Missing Bird

「なんだ、また留守なのか?」
オスカーは器用に片方の眉だけ眇めてみせた。
「最近週末はいらっしゃらない事が多いんです」
ティムカが申し訳なさそうに言う。
「金曜の晩から出掛けてしまうらしくって……」
どこに行っているんだ?と訊ねたがティムカは首を横に振るだけだった。
「はん」
あの堅物がねえ、とオスカーは肩をすくめた。いくら夜遊びに誘っても来なかったくせに、 一体どこにしけ込んでいるんだか。
土の曜日の朝、精神の教官を訪ねて学芸館へやってきたオスカーは目当ての人物が留守と 聞いてちょっとばかり気が抜けてしまった。
久しぶりに手合わせ願おうと思ったのに、これではいつもと立場が逆だ。
そこへ出掛けるところなのかセイランが 戸口へと出てきた。
よお、と声をかけると珍しいことにセイランはにこやかにオスカー様、と挨拶を返してきた。
「丁度良かった、人手が欲しいと思ってたんだ」
なんだか今週はついてないような気がする。残念なことにこういう類の勘はよく当たるものだ。

「こんなに、沢山、溜め込むことは、ないだろうが」
抱えた本の尋常ではない量に、さすがに息が切れてオスカーは前を歩くセイランに文句をつけた。
「仕方ないよ、全部必要だったんだ」
しれっとして言うセイランも厚い古書を何冊も抱えている。セイランの気取って見えるくせに 実際は活動的で忌憚のないところがオスカーは気に入っている。これで性別の問題さえなければ 理想の相手なのだがと思うこともしばしばだ。汗をかきながら二人は王立図書館のエントランスの階段を昇った。
「ここに置けばいいのか?」
図書館の職員が示す机にオスカーは本を降ろした。体力には自信のあるオスカーだがさすがにくたびれた。
「そっちの本は一緒にしないでくれるかな」
幾冊かを選り分けてセイランはオスカーの手に渡した。
「こっちはルヴァ様に借りた本だから。ついでだからルヴァ様の邸へ返しに行こうと思うんだけど?」
オスカー様?と上目遣いで言われてオスカーは肩を竦めた。
「オーケー、ここまで来たんだ。ルヴァの家ならさして距離はないしな」
行けば人の好い地の守護聖はいつものようにお茶の一杯も飲ませてくれるだろう。 予定がなくなってしまった休日にそれはそれでいいかとオスカーは図書館からほど近いルヴァの邸へ足を向けた。

