けれど少しだけ大きな服。彼の両親が「大きくなっても着られるように」と選んだサイズだったろう。
そんな思いを残酷に断ち切って、記憶の中の彼は成長することなく時を止めた。
カカシだけが大人になった。そして今は小さな部下の旋毛を見下ろしている。
そうか。俺はもう大人になったのか。
木の葉の額宛を授けられた時に自分は一人前になったと覚悟を決めたはずなのに、唐突にカカシはそんな風に感じた。
俺はもう一人の人間として、人を恋うことができる。
何故その時、そんなことを思ったのかよく分からない。
その時から血の匂いをさせながら、生き生きとした表情で子供達を庇護する男のことばかり考えるようになったのはどうしてなのか分からない。

 

雨は降ったり止んだりを繰り返して不安定な気候のまま夕暮れになった。明るい灰色の空の下を薄墨を落としたような猪子雲が早足で流れてゆく。陽の残光が空の縁にだけ薄赤く照り映えていた。明日は晴れるといい。朝早くの出立のため明日は来られないだろうとカカシは慰霊碑に足を向けた。
ぱらつく雨に色を濃くした緑の中にひっそりと古びた石碑は建っている。
オビトも大人になってリンとエッチしたかったろうなあ。
慰霊碑を前にカカシは不謹慎な事を考えた。
そんな話を出来るようになる前にオビトは逝ってしまった。今なら聞いてみたい。
どうしてこんなに一人の人間に惹きつけられるのか、と。
「俺の方が子供だったかなあ」
カカシは一人呟いた。
人を恋う、その事を思った時にたまたま目の前にいたのがイルカだったからなのか、イルカが現れたからそんなことを思ったのかよく分からない。彼からにおった血の匂いのせいかもしれなかった。
慰霊碑に刻まれた人々の名を眼で辿るカカシの背後から、さくさくと草を踏む音が近づいてきた。
今日は三代目の月命日だ。
彼が来ると思っていたわけではなかったが、期待していなかったわけでもない。背中で足音を聞きながらカカシは待った。
「カカシさん」
と、いつもより低い声で彼が呼んだ。
振り返ると書類鞄を脇に抱えたイルカが立っていた。
「お参りですか?」
笑みの形に右目を細めたカカシに「はい」とイルカは頷いて、カカシの横までやってきた。濡れた草を踏み分ける足下に露が散る。
暫く黙って並んで立っていた。
厳かな場だというのにカカシの意識は隣に立つイルカの体温に惹きつけられる。湿った空気の向こうに感じるイルカの気配に神経が張りつめた。居たたまれないような気持ちがするのに、ずっとこのままでいたいとも思う。いずれこの人の気配にも自分は慣れる日がくるのだろうか。もうかれこれ二年近くは顔見知りを続けているというのに。
「遠征任務に志願されたそうですね」
沈黙を破ったのはイルカだった。
国境付近の哨戒ラインへの斥候任務のことだろう。任務受付所にも交代要員の募集が出されていたからそこから知ったのだろう。
「ああ、はい。里にいると色々うるさいので」
カカシは肩を竦めた。うちは一族のたった一人の生き残りに千鳥という強力な技を授けた挙げ句に里を抜けられた。上忍師として最悪の結果を出したカカシに上層部の風当たりは厳しい。特に御意見番の水戸門ホムラに睨まれている。
微妙な立場になったカカシに幸いだったのは、綱手が五代目火影に就任したことだ。綱手は彼女自身が抜け忍扱いされてもおかしくないような来歴の持ち主であった上に、カカシの部下である春野サクラを承諾なしに自分の弟子にしてしまったことをカカシに悪いと思っているらしくカカシには甘かった。
おかげでカカシは忍びとしての命を繋いだ。
「ホムラ様は今でも三代目の死に納得がいかないんです。五代目に対しても少々きつく当たってらっしゃるようで…」
イルカはそう言いかけて口籠もった。一介の中忍が言っていいことではない。代わりにイルカはカカシに痛ましそうな顔を向けた。
そんな顔がとてもいい。
イルカの真摯な言葉に耳を傾けながら、そんな浮ついたことを考えている自分に呆れる。大人になって、頭の中は随分おめでたくなった。
自身の立場の悪化を、カカシはあまり気にしていない。父親が謂われのない批難に晒され命を絶ったあの日から、カカシの人生は逆境の連続だった。狭い里の組織の中で生きていくというのはそういうことなのだと幼い頃に叩き込まれた。
ただ、三人の部下達に申し訳ないと思う。
ナルトにもサクラにも可哀想なことをした。
結局、サスケに何もしてやれなかった。
だから、やっぱりこの人に打ち明けられはしないだろうと思う。

