戸棚の中

背中がざりざりする。
擦れて落ちた壁土が足下に積もっていて足の裏もざらざらする。
日がな一日ぼんやりとこの部屋で過ごしている。障子越しの光の中の白や黒や灰色や、その中にある白や黒や灰色、その中にある白や黒や灰色、その無限の色調、そんなものを目で辿っているといつの間にか次の日が始まっている。
部屋の壁は淡い緑色をしている。緑と白と和紙の繊維、ぴかぴか光る金属箔とかが混ざった土壁塗りで衣服が擦れると細かい砂がぱらぱら落ちてくる。 細長い金属箔は青い。床に落ちているそれを摘んで捻ると変な具合に光が反射する。もっと長いのが欲しくて壁に塗り込まれた金属箔を指でほじって引っ張る。するとそれは思ったよりも深く壁土に塗り込められていて土壁の欠片が剥がれて落ちてくる。欠片を拾って元のようにくっつけようとするのだけれどくっつかない。
嫌な気分になる。
取り返しがつかない。
この