果ての空

澄み渡った青空だった。
地平が弧を描き途切れる果てまで続く青。
その青の深度のあまりの深さに却って暗さを感じさせるような。
無音の世界。
一人きりだった。
いつからそこにいたのだろう。
時の始まりの瞬間から?
目に映るのは青の色だけだった。

ずっと鳴り続けている、腹に直接響いてくるような不気味な地鳴り。
目を開けようとして顔面に引きつれるような痛みが走った。こびりついた血で右目が 開かない。瓦礫に埋もれた下半身が血と汚物でぬるぬるする。不快感に身じろいだ途端 激痛に襲われた。脚をやられているな、と冷静に考えた。仲間達はどうしたのか。 左 目だけで周囲を見回す。
その、目の端に映ったものが何なのか一瞬ヴィクトールには分からなかった。
土砂からぬっと生え出た奇妙な物体。
現実離れしたシュールな光景だった。事態を頭は理解しても感情がそれを拒んでい た。自分は泣くべきなのか笑うべきなのか分からなかった。本能的に笑うことで心を 守ろうとした。だが、眼に映った何かにゾッとするような現実感が降ってきた。
薬指に見覚えのある指輪。
人間の腕だった。
「長すぎる春でしたから」
照れくさそうに報告に来たのはつい先日のことだ。
自分のすぐ後ろを走っていた部下だった。
「――――」
彼の口から迸った叫びが誰かに届くことはなかった。
ずっと鳴り続けている、不気味な地鳴りはまだ止まない。

目を開くとほの暗い、室内。
静かな息づかい。傍らの温もりに腕を伸ばす。
触れた髪の感触をしばらく弄んでヴィクトールはカウンセラーに言われた通りのやり 方で体の緊張をゆっくりと解いてゆく。眠りの内に知らず身体が強張っていることがあ る。あの事故の後遺症だと医者は言った。指に触れている人間の存在感が安心を与え てくれる。その眠りを妨げないように、そっと上体を起こしヴィクトールはその人の寝 顔を覗き込んだ。暗さに慣れ始めた眼に無防備な顔が映る。そこだけに世界中の安らぎ と静けさを集めたような、顔。
その眠りを守るようにヴィクトールは傍らに肘をついて、真下に彼を覗き込んだ。体 は触れない。視線だけで彼に触れた。
暗がりの中で彼の寝顔は白く心許ない。細い顎と薄く肉ののった頬。繊細な鼻梁。押 しつけがましさの全くない、そこに佇んでいるだけの、けれどとても確かな存在。
彼の泣き腫らした瞼に気がついて、ヴィクトールは少し後悔する。
昨夜、自分は理性的なこの人を子供みたいに泣かせて、懇願させた。時々そういうこ とをしてしまう。彼の持つ端然とした空気につい焦れてしまうのだ。どんなに手を伸ば しても触れることのかなわないような、たとえ身体を結んでも手に入れることの出来な いような、守護聖だからというだけではなく、そんな感覚に耐えきれず何度も確かめる ように名前を呼ばせた。
そうしてさんざん追いつめて乱れさせて、何度も求めさせて、ようやく安心する。子 供みたいなのは自分の方だ。

ヴィクトールは自分の中に消すことの出来ない闇があることを知っている。
その闇は青い。
空っぽの青。
あの空の青だ。
記憶に刷り込まれたあの空は、一体どこで見たのか。
地上の全てを燃やし尽くした後の空の色はあんなだったろうか。自分が最後にあの惑 星で見たのはどす黒い煙に覆われた空だったけれど。
それとも瓦礫に埋もれた短い眠りの中で見た夢か。
幾度も心に蘇るあの青。
あれが「果て」なのだと、理由もなく、けれど確信に満ちて彼は考える。
似ていただろうか?
初めて間近に見つめられたとき、この人の瞳に目を打たれた。
どこかの果てに佇んであの空を見上げている彼を思い描く。あの青を映す銀灰色の瞳。
きっと自分も彼もあの空の下に佇んでいるのだ。こうしている今も。
出会うことなく、触れることなく、ただあの青を見上げている。
そしてヴィクトールは自分の存在の寄る辺なさに呆然とする。
いつも。

ふと、ルヴァが眼を開いた。
うっすらと開いた瞼から眠りを纏ったままの瞳が周囲を把握しようと彷徨い、眼前に 自分を捉えて、ルヴァはその顔に安堵したように微笑みを浮かべた。
無意識の微笑み。
ただそこに自分がいたことが幸福なのだといっているような。
その微笑みにヴィクトールは胸を締めつけられた。
泣きたいような気持ちでルヴァを見つめた。
ルヴァの意識がゆっくりと眠りの底から浮かび上がってくる。煙る灰色の瞳に光が宿 り自分を見つめ返してくる。
ヴィクトールはルヴァの肩口に顔を埋めた。
泣きたいような気持ちで。
何かが、いつも、自分を繋ぎ止めている。
あの果てから、この地上へ立ち返ってゆく。
その微笑みだけで自分は繋ぎ止められているのだと。
「どうしたんですか?」
眠れないんですか、ルヴァの胸に顔を擦りつけてその声の響きを頬で感じた。彼の匂 いを吸い込んでヴィクトールは眼を閉じた。

澄み渡った青空だった。
地平が弧を描き途切れる果てまで続く青。
その深さと広大さに気が遠くなる。
天と地の狭間に身を投げ出して見上げている。
自分が自分として存在している限り、こうして見上げているのだ。
奇妙な愛おしさに胸を締めつけられながら。

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