完璧な一日

「完璧だ」
一口含んでヴィクトールは唸った。
エビとムール貝のトマトソース。本日の特別メニュー。
「こんな巧いパスタソースは生涯、二度とお目にかかれないかもしれませんね」
料理長のゴーシェ元大佐も四角い顎を擦って感嘆した。
「閣下、届きましたよ! イーツの赤です!」
給仕のマルコ元伍長が厨房へ駆け込んできた。
「店長と呼べ!」
「は、失礼いたしました、店長閣下!」
「閣下はいらん!」
「は、店長!」
マルコは踵をつけて気を付けの姿勢で言い直す。店の外で他の店員達がワイ ンを運搬してきた車を取り囲んで大騒ぎしているのが聞こえた。
「そーっと運べよ。そーっとだ。ワインは生き物なんだからな!」
ソムリエのアミラクヴァリ元参謀がしきりに叫んでいる。
「ちょっと見てきます」
野菜箱に座っていたステファンが義足の不規則な歩調で厨房を横切っていった。

 

かつて「悲劇の英雄」と呼ばれた王立派遣軍の将軍ヴィクトールは退役後、 諸国の政治・軍事顧問のオファーを断り、この暖かな海の畔の小さな町に引き 込み一軒の店を開いた。旨いパスタとピザを食わせる店。鮮やかな陽光と石畳 で知られる港町は近くには古代の征服者達の遺跡があり観光客や町の人々で店 はいつも賑わっている。
彼がそれまでの経歴とかけ離れた職業を選んだのには理由があった。
ヴィクトールの額から右頬にはしる一条の傷跡と衣服の下の体に刻まれた無 数の傷跡。かつて彼はある惑星で未曾有の大災害のさなか、救援活動中に多く の部下を失い、自らも深手を負った。精神的にも深く傷ついた彼は若い頃の一時期、前線を離れ故郷で隠遁生活を送っていた。恐怖の記憶と自責の念に苦し み抜いた悪夢のような日々。
その彼の運命を変えたのは、全宇宙を統べる女王陛下からのとある依頼だっ た。新たな宇宙の女王選出とそれに伴う女王試験のための候補達の教官として 彼は聖地へ招致されたのだ。新たな生命に祝福された少女達との出会いは彼の 中に再び外の世界へと立ち向かう意欲を呼び覚ました。
そして、あの地下室の埃と古い書物の匂い。差し伸べられた癒しの手。
彼の人生の中で一粒の宝石のように輝いている、あの時間。

 