 

 また雨がぱらつきはじめた。
帰りましょうか、と声を掛けて小雨の中、二人で家路についた。
イルカの少し後ろを歩きながら、濡れて重たくなった黒髪が首筋に張り付くのを眺めていた。
人間は血と肉と骨だ。
それだけに過ぎない。
なのに一人だけを特別に思うのはどうしてなんだろう。
イルカの体から匂った血の匂い。
時折、カカシはイルカの体が血と肉と骨でしかないことがたまらなくなる。
肉は裂け、骨は砕ける。そんな脆弱なものでイルカが構成されている事が不安になる。触れたことがないから尚更。
人の縁の薄い子だ、と自分を哀れむように見たのは暗部時代の上官だ。父もオビトも先生も、そしてまた部下の三人はカカシを去った。先の三人の死は、大戦中だったこともあり仕方のないことと今ならば思えるけれど、サスケやナルト、サクラが去ったのは正直、こたえた。自分には人を繋ぎ止めておける力がない。
柔らかな体をすり寄せて、か細い声で鳴く小さな生き物。触れればときときと脈打つ音まで聞こえてくる。それらは一時、カカシの傍らに蹲り温もりを分けて、そうしてすぐにいなくなる。
「明日の朝は早いんでしょう」
前を歩くイルカが言った。
「はい」
「風邪を引かないように気をつけて下さい。北の国境はまだ寒いですから」
ぽつぽつと掛けられる言葉に、はい、はい、と頷きながらカカシは歩いた。雨の中をしっかりとした足取りで歩んでいくイルカの背中に縋り付きたいような気持ちになった。
この人が自分のものになってくれたらどんなにいいだろう。雨に濡れ凍えた指先を伸ばすことが出来たらどんなにいいか。
不意にカカシは暗がりに光る獣の眼にはっと足を止めた。
演習場の緑を抜け、町中に差し掛かっていた。
灯りを落とした商店のガラス戸に自分が映っていた。
雨にそぼ濡れ、腹を空かせた野良犬のような顔をしている。なんて顔をしているんだろう。そんなにイルカが欲しいのか。暗がりの中で鏡面と化したガラスの中で、物欲しそうな自分が突っ立っていた。
ふと視線を感じて眼をやるとガラスに映ったイルカと眼があった。
視線が絡んだ瞬間、イルカは眼を泳がせた。
それだけで分かってしまった。
---------バレてる。
天啓のようにかつての閨房術の師の言葉が胸中に閃いた。
『真っ直ぐ相手を見て話す人は嘘をついているのよ』
イルカは気がついている。自分がどんな目でイルカを見ていたか。気づかないふりをしていたのだ。嘘をついていたのだ。気がつかないはずがないだろう。こんな、動物の雄が発情期に物欲しげに雌の周りをうろつくような目をしていれば。ああ、だが、あんなに真っ直ぐに曇りのない瞳で自分を見上げたこの人が!?
こういう場合は、狼狽えないことが大切だ。
素知らぬ顔をするか、出来るならば開き直って更に相手を舐めるように見てやればいい。知っていたくせに素知らぬふりをし続けてきたなんて意地が悪い。中忍のくせに、上忍を馬鹿にしたのかと、状況を逆手に取って口説き落とすところまでいければ合格だ。
そうでなければ、この居たたまれなさをどうしようもないではないか!
---だが、しかし、カカシはそのうちのどの行動もとれなかった。
ただ俯いて、覆面と額宛から唯一のぞいた右目の縁と耳朶をじんわりと朱に染めた。
恥ずかしかった。
耳元でこめかみの血管ががんがん鳴っていた。
ガラスの中でイルカも俯いていた。
暫く、二人して薄暗く曇った雨空の下、ガラスに映る互いの視線を意識しながら立ち尽くしていた。
「カカシさん」
先に口を開いたのはやはりイルカだった。カカシは足下から目を上げ、隣に立つ本物のイルカの顔をようやく見た。カカシにつられたのか、イルカの顔も赤かった。
「気をつけて行って下さい」
俯いたままそう言ったイルカに、カカシはのぼせた顔で「はい」と言うのが精一杯だった。
「あなたが強いことは知っていますが、心配です。俺なんかに心配されても鬱陶しいだけかもしれませんが」
それから逡巡するように視線を揺らめかせてイルカは呟くように言った。
「あなたに憧れて遠征任務を希望した中忍も多いんですよ」
