マルキ

「お前は伊豆に行って静岡三島沼津を周り県庁市役所郵便局と歩いて、それから韮山で民家七件に立ち寄り駐在所に行って駐在と話をした」
もう何度言ったかしれない道程を口にする。あんまり何度も口にしたので最早その道筋すら自分の辿った跡のように目に浮かべることが出来る。一度だって通ったことのない道でさえ自分の中に想像のその道が出来あがっていた。
「それから蓮台寺温泉へ行って一泊し、翌日は下田をぶらぶらして本屋で万引きをして逃げ、温泉に戻り民家の納屋から荒縄を盗み出し—-」
笑っていやがる。
「夜までお吉ヶ淵で過ごし、暗くなってから近くの露天風呂に忍び込んだ。露天風呂には入浴中の被害者がいた。いただろう、裸の女が」
何も映さない濁った目が自分の方へ向けられている。それだけで腹の底で嫌悪感が蜷局を巻く。口元に薄い笑いを張り付かせたままそいつは自分の声など聞こえないかのようにただ石のように座っている。
「お前は裸の女の首に荒縄を巻き付け締め上げた。」
笑っている。
「いい加減にしろ!お前がやったと言っただろう!!」
力任せに殴りつけた。椅子ごと横様に倒れ込んだのを立ち上がって腹を、背を蹴り上げた。
「お前が殺したんだ、この変態野郎!!自分のことも分からねえのか!!お前がやったんだ、お前がやったんだ、お前がやったんだ!!」
そいつは床で青白い芋虫のように身体を丸めて呻き声をあげた。生物的な怯えだけが辛うじてその目に光を与えている。その光がますます自分を逆上させる。嫌らしい生き物。こんな奴、こんな奴、こんな奴——–
「ザキさん」
太田が制止に入った。
「あんまりやりすぎないようにと—-」
なんだ、有馬の耄碌爺が言ったのか。それとも上の連中か、接待とかぬかして酒を飲んで大騒ぎすることしか脳のない連中がッ—最近は新聞や世論が煩いって—?知ったことか、戦争に負けて掌返しやがって、あいつらに何かを批判する資格なんてあるものか、どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがる。都合の良いことばかり、忘れた振りしやがって、自分のやったことだろう、ああ?
踏みつけると芋虫は獣みたいな声をあげた。
「少し休みましょう」
太田に腕を掴まれて緒崎は取調室を出た。

 

 

「まずいよ、緒崎さんの方が先にまいりそうだ」
給湯室で自分で茶を煎れながら若い同僚相手に太田は漏らした。
無理ないよ、同年代の同僚は溜息をつき頷いた。
「俺だってあいつを見ているとムカムカする。へらへら笑っている顔をぶん殴ってやりたくなる。緒崎さんがああだから、かえって冷静でいられるようなもんだ」
同僚の言葉はそのまま太田の気持ちをも表していた。
「だけどちょっと緒崎さんの切れ方も普通じゃない」
「嫌いなんだろ、ああいうのが」
「俺はあれ以上締め上げても無駄だと思うんだよ。どう考えたってあれはイカレちまってる」
トン、と自分のこめかみを人差し指で突いて太田は言った。殴ったって蹴ったってなんの答えも引き出せはしないだろう。なのに緒崎は執拗に被疑者を痛めつける。時々弱い者虐めをしているようで、そんな気分にさせられるのがまた不快なのだ。気が重い。
「さっさと送検してしまえばいいんだ」
窓の外からまたあの音が聞こえている。
「うるせえなあ、もう!」
苛々と同僚が毒づいた。本当に煩い。この数日間。あのなんだか得体の知れない宗教の連中。あの被疑者。
「早く有馬さん達が韮山から帰ってきて欲しいよ」
太田は弱音を吐いた。

 

 