女王試験の後、ヴィクトールは軍に復帰した。前線を駆けずりまわり数々の 勲功をたてた。全力を尽くしたと自ら信じられる。通例より若くして退役した のは、もう一つの自分に出来ることを実践しようと考えたからだ。
過去の自分のように戦場や救援活動で負った傷、とりわけ精神的外傷に苦し む兵士達をバックアップするための基金を彼はかつての戦友達と共に資金を出 し合い設立した。そしてこの町に店を開いた。
経済的な補償をする機関は既にあった。だが、傷を負い軍を退いた兵士達を 何よりも苦しめるのは無力感と孤独だ。前線の過酷な状況下での悲惨な体験は 通常の人々には想像がつかない。理解されないという気持ちから彼らは心を閉ざし、孤立感に苛まれて飲酒や薬物にはしる。身近な人間に対して暴力を振る うようになる例も珍しくはない。そうして本人も周囲の人間達も傷ついて人間 関係は崩壊する。ヴィクトールはそんなケースを幾つも眼にしてきた。また派 遣軍に志願してくる兵士達には身寄りのない者や事情があって故郷へ帰ることの出来ない者が多い。そんな彼らの受け皿が必要だった。
現在、ヴィクトールの店には12人の従業員がいる。全員が彼同様王立派遣軍 を退役した者達だ。この店で働き、自分の道を見つけて去っていった者も多い。 必要ならば職の斡旋もした。政府機関による通り一遍な補償ではなく、彼らが 気軽に訪れ、思いを語り合い、相談できる場所を提供すること。  それがヴィク トールの考えだった。
しかし当初の考えとは別にヴィクトール自身がこの店にのめり込んでいるこ とも確かだった。店を開くにあたってヴィクトールは名のあるピザ職人の元で 修行を積んだ。以前は傷跡を隠すために外したことのなかった手袋もここ数年 はしていることの方が珍しい。ピザの生地を捏ねるのに邪魔だからだ。今では 彼の作るピザはこの地方の店の中でも指折りだと評判だ。共同経営者であり料 理長のゴーシェは唯一の経験者で軍に志願する前は父親の料理店を手伝ってい たという。貴族出のアミラクヴァリは軍人には似つかわしくない繊細な指と細 い顎の男でワインの味をよく知っていた。今となっては塹壕の中で泥にまみれ ているよりはワイン棚の前に立っている方が彼らしいといえる。デザート担当 のロバーツは工廠兵だった。
「正確な分量を適度に混ぜ合わせ適温で処置するのは工廠での作業と一緒です から」
そう言う彼の焼くシブーストは絶品だ。
様々な経歴の持ち主がそれぞれの持ち味を生かして、店を運営していく。か け離れていると思っていたこの仕事が意外に軍での任務に似ていることにヴィ クトールは驚いた。背筋の真っ直ぐ伸びた男達がきびきびと立ち働く厨房とフ ロアは戦場にたとえてもいい。作戦の目的は料理と酒で客達を楽しませること だ。
うまくいくこともあれば、何もかもがうまくいかない日もある。店を開いた ばかりの頃は元軍人の店に恐れをなして客は寄りつかなかった。店長のヴィク トールの顔の傷が良くない噂のタネにもなった。店が軌道に乗った現在でも従 業員同士の揉め事や殴り合いもしばしばだ。
それでも、問題の多い従業員達を怒鳴りつけ励まし、見守ること。客達とサッ カーの中継に熱くなり、港の漁獲量が多いの少ないのと一喜一憂し、次の選挙 の動向を議論すること。時折訪れる元王立派遣軍の戦友達の話を聞くこと。週 末には広場で安物の赤ワインをあおり、ぐうたら過ごすこと。
そんな日々をヴィクトールは愛していた。

 

そして今日のこのソースの出来映えはどうだ。
待ちかねていた極上のワインも届いた。
磨き上げられた店内には塵一つなく、従業員達の白いシャツには左右の胸に 縦3本ずつ、袖に2本ずつ、背中に横2本縦3本、定規で引いたように真っ直 ぐに折り目がついている。
どこの軍隊でもそうだろうが王立派遣軍で新兵達が最初にたたき込まれるの は、王立派遣軍軍人の心得7箇条の暗記からはじまって、隊歌を6~8曲暗記、 自己紹介等の基礎動作、行進練習、一日中延々と立ったまま銃の掃除、加えて きちんと髭が剃れているか、一日に4~6回の靴磨き、一日三回の部屋、廊下、 トイレの掃除、 吸いがら拾い、中隊舎の掃除、食器磨き、ベット作り、シーツの巻き方、洗濯の仕方、靴紐の結び方、 ロッカーの整理整頓、シャツを床タイ ル二枚分の横幅に畳む等々、およそ生活に関わる全てが管理され厳しくチェッ クされる。
一晩中寝ないでの翌日の衛兵任務の為のアイロンがけも兵士達に課せられた 重要な任務だった。おかげで彼らはその辺の女性よりもアイロンがけが上手い。
出来なければゲンコツがとんでくる、あるいは自分が完璧にできていても相 棒、もしくは他の人間がミスれば連帯責任でゲンコツか「ア・ポジョン・ポン プ」=腕立て伏せの刑である。 50、100回程度なら楽勝だが、腕立て伏せ が趣味の伍長がいると200回はやらされる。
一見馬鹿馬鹿しく思えるが、そうすることで様々な惑星から集まった異なる 文化習慣の人間を軍隊として取りまとめていたのだ。
この店では、さすがにそこまではしない。だから、給仕の白いシャツのアイ ロンの線が曲がっていたり、草臥れたズボンの裾がほつれていることだってあ る。宇宙一規律正しく誇り高いと謳われた王立派遣軍軍人も退役した後はただ の男と変わらない。寝坊もすれば洗濯物を溜め込む日だってある。
だから、今日のように店内全てが整然と整えられ運営されていることは、本 当に稀だと言っていい。
木箱に詰められたワインを地下のセラーに運び込む作業も無事に済んだよう だ。
「嬉しいな、毎年これが楽しみなんだ」
「おい、あれは客に出すために仕入れているんだ。お前達に飲ませるためじゃ ないぞ」
にやけている従業員達にゴーシェが釘を刺す。だが今年もあのワインの幾本 かは彼らの胃袋に消えることだろう。
「さあ、さあ、時間がないぞ。ワインは後の楽しみだ。総員開店の準備にかか れ」
「イエス、サー!」
ヴィクトールの一喝で従業員一同は各々の仕事に取りかかった。