言ってから、イルカは片手を自分の口へ持っていった。言ってしまったことを悔やむように。
「はい」
イルカが何を言いたいのか汲み取れないまま、惰性のようにカカシは答えた。ガラスの中のイルカがキッとカカシへ鋭い視線を投げてきた。
暗いガラスの中からイルカの瞳に射抜かれてカカシの胸は高鳴った。なんて目で見るんだろう。炙られるような視線がカカシに注がれていた。まるでさっきまでの自分がイルカに注いでいたような、それよりも更に熱をはらんだ揺るぎのない視線だった。
「カカシさんは---」
「イルカ先生、こっち見てください」
カカシは隣に立つイルカに呼びかけた。
イルカの横顔に血の色が昇っている。滑らかな浅黒い肌が雨に濡れながら熱くなっているのを確かに感じた。ゆっくりと首を巡らし、イルカは決まり悪げな表情をカカシに見せた。自分が映っていることを確かめたくてカカシはイルカの目を覗き込んだ。
黒い瞳の中でもひときわ黒く艶やかな瞳孔が濡れたように光って、カカシへ訴えかけてくるものがある。
言葉にしなければ伝わらないと人は言うけれど、言葉よりも雄弁に直接的に肉体が発するサインがある。イルカが完璧に隠し続けてきたサイン。イルカはカカシよりも余程、忍び然としていたらしい。
「俺だけですか?それとも誰にでも、そんな目を向けるんですか?」
カカシの視線を感じたのか、イルカが言いにくそうに尋ねた。
「俺が他の奴をこんな風に見ていたことがありますか?」
カカシは逆に問い返した。イルカは意地が悪い。カカシがどんな眼でイルカを見つめていたか気がついていたくせに、そんな事を訊くなんて。
「知りません。俺があなたと接するのなんて週に何度か、あるかないかじゃないですか」
イルカのいない所で、誰と何をしているかなんて知る由もないとイルカは投げつけるみたいに言った。
「あなたに憧れてるくノ一だって沢山いる」
さっき言いたかったのはこのことか。遠征任務で同じ部隊になったあのくノ一を気にしているのか。あんなの、ちょっと名の知れた上忍が上官になってキャーキャー騒いでいるだけじゃないか。
イルカはそんな事を気にするのか。カカシが受付所で仲良さげに話しているイルカと同僚の姿を気にするように、イルカもカカシと同じ部隊に組み入れられたくノ一の名にやきもきしたりするのか。
自惚れてしまいそうだ。
なんにも言っていないのに。言われていないのに。
雄同士でそんな事、と眉を顰めるか気味悪がられると思っていたのに。
けれど言葉にするのはやはり躊躇われた。
許されていないと感じてしまうからだ。
どこの誰がカカシを許さないのかは分からない。
だが、怒ったように目の縁を赤く染めカカシをじっと見つめているイルカが自分のものであればと虫の良いことを思っている。
カカシはぎゅっと眉間に皺を寄せ、眉尻を下げた。笑いかけようとして失敗した。
イルカは唇を噛むと目を伏せた。逸らされたイルカの黒い目をカカシは惜しんだ。
春、鳴き交わし赤く染まった胸を見せつける鳥のように見交わし合い、それでどうすればいい。獣のように体を重ねればいいのか。
そんな事、したいに決まっている。
だけど一番欲しいものには触れてはいけないのだ。
どうしてだ。
だって、オビトが。
オビトはリンに触れられなかったのに。あんなに好きだったのに。だぶついた袖からのぞく小さな手ではリンを抱きしめることも出来なかったのだ。
手首に熱を感じてカカシはびくっと肩を揺らした。
イルカの手が濡れた手甲の上からカカシの手首を握っていた。雨の滴るイルカの指はそれでも熱く、悴んだカカシの手を温めた。
カカシは詰めていた息を吐き出し、イルカの肩に額を押しつけた。顔を隠した布越しにイルカの頬に頬を摺り寄せた。
気をつけて行ってきて下さい、ちゃんと帰ってきて下さい、誰彼構わずそんな顔見せちゃだめですよ、耳元で囀るイルカの言葉にカカシは言葉を忘れてただ頷いた。
ぐっしょりと二人を濡らして降る暖かい雨は既に初夏のものだというのに、求愛の歌を歌うにはまだカカシは未熟だった。

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