幸福な結末

「どうぞ」
今日最後の一皿をヴィクトールはテーブルに着いたルヴァの前に置いた。
最高の出来のパスタソース。まるで今日彼に食べて貰うために作ったような 気がしてヴィクトールはおかしな気分だった。
燭台に灯をともすと暗いフロアのこの一角だけが暖かな光に照らし出された。 必要最低限の灯りしか灯さなかった。明るいところでは今の夢のような時間が 破られてしまう気がした。
「守護聖秘蔵のワインには適わないでしょうが」
そう言ってグラスに今朝届いたばかりのワインを注いだ。
ルヴァはフォークを手に取るとゆったりとしたきれいな仕草でパスタを絡め 口に運んだ。
昔、彼の食事の時の姿の良さにヴィクトールはよく見とれたものだ。真っ直 ぐに伸びた背中も長い指の柔らかな動きも。美味しい、と眼を細めて笑う表情 も。
変わらない。もう何年も会っていないのに。
「今日はどうしたんですか?」
「ええ、実はですね、この星系の惑星の調査に来たんですけど……」
ふふ、と小さくルヴァは笑った。
「ゼフェルにね、折角近くまで来たんだからあなたに会ってこいって、次元回 廊に蹴り落とされてしまったんですよ」
「蹴……」
相変わらず過激な愛情表現だ。ぶっきらぼうで不器用な鋼の守護聖は今でも あの調子らしい。
「いつの間に次元回廊の操作法なんて覚えたんでしょうねー、研究院の許可が ないと使用できないはずなんですから、きっと今頃はジュリアスに絞られてる でしょうねぇ」
ヴィクトールを見上げてルヴァは小さくつけ足した。
「あの子には後でお礼を言わなくてはいけません」
胸が疼いた。それを紛らすようにヴィクトールはルヴァに向かい合って座る と自分のグラスにワインを注いだ。
「この近くに遺跡があるんですよ。ご存知だと思いますが」
「ええ、来る途中に見かけました。時間があればゆっくりと見たかったのです けど—-」
ルヴァはグラスを持つヴィクトールの手に目を留めて不意に言葉をきった。
「手袋――」
「え?」
「してないのですね」
ああ、と頷いてヴィクトールは自分の手に眼をやった。
「料理の邪魔になるんでね。もう最近は滅多に……」
ふと、顔を上げたルヴァは不思議な表情をしていた。懐かしむような、愛お しむような、優しい顔。
「そうですか」
柔らかな声で呟くと月の淡い光に浮かび上がった花のように微笑んだ。
吸い込まれるようにヴィクトールは立ち上がりテーブル越しに身を乗り出し て彼の頬に触れた。
全てが夢のような気がした。何度も夢に見た、何度も心に描いた彼がここに、 目の前にいるのが信じられない。触れたルヴァの頬は少しだけヴィクトールの 手より冷たかった。
ルヴァが眼を伏せた。
二人はそっと唇を重ねた。

「砂の匂いがする」
滑らかな頬に頬を擦りつけて耳元に囁いた。微かな香と砂漠の風の匂いがし た。
「町外れの砂地に落ちたんです。遠くに遺跡が見えました。月が……明るく て……」
シャツの中に手を差し入れ肌に触れるとルヴァは息を詰めて声を押し殺した。
「あなたの匂いがする」
腕に力を込めるとルヴァがゆっくりと長い吐息を吐いた。

「おはようございます!」
ドタドタと廊下を歩く足音にヴィクトールは毛布をはねのけて飛び起きた。
「ああ!?」
「あれぇ?」
戸口に間抜け面のマルコが立っている。
「昨夜はお帰りにならなかったんですか?」
休息室の寝台でヴィクトールは未だに眠りを半分ひきづったままの仏頂面で マルコを睨んだ。はだけたシャツはくしゃくしゃで前髪も普段は後ろに撫でつ けている前髪も額に落ちてきている。ゆっくりと首を巡らして部屋に自分しか いないのを知る。
――昨夜は…………
とても幸福な夢を見た気がする。
いや。
夢ではなくて、確か…………
「誰だ、あの赤を開けた奴は!?」
ドアの外からアミラクヴァリの怒鳴り声がとんできた。
「店長! イーツの赤を開けた不届きものがおります!!」
次の瞬間にはアミラクヴァリ自身が声と同時に飛び込んできた。
「ああ、俺だ」
乱れた前髪をぐしゃりと掻き上げてヴィクトールは言った。
「店長が?」
「昨日ステファンと……それから大事な客が来て……」
ず、ずるい、とマルコが恨みがましく言ったのが聞こえたが無視した。
「後で皆に話がある。今は開店の準備をしてくれ」
こんなだらしないなりでは指示を出すのも様にならない。とりあえずヴィク トールは裏庭に回って顔を洗うことにした。ドアの外で様子を見に来たゴーシェ と出くわした。
「大事な客、ですか」
擦れ違いざまにそう言うとゴーシェはふと、笑みを漏らした。深くは考えず、 ああ、とだけ答えた。
水道の蛇口から迸った水はやけに冷たかった。まだ眠りの中にいるような体 に心地いい。いつも寝起きはいい質だが今朝はなんだかぼうっとしている。昨夜の出来事の現実感がないせいだ。
手に感触が残っている。けれどそれはずうっと昔の記憶のような気がした。 砂の匂いも微かな香の香りも、ずっと昔のあの頃の記憶と変わらない。  いつの間に彼が帰ったのか気がつかなかった。本当に彼がここへ来たのかさえ曖昧だ。
今日も天気がいい。店の中から皆の立ち働く音や声が聞こえている。いつもと変わらない朝の情景。ヴィクトールは深く朝の空気を吸った。

結局、終業後全員に上等の赤ワインを振る舞うことになって、少々ヴィクトールは渋い顔だ。どうせ店長持ちですから、とアミラクヴァリは軽く言った。
「どうせ、またステファンが立つときにどんちゃん騒ぎをするつもりだろう が……」
ヴィクトールのぼやきに、ふん、とゴーシェが笑った。
「しっかし、店長閣下もすみに置けないですよねえ」
頬を赤くして上機嫌のマルコがにやにやと近付いてきた。
「なんだ」
じろりと睨め付けてやるが堪えた様子もなくマルコはヴィクトールの隣に陣 取ってやはりにやにやしている。
「またまた~、ついてますよ」
ここ、ここ、と自分の首筋を指差して言う。
「キスマーク」
はっ、と思わず首を押さえるとマルコはへらへらと笑った。傍らでゴーシェ が、ふん、と笑った。
「何を……」
言っとるか!と怒鳴りつけようとして、その声が耳に蘇った。

――よかった。

そう、彼は言ったのだった。
眠るヴィクトールの耳元に口づけて。

――あなたが幸福そうでよかった。

戸口に立ち振り返った顔を覚えている。月明かり、いや、明け方の光だったかもしれない。逆光でよく見えなかったけれど彼は微笑んでいたと思う。
行ってしまう、と思った。もう会うことはないのかもしれないと思った。 けれどヴィクトールは体を起こすことが出来なかった。とろとろと微睡んでいるのが心地よかった。突き放されるようないつもの目覚めとは違って、眠りの浅瀬で夢と現を漂うように彼は目覚めていた。毛布にくるまって何かを大切に抱きしめている夢を見ていた。

時のまにまに、彼は消える。
そうとは思わせもしないで。
「まったく、」
かなわんのだ、あの人には。
ぐい、とグラスのワインを飲み干してヴィクトールは笑った。ゴーシェが次 の一杯をグラスに注ぎ込んでくれた。
苦くて、幸福な味だった。

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