 

昼食時の混雑が片付くと、町中から物音が消える。日差しの強い日中の数時 間、町の人々は土地の習慣に従い昼寝をする。ヴィクトール達も一旦店を閉め、 遅い昼食を取りながら休息をとる。初めてここを訪れたときはなんて暢気な町 だろうと思ったものだが、この習慣に馴染んでしまったらなかなか余所の土地 へは移っていけない。
海辺の町なのに潮の香りのする風は軽く乾燥している。波の音だけが人気の ない町の空気を揺らしている。
「うん、美味い。確かにこれは上出来だ」
エビとムール貝のトマトソースのパスタに各員感嘆の声をあげた。
「どうやって作ったんだったかな?いつもと変わったことはしてないはずなん だが」
ヴィクトールは今朝の自分の手順を思い出そうと腕組みをして考え込んだ。昼 飯に来た客達にもこのパスタの評判は上々だった。
「いつもこれが出来ればいいんだがなあ」
「なかなかそれが出来ないものなんですよ」
ヴィクトールの眉間の皺を見てゴーシェが笑う。
「隊長、これ、この間来た人の事じゃないですか?」
先に食べ終え新聞を読んでいたアミラクヴァリが顔を上げ言った。
「ほら、何年か前に来たでしょう。あのとき言ってた映画ってこれのことでしょうかね?」
示された記事を覗き込むと見覚えのある顔が眼に入った。印刷の悪い白黒の 写真でも男としては整いすぎた美貌が見て取れる。
「ちょっと貸してくれ」
アミラクヴァリがその記事の載ったページだけ寄越した。ヴィクトールはその 主星で行われたもっとも権威のある映画祭の記事に目を通した。

 

「今度映画を撮ろうと思ってさ。出資してくれないかな?」
そう言ってセイランがこの店を訪れて来たのは数年前のことだ。相変わらず 唐突な男だと呆れつつ感心したのを覚えている。聖地で共に過ごしていた頃と ちっとも変わっていなかった。皮肉な笑みも人を食ったような口振りも。何処 であろうと何時になろうとセイランという男は変わらないのだな、そう思った。 「ただとは言わないよ。絵を買って欲しいんだ」
そう言ってセイランは一枚の版画を出してきた。さして大きくない4号サイズ のキャンバスに描かれた、これまた相変わらずな得体の知れない抽象画だった。
「そう言われても俺は絵なんぞ分からんぞ」
「ここのさあ、」
クスッと笑ってセイランは絵の一部を指さした。
「描いてるうちに気がついたんだけど、この二本の線がなんだか誰かの眉毛に 似ててさ。それであなたのことを思いだしたんだ」
「はあ?」
何を言ってるんだとヴィクトールはその二本の線を見つめた。
「八の字のさあ、いっつも困ってるみたいな」
にやにや笑いでセイランは続けた。そう言われてみると……ヴィクトール はある人物の顔を思い浮かべた。
「…………わざわざこんな辺境まで俺をからかいに来たのか?」
「いいや、資金調達に飛び回ってるのさ」
ヴィクトールの渋面にしれっとして言ったセイランも良い根性だが、結局30 万も出して絵を買った自分も自分だ。
「ありがとう。クレジットロールでこの店の名前も出すことにするよ」
絵の処置は好きにしてくれていいよ、人にくれてやろうが質に入れようが構 わない、そう言ってセイランは帰っていった。テイクアウトで持たせたピザは 食べたのだろうか。なんと言っても好きな食べ物が美味しい物で嫌いな食べ物 が不味い物という彼のことだから。
折角買ったのだからと店の壁に飾った絵が、実はその世界では200万をく だらない値打ちの物だと知ったのはずっと後の事だった。店を訪れた目利きの 客が教えてくれた。30万なら譲ってくれたようなものだと。
その段になってようやくヴィクトールはそれが商売に不慣れな自分へのセイ ランからの開店祝い兼支援だったのだと気がついたのだった。高名な芸術家で あるセイランが店を訪れてから客足が増えたのも事実だった。借りを作る形で 返済無用の貸しをくれたのだ。何らかの礼はしなければと思っていたが、それっ きりセイランは姿を現さなかった。まったく小憎い男だ。