緒崎君、疲れているんだろう、少し外の空気を吸った方がいいんじゃないか。
そんな言葉で上司は緒崎を無意味な聞き込みに駆り出した。何を聞けと言うのだ、もう誰もが証言している。あいつがやったのだ。あいつに吐かせれば全てすむことだ。一度は自供したのだから。
—多分僕がやった。やった僕は逃げていった。
そうだ、奴は逃げているんだ。人殺しのくせに。反吐が出る。絶対に贖わせてやる。あいつのやったことに見合うだけの罰を与えるのだ。
「ザキさん」
太田の声に顔を上げる。気がつけば足先ばかりを睨み付けて歩いている。緒崎は自分を落ち着かせるように深く息をついた。何の収穫もなかった一日。報告を済ませた二人は帰り支度をして署を出た。
「夜になるとまだ涼しいですね。昼間はもう暑いくらいなのに。早く帰って一風呂浴びたいですよ」
太田が空を見上げて言った。暗い空には歪な月が見えた。
それでも外回りの方がましだと、内心太田が思っていることは分かった。取り調べがこの若い刑事には憂鬱な作業になっていることも分かっている。だが—-
「太田、お前先に帰れ」
ぶっきらぼうに緒崎は言った。
「なんですか?」
「俺はあいつの様子を見てから帰るよ」
「こんな時間にですか?いい加減にしましょうよ。本部からも人が来てるんだから、問題起こすと面倒だ」
「取り調べする訳じゃねえよ。様子を見るだけだ。本当にイカレてるか確かめたいんだ」
太田は肩を竦めると、じゃあお疲れさまですと言って背を向けた。
緒崎は侘びしい蛍光灯の灯りの中を引き返した。

 

 

留置場の廊下は暗かった。
饐えたような匂いがする。自分の足音がいやに響く。消灯の時間にはまだ早い。だが、他の容疑者達から離されたその独房の前の廊下には灯りは灯っていなかった。刺激しないように、という配慮だという。署の他の連中はあの男に同情的だと思う。精神鑑定が必要だ?冗談じゃない。狂いだろうが正気だろうがしでかしたことには責任をとるべきだ。
緒崎は暗い独房に目を凝らした。
人の気配を感じ取る。徐々に目が暗がりに慣れ独房の小さな窓から漏れる月明かりに床に座り込んだ人間の影が浮かび上がってきた。昼間の生温い空気をコンクリートの床から冷気がひたひたと侵している。男の息遣いを肌で感じた。
どのくらいそうしていたのか、気配の動きに緒崎は気がついた。
男が顔をこちらに向けていた。表情は見えない。僅かに光を反射する両の目が確認できた。
「—–木場、かい?」
掠れたか細い声で男は呼んだ。か細いが僅かに張りのある声だった。取調室では聞いたことのない声音。
「僕たちは……捕虜になったのかな—-」
自分を誰かと勘違いしているのか。緒崎は黙って男を見続けた。何か重要な言葉を吐くかもしれない。
「生き恥を晒すよりは、と……それなのに、僕は自決する勇気もなかったのだな」
小さな吐息。自嘲か。
「見捨てても構わなかったのに…」
声がくぐもった。すまない、と男は詫びた。
「僕が一番死ぬべき人間だったんだろう。だのに……みんなにすまない」
小さな吐息。空気が揺れる。
「——–」
声を出そうとして、緒崎は大きく息をついた。腹の底で蜷局を巻いた塊が迫り上がって喉元を塞いでいた。
「死ねばよかったんだ。いっそ—-」
囁くように男は言った。
「僕を殺してくれないか—–?」
男の床に着いた手の青白さが目を射た。頭がガンガンする。緒崎は鉄扉が自分と男を隔てていることを感謝した。そうでなければ自分は——
荒い息をついて緒崎はきびすを返した。
独房の小さな窓に鈍く光る、鉛玉のような月が見えた。

 

 