「ああ、いらっしゃい。」
にっこりといつものように人の好い笑顔でルヴァは二人を迎え入れた。
休日の午前中のことで、ルヴァはいつもの執務用の服ではなくゆったりとした薄い木綿の長衣を 身につけていた。ターバンの下の髪が湿っているのに気がついてオスカーは何か違和感を覚えた。 湯を使った後なのだろう。すこし顔が上気している。何となくその顔に目を引かれてオスカーはついまじまじとルヴァを 見つめた。
「そうですか、わざわざ済みませんねえ。重たかったでしょう?」
簡潔に用件を述べたセイランにルヴァはゆったりと微笑んだ。
「先に言って下されば馬車を出したんですがねー、ああ、あがって下さい。お茶をお出ししましょう」
そう言って二人を風通しの良い明るい奥の間へと案内するルヴァの耳の後ろの首筋にうっすらと赤い痕を 見つけてオスカーはぎょっとした。
別段珍しいことではない。
自分のような男にとっては。
だが、ルヴァとなると話は別だった。色気めいたこととは無縁の、修道僧のように身を慎み、知恵と知識の蒐集に 全てを捧げている年長の守護聖。少なくとも自分にとってルヴァはそういう人物だった。
「オスカーが私の私邸にいらっしゃるのは随分と久しぶりじゃないですかー?」
「え……あ、そ、そうだったかな……」
振り返ったルヴァにオスカーは自分でもおかしなくらい狼狽してしどろもどろで答えた。
「そうですよー。昔は頻繁にとは言いませんが、それでもちょくちょく来てくださっていたでしょう」
ルヴァはオスカーの動揺に気付かない様子でおっとりと言った。
「あなたも昔は今のゼフェルくらいの感じで……」
過去の記憶を辿っているらしくルヴァは中空に視線を泳がせた。どうしてもその首筋に眼がいってしまって オスカーは彼にしては珍しく居たたまれない気分を味わった。 横を歩くセイランを見遣ると澄ました顔で こちらには見向きもしない。
二人は邸の奥へ通された。いつも他の守護聖達と共にお茶を飲む窓の大きな部屋だ。
「またお借りしたい本があるんですけど」
早々に出された湯飲みを干してセイランが言った。
「ああ、構いませんよー。書庫へご案内しましょう」
「いえ、僕一人でも探せますからルヴァ様はオスカー様の相手をしてやって下さい」
こき使われて機嫌が悪いんですよ、クスリと笑ってセイランは立ち上がった。 いつの間にこんなにルヴァと親しくなったのだろう。
「どうぞー」
ルヴァの白い手が新しく煎れ直したティーカップをオスカーの前に置く。
そういえば、随分久しぶりだったような気がする。こんな風にルヴァとテーブルを挟んで時を過ごすのは。
昔、聖地に来たばかりの頃は時折ここを訪れていた。先輩守護聖の中でもなぜかルヴァだけは気安い感じがして、 聖地での生活を息苦しく感じたり、責任の重さに気が張って眠れなくなった時に訪れると 当然のようにルヴァは自分を招き入れて、こうして温かくて良い香りのするお茶で迎えてくれた。
今よりも少し頬の線が柔らかで、年寄りじみた言動のわりに稚い瞳をしていたルヴァ。
そうだ、先輩と言ってもあの頃はルヴァもまだ新参の守護聖の一人で。
――私のことはルヴァと、そう呼んで下さい。
はにかんだ不器用な微笑みでそう言った。
その後、すぐにリュミエールが新しく水の守護聖としてやって来てルヴァと仲良くなって、 自分はジュリアスに心酔して信頼も得られて、それでだんだん足が遠のいた。もともと話が合うような相手ではなかった。年齢も離れている。
ほんの一時、自分が聖地に馴染むまでの間の親交だった。
あの頃、一体自分たちはどんな会話をしていたのだろう。もう思い出せない。
「どうしたんですか?難しい顔をして」
小首を傾げてルヴァが言う。その仕草にドキリとする。表情が艶めいている。昨夜の名残というやつか……。 どこの女だ、この朴念仁にこんな顔をさせてるのは。
「あんた、あんた、なあ……」
バリバリとオスカーは頭を掻きむしった。
「そんなに掻きむしると禿げますよー」
ハゲってか、この俺に!
「あんたこそ年がら年中そんなもん頭に巻いてると蒸れて禿げるぞ。まだ、髪濡れてるだろう」
「あ、あー……、今日は人が訪ねてくるとは思っていなかったものですから、のんびり湯に浸かってしまってー」
取り繕うことも知らない無防備な人。こういう人の首筋に跡なんて残しちゃいけない。相手の気遣いのなさに オスカーは少し腹立たしさを感じる。
自分が忠告してやるべきなのか?
それもなんだかなあ……。
いつもみたいな襟の高い服なら隠れるだろうに。
オスカーは猛烈に自分が不運な気がしてきた。この人の首筋に、こんなもの、見たくなかった。
ルヴァは湿った髪を気にしてしきりに前髪をいじっている。
――ああ、そうか。
あのターバンの中身を目にした人間がいるわけだ。
実はすごい絶壁、とか。こうして見るかぎりでは頭の形はきれいだけれど。
「ちゃんと乾かした方がいいぞ」
無意識にオスカーはルヴァの頭に腕を伸ばした。後頭部から指を潜り込ませて湿った髪に触れる。 ひんやりした感触を確かめながら水気を取るようにターバンの中を指をまさぐらせた。
「あ、あのぉー、オスカー……?」
絶壁ではないらしい。
「オスカー様、探し人がいましたよ—–っと」
ドアを開けて現れたセイランが気まずそうに言葉を途切らせた。
「ん――?」
セイランの後ろに立っているのは自分が先ほど訪ねていった精神の教官で、なぜか彼は剣呑な空気を纏っていた。
「こんにちは、オスカー様。私に何か御用ですか?」
「あ、ああ。いや。」
犬歯を剥き出した獰猛な笑みに、おずおずと腕をひっこめる。
「今日は、いい。また今度、な」
そう言ってルヴァから離れたのは本能だった。
空気は読める。ニュアンスも分かる。
だけど。
なぜ?

「だから、ヴィクトールがいると思ったから丁度良いと思ってあなたを一緒に連れていったんじゃないか」
無言。
「オリヴィエ様とかゼフェル様は気づいてるよ」
無言。
「ほぼ毎週、通ってるしね。女王候補達より熱心だって」
無言。
「あなた、聖地きってのプレイボーイを自認している割には察しが悪いんだねぇ」
だって、あの、ルヴァ、が。
ルヴァ、が。
「謎だ……どうやったらあの堅物と朴念仁が」
「知らないよ。そういう者同士で気が合ったんじゃないの」
白くて細い指のルヴァが。
いつも温かいお茶を煎れてくれたルヴァが。
柔らかな笑みを浮かべて自分を迎え入れてくれたルヴァが。
当然みたいにそこにあったものが、いつまでもそこにあるなんて、うっかり……。
「あ゛ーーーーーーーーーーーーーっっ!!!」
オスカーは頭を抱えて吠えた。
「うるさいなあ、もお」
近くの林から驚いた鳥達がばたばたと飛び立った。

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