 

「相変わらず気炎を上げているようだな」
往年の名コメディアンを主役に据えたセイランの初監督作品は映画祭でのプ レ上映で成功をおさめたらしい。
「ホントにうちの店の名前出してくれたのかなあ」
それだったら彼女と一緒に観に行こう、マルコがそう呟いたのを耳ざとく聞 きつけたロバーツが冷やかした。
「なんだ、やっと口説き落としたのか?相手にされないって先週は泣いてたじゃ ないか」
「なんの話だ?」
ロバーツの言葉に面白がってジョンが首を突っ込む。
「店によく来る赤毛の娘がいるだろ? マルコは彼女に熱をあげてるんだ」
「貴様、任務中に客に色目を使っとるのか!?」
マルコは慌ててロバーツの口を塞いだが遅く、ヴィクトールの怒声が飛んだ。
「いいえ、自分は決してそのような・・・」
「いいじゃないですか。まあ、勝手に酒をサービスして女に貢ぐような真似さ えしなければな」
軽く笑って睨み付けたアミラクヴァリに、ばれていたのか、とマルコは首を 竦めた。
「で? うまくいったのか?」
「はあ、まあ」
照れて頭を掻いたマルコの首根っこをゴーシェが掴んだ。
「来い。腹ごなしだ」
他の連中も一緒になって中庭へ駆け出した。
「勘弁してください、大佐」
「腹の出た元派遣軍兵士など女も相手にしないぞ」
「彼女はか弱いインテリがタイプなんです」
「じゃあ、お前の頭じゃ無理だ。諦めろ」
どっと笑い声がおこった。やれやれ、とアミラクヴァリが新聞を眺めながら 肩を竦めた。
結局木の棒を使っての本格的な銃剣術の組試合が始まったようだ。木の打ち 合わせられる小気味いい音が開け放された窓から響いてきた。自動火器の発達 した現代においても王立派遣軍ではこの古典的な格闘術が戦闘の根幹をなして いる。伝統を重んじる体質のせいばかりではなく、それがきわめて有効な戦法 だからだ。密林でのテロリスト掃討や武装密輸団の隠れ家への突撃の際にヴィ クトールも他の兵士達もそのことは身をもって体験していた。
「店長もやりましょうよ」
「待て、待て、まだ食っとるんだ」
ヴィクトールは慌てて皿のパスタを口に押し込んだ。
「やはり、美味いな」
むう、と唸ってオリーヴの茂る中庭の日差しの中へ出た。

 

組み止めたところで体落としをかけた。ドサリ、とゴーシェの体は埃っぽい 地面に落ちた。わっと二人を取り囲んだ男達が歓声をあげた。
「参りました」
「よし」
ヴィクトールはあがった息を整えながら額の汗を拭った。歴戦を共に戦って きたゴーシェは流石に手強い。膠着状態からようやく一本とれた。
「俺ももう歳だな」
「何を仰いますか」
「いや、もう息が上がる。前線には立てんな」
「まだおやりになるつもりだったんですか?」
マルコが素っ頓狂な声をあげた。
「いや……もう充分だな」
白髪の混じり始めた髪を掻き上げてヴィクトールは笑った。そのうち自分も 若い連中に投げ飛ばされる日が来るんだろう。そう遠くはない未来にだ。簡単 に投げ飛ばされてやるつもりは毛頭ないが。
「おまえ、なに泣いてるんだよ」
誰かの声にみんな一斉に振り返った。庭の隅の石段に座り込んだ青年が眼に涙 を滲ませている。
「あーあ、まただよ」
「どうした、ステファン?」
ヴィクトールの問いに青年は首を左右に振った。
ステファンは他の者と違いさして軍歴は長くなかった。ここへ来たのも半年 ほど前だ。地雷撤去作業中に右足を吹き飛ばされた彼は、軍にいるヴィクトー ルの古い友人に紹介されてここへ来た。身寄りもないという話だった。いつも 厨房の隅で野菜の下拵えなどをしている。二十歳そこそこで片足を失ったこの 青年は時折ひどくナーバスになる。
「また自分は足手まといだとかなんとか言ったらぶっ飛ばすぞ」
一番年齢の近いジョンが彼を小突く。
「何度も言ってんだろ、それは名誉の負傷なんだって。その脚のおかげで何人 かの女や子供が地雷を踏まずにすんだんだろうが」
「名誉なんかじゃない。自分はただのスクラップだ」
ステファンの言葉にジョンの顔色が変わる。
「そゆこと、言うかなー」
マルコがぼやいた。
「よし、体を動かした方がいいみたいだな。おまえも一本やってみろ」
ヴィクトールはステファンとジョンを皆の輪の中心へ出るように言った。と まどい顔を見合わせる二人。
「どうした前へ出ろ」
ヴィクトールの声におずおずと二人は進み出た。
「本気でやれ、いいな」
双方を対峙させ一歩下がると、昔と変わらぬ有無を言わせぬ調子で号令した。
「始め!」
低く腹に響く声に中心の二人だけでなく全員が背筋を伸ばす。
「どうした、その構えは! ステファン、腰が引けてるぞ! ジョン、きょろきょ ろするな!」
「貴様ら軍で何を習ってきた!」
「そんなんじゃ恥ずかしくて元王立派遣軍兵士の名が泣くぞ!」
次々浴びせられる怒声に二人の顔つきが変わってくる。
「そうだ、腰を落として相手をよく見ろ!」
先に組み付いていったのはステファンの方だった。まだ迷いを捨て切れてい なかったジョンは虚を突かれて、体勢を崩す。だがそれも一瞬ですぐに体勢を 立て直す。
「踏ん張れ! 上手を外すな!」
「無闇に突くんじゃない! 何度言ったら分かるんだ!」
ゴーシェも一緒になって檄を飛ばす。その後ろでは他の連中が野次の嵐だ。
「いけー! ジョン」
「ステファン、どうした! やっちまえ!」
「金返せ、馬鹿野郎!」
結局、一本どころか二人が一緒に地べたに転がるまで試合は続けられた。取っ た本数はジョンの方が多かったがステファンもやられっ放しではなかった。
「これでもおまえの体はスクラップか?」
転がったステファンの顔を眺め降ろしてヴィクトールは言った。
「おまえが勇敢だったということはみんなが知っている。その右足がそう教え てくれるんだ。それがスクラップなのか?」
「申し訳ありません」
またステファンは泣き出した。試合のせいで興奮しているのだろう。めそめ そしやがって、とジョンが隣で忌々しそうに呟いた。
三人の後ろではいつの間にか樽ワインを持ち出して他の連中が酒盛りの準備 を始めていた。
「一番安物の樽だけだからな。今日届いたやつに手を出してみろ。軍法会議に かけてやる!」
地下の酒蔵への階段の前でアミラクヴァリが怒鳴り散らしている。
呆気にとられているヴィクトールの手にタンブラーになみなみ注いだ赤ワイ ンが渡された。
「待て!午後の開店まであと一時間も……」
ヴィクトールの声を無視して全員乾杯の体勢に入っている。ステファンとジョ ンも地面に座り込んだままタンブラーを掲げて彼を見上げている。
「………………」
苦虫を噛み潰したような顔でヴィクトールは言った。
「女王陛下と王立派遣軍とステファンの右足に!」
「Cheers!」

 