その青白い青年は緒崎の小隊に配属されてきた。
腑抜けた野郎だった。突撃を前に人なんて殺せないと言った。
緒崎は事あるごとに彼を殴りつけ罵った。お前のような奴がいるとそれだけで志気が下がる。
いつもびくびくと人の顔色を窺うような目つきが気に入らない。はっきりしない口調が苛つかせる。訓練中ももたもたして使い物にならぬ。
湿気と暑さで隊全体がまいっていた。
緒崎の苛立ちはすぐに伝染した。
誰もが彼にあたるようになった。私刑紛いの体罰が行われた。緒崎が率先したわけではない。緒崎は自分の考えで自分の責任において彼を怒鳴りつけ制裁しただけだ。
厭な空気が隊内に流れていた。
ある晩緒崎は数人の兵達が彼を暴行しているのを目にした。だが、ただの暴行ではなかった。兵達は彼を女のように嬲っていた。
何をしているのかと怒鳴りつけた緒崎に兵達は笑った。
なにを今更、あんただってこいつが気に入らないんでしょう。役立たずにただ飯を食わせてやれるような余裕は我々にはないんだ。あなたが始めたことじゃあないですか。
憎々しく彼らは言った。
頭がガンガンした。
どうしてそんな事になったのか、緒崎には分からない。
自分は自分の責任に於いて—-けれど彼らは彼らのしたことの責任すら緒崎にあると言うのだ。
自分の行動が彼らを煽ったのだと。それはそうだろう。けれどそれは緒崎が責任を取らねばならないことだろうか?こんな歪な形の悪意を招いたのは自分なのか?
違うと思いたかった。緒崎は足掻いた。
翌日緒崎は彼に捕虜の処刑をさせた。
泣いて許しを請う彼に無理矢理引き金を引かせた。
彼のためだと緒崎は思っていた。
少しは役に立ってみせろ。そうすれば見直されるだろう。お前を淫売のようには扱わなくなる。あいつらは下等な人種だから殺したって構わないんだ。
出来ません。出来ません。許して下さい。
そんなに厭ならなんで戦場に来た。徴兵を拒否する勇気もなく、戦うのも厭だと、勝手なことをぬかしやがって。お前がやらなければ他の誰かがやらねばならないんだぞ。誰かを自分の身代わりにさせたいのか。そうやって自分だけ逃げているつもりか、卑怯者め。そんな勝手が許されるものか。そうやって自分の弱さを盾にして厭なことを他人に押しつけて。貴様は自分の手を汚さずにいたいだけだ。そして代わりに俺や他の奴らに手を汚させているんだ。誰が人など殺したいものか。俺達が傷つかないとでも思っているのか。俺は許さない。やれ、でなければ今ここで貴様を処刑してやる。

その夜、彼は自殺した。

 

 

「緒崎さん—-!!」
太田の絶叫が鼓膜を打った。
床に男が倒れていた。
見開かれた眼球に血管が浮いていた。奇妙な形で開かれた口は硬直したように動かず端から血が流れていた。
手に掴んだパイプ椅子の脚に男の血がこびりついていた。
太田が廊下に向かって叫んでいる。
「誰か来てくれ、誰か——!!」
男の死体が転がっている。殴ったときの鈍い感触が手に残っていた。
勃起していた。
反吐が出た。

 

 

 

男は釈放された。
真犯人が自首してきたのだ。
美人の奥さんが迎えに来ましたよ、そう太田が言った。
緒崎が殴った傷は幸い大したことがなかったらしい。床に転がった男は死体にしか見えなかったが軽い脳震盪ですんだということだった。
彼は生きていた。
よかったと思う。

俺が傷つかないとでも思っているのか—–

死体に向かってそう緒崎は叫んでいた。
自分は傷ついていたのかと緒崎は思う。
自分が痛めつけ殺した男は生きていた。
よかったと思う。
見上げた空には鉛玉の月が鈍く輝いていた。
暑くなる前のささやかな冷気を緒崎は吸い込んだ。

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