午後の営業は散々だった。
時間がないのに樽を空にしようとムキになって杯を重ねたものだからみんな ひどく酔っぱらってしまった。午後の開店は五時。酔いを醒ます間もなく店を 開けた。従業員一同はふらつきそうになる足下を元王立派遣軍兵士の意地と誇 りで固めて厨房、フロアに臨んだ。真っ青な顔でトイレへ駆け込むのも何人か いた。 元派遣軍兵士も人の子である。
「まったく情けない」
そう言うゴーシェの顔も少し赤い。アミラクヴァリは赤くならない質だが逆 に真っ白な顔をしている。あれでちゃんとテイスティング出来ているのだろう か? いつも陽気なマルコは普段に輪を掛けた開けっぴろげな明るさで客を遇し ている。
それでも二時間もすれば皆平常の顔色に戻りいつも通りの手際で仕事をこな した。
閉店時間がきて、最後の客を送り出してようやく皆の強張った頬が緩む。
「今日の仕事はきつかったなー」
「俺三回も便所で吐いちまった。客に臭わなかったかな」
「げえ、最低の店だな、ここは」
それぞれ笑ったりげんなりしながら最後の片づけにかかる。
ヴィクトールは奥の事務室に引っ込んで今日の収支を帳簿に書き込む作業に かかった。昼間に開けたワインはどれくらいの損害になるのかと頭の中で勘定 する。供出を一番安物の一樽だけに抑えたアミラクヴァリの手腕は流石だ。
「 ステファンのことは何とかしてやらなければならないな」
事務室の片付けをしているゴシェーにヴィクトールは言った。
「 あんな若いのにずっと野菜の皮を剥かせているわけにもいくまい」
「そうですね」
ゴーシェも思案顔で頷いた。
「義足でも無理をしないで出来るような仕事、か」
ステファンは真面目な青年だが政府の補償機関に紹介された仕事には馴染め なかったという話だ。それで彼の元上官がヴィクトールの元へ紹介してきた。
「奴は神経が細いところがありますからね」
彼は事故以降ひどく情緒が不安定になっていた。無理もない。ヴィクトール 自身にも覚えがあった。自分の体がひしゃげて血を流しているのを見たときの あの衝撃。激痛とそれを上回る冷たい感覚。今だに思い出すと冷や汗が出る。
「まずはステファンの気持ちを確かめることでしょう。職を探すのはそれから だ」
「そうだな」
もしずっとここにいたいというのなら本格的に料理を仕込んでもいい。ステ ファンのような障害を持った人々は宇宙には少なくはない。きっと向いた仕事 が見つかるだろう。二人はそう結論づけた。
「昼間のあれで思い出しましたよ。前に閣下が仰った……」
「なんだ?」
「閣下の傷の話です。その額の傷を優しくて勇敢な傷だと言ってくれた方がい たと」
ゴーシェの言葉にヴィクトールは一瞬言葉を詰まらせた。
「……そんな話をしたことがあったかな」
「ずっと昔です」
ヴィクトールは必死で考えたが思い出せなかった。酔っていたのだろうか。 一体どこまで話したのか。よもや口を滑らせて神にも等しいと言われる立場の あの人の名誉を損なうようなことは言ってはいないだろうか。 ヴィクトールの 内心の焦りを気付いているのかいないのか、ゴーシェは彼には珍しい穏やかな 顔を見せた。
「いまだにお独りなのはそのせいですか?」
「……いや」
ゴーシェの言葉にヴィクトールは首を振った。そんなつもりはない。そんな 大それた事を考えたわけではなかった。
「そんな気にならなかっただけだ」
そんな大それた事を考えたわけではない。いや、当時は考えていたかもしれな い。だが、どちらにせよ同じ事だ。ただ、あの時間は自分の手の中にある宝石 なのだ。ずっと握りしめている。けして手放せない。
「もったいない。あなたに熱を上げる女は数え切れないでしょうに」
「そんな風に言ってくれるのはおまえくらいだ」
笑ったヴィクトールにゴーシェは肩を竦めた。
部屋にノックの音が響いた。
「入れ」
掃除も皆終えた頃だろう。ドアの向こうから現れたのはステファンだった。
「どうした?」
「お話があります」
「丁度いい、今おまえの話をしていたところだ」
ゴーシェがヴィクトールに黙礼して入れ違いに部屋を出ていった。ドアが閉 じられるのを確かめてからステファンは机の前まで進み出ると踵をつけ真っ直 ぐにヴィクトールの前に立った。
「閣下に質問があります」
「なんだ?」
「どうして閣下は前線へお戻りになられたのですか?」
「…………」
唐突な質問に些か困惑してヴィクトールは目の前の青年を見遣った。
「閣下は一度大怪我を負って前線を退かれたと聞きました。その額の傷はその 時のものだと。それから女王試験のために教官として聖地へ赴かれ、試験が終 わった時には元帥府に府されていたのに、どうして前線へお戻りになられたの ですか?」
ステファンの問いは今まで何度もヴィクトールに投げかけられたものだった。 だからヴィクトールは今まで何度も口にしてきた答えを返した。
「自分のやるべき事がそこにあると思ったからだ」
「怖くはありませんでしたか?」
「怖い?」
「一度死にかけたのにまた前線へ戻るのは恐ろしくはなかったのですか?」
「怖かったな」
「でも戻られた?」
「ああ」
ステファンは目の前の英雄と呼ばれた男を食い入るように見つめた。その強 い眼差しに促されるようにヴィクトールは口を開いた。
「怖くて怖くて、逃げ帰りたくなった事は何度もある。だが、これ以上借りを 作るのはイヤだったんだ」
「借り、ですか?」
「そう、借りだ。後ろを向いて逃げ出した途端に、借りが出来るんだ」
守らねばならない人々に、世界に、運命に。そして、自分に。
「どこに逃げても結局は逃げ切れやしない。ツケを払えとどこまでも追って来 るんだ。取り立てに追われて暮らすのはまっぴらだからな」
黙ってヴィクトールの言葉を聞いていたステファンが何か決意したような表 情になった。深く息を吸い、彼は言った。
「短い間ですがお世話になりました」
そういって深々と頭を下げたステファンにヴィクトールは思わず席を立った。
「自分はやはりこの店にはふさわしくありません」
「ステファン……それは……」
「ずっと考えていました。今日やっと決心がついたんです」
「ここをやめてどうするつもりなんだ?」
「地雷撤去作業に戻ります」
ヴィクトールは自分の耳を疑った。この、気の弱い、いつもめそめそと泣い ては他の連中の手を焼かせていた青年が、自分の脚を奪った地雷原に自分から 赴くと言うのだ。
「ずっと、考えていました」
「軍に戻るのか?」
「いえ、この脚では軍には戻れませんから。民間のボランティア組織で現地に 派遣する人間を募集しているんです」
「そうか」
深くヴィクトールは息をついた。
「無理に自分を追いつめることはないんだぞ。生きていく道なんてどこにだっ てある」
「昼間、閣下は自分を勇敢だったと仰いましたね。この脚がその証だと」
ステファンは目線を足下に落とし、言葉を継いだ。
「でも、自分は勇敢ではありませんでした。派遣軍に志願したのもただ食っていくためで」
十五で親と死に別れ民兵組織に入り、すぐにより条件の良い派遣軍に志願し た。ここに所属していれば多少危険な目には遭っても食いっぱぐれることはな いだろうと。地雷原に行かされたときも現地の住民達の生活にさして関心があっ たわけではなかった。彼らを救うためなんて言葉も上っ面だけのものだった。 ただ命令されたから行っただけだ。
そして右足を失った。
「ここで皆さんといるのはとても楽しい。でも自分はここにいる資格はありま せん。皆さんはやるべき事を果たしてここにいるんです。自分は何もしてこな かった。閣下が“もう充分だ”と仰ったときにそれがよく分かりました」
ずっと逃げていたんです。ステファンは言った。
「あそこに戻らなければもうどこへも進めない。それは最初から分かっていた んです。自分の意志であそこにゆかなければ。でも怖かった」
「決心したのか?」
「はい」
その目に迷いがないのを見て取りヴィクトールはもはや自分が彼に言うべき 事は何もないのを悟った。そうか、ともう一度自分に確かめるように呟いた。
「ちょっと、待ってろ」
ステファンを残しヴィクトールは部屋を出た。そして戻ってきたときには二 脚のグラスとあのイーツの赤を持っていた。
「それ……」
「他の奴らには内緒だぞ」
軽い音を立ててコルク栓を引き抜くとヴィクトールはグラスに濃い赤色の液 体を注ぎ込んだ。
「軍法会議にかけられますよ」
「構わん、上官の特権だ」
思わず囁き声になるステファンにヴィクトールは悪戯っぽく笑い掛けた。
「明日俺からみんなに話そう」
「ありがとうございます」
Cheers!
王立派遣軍の伝統に則って二人はグラスを合わせた。

 

暗い店内は今朝同様にきちんと片づけられ、何事もなかったような様子で明 日の開店を待っている。従業員達を帰し、一人残ってヴィクトールはフロアの テーブルの一つに落ち着き瓶に残ったワインを飲んだ。
ステファンの話を聞かせるとゴーシェは、結局ロートルばかりが残りますな、 と苦笑した。まったくだ、赤い液体がグラスの中で揺らめくのを見つめてヴィ クトールは薄く笑った。
今まで何人もの若者達がここを訪れ去っていった。自分の道を見つけられた 者も迷ったまま出ていった者もいる。彼らは自分の戦いを戦っている最中なの だ。
自分は自分の戦いを終えてしまったのだろうか。
20キロ近い背嚢を背負っての砂漠の行軍や、まといつく湿気と虫に悩まされ た密林での作戦行動、一面に広がった芥子の花。山奥の村での井戸掘り作業、 水が出たときは仲間達と抱き合って喜んだ。辺境の原野での延々と続く単調な 道路工事、地平線に沈む巨大な夕陽が世界を真っ赤に染めた。大規模な震災で 炎に包まれた町。市街地で狙撃兵に脅えながら砂袋を積んで作った監視ポスト で迎えた白夜。結局その監視ポストは敵弾を貫通させるお粗末な出来で真夜中 に命辛々逃げ出した。全身を消毒薬で真っ白にされて踏み込んだ疫病の町。シャ トルで間近に見た死にゆく星の姿。
自分はもうあの場所へ戻ることはない。そう自分で決めた。これからは自分 の戦いではなく他の者達の戦いを見守るのだと。
――ねえ、ヴィクトール、
不意にあの声が耳に蘇った。 ゆったりと諭すように語りかけてくる丹念な言 葉。
――私達は力を持っています。大きな力を。けれど、
――直接、誰にも働きかけることは出来ないのですよ。
――私達は見守り、ただ祈るだけです。
――少しでも、より良くあるように。
力があろうと、なかろうと、誰にも誰かを救う事なんて出来やしないのだ。 ただ、祈るだけだ。
より良くあってくれ、と。
ゴーシェがあんな事を言ったから、つい思い出してしまったのだ。あの静か な眼差しを。あんな風に誰かを見守るようになれたらいい。今も彼はあの美しい園から 自分を見ていてくれるのだろうか。
ヴィクトールは深い吐息をついた。
今日はまったく色んな事があった。
最高の出来のパスタソースと古い知り合いの消息を伝える新聞記事。真っ昼 間からの酒盛り。午後の散々な営業。ステファンの決意。
最後の締めがこの極上のワインなら悪くはないじゃないか。もう一口、ワイ ンを口に含んで味わう。明日アミラクヴァリにはなんと言い訳をしようか。
カラン、と戸口につるされた鐘が音を立てた。
閉店の札を出し忘れただろうか? ヴィクトールは立ち上がり戸口から現れた 客に目を向けた。
その人物の深い緑色をした厚手の生地のマントは砂嵐の中を歩いてきたように砂塵にまみれていた。
「今日はもう閉店ですが……」
「あー、すみません、こんな夜遅く」
ゆったりとした少し細い声。その声を聞いてヴィクトールはぼんやりと立ち 尽くした。そんなはずはないと脳が瞬時に打ち消そうとする。けれどフードを 脱いで現れた顔は見覚えのある、少し困ったような……
ヴィクトールはその顔に視線を縫い止められたままなんの言葉も発することも出来なかった。いや、神様の名なら呼んだかもしれない。
神様は気まぐれに、何かの褒美のように完璧な一日を人間に与えたりする。
どうやらそれが今日だったらしい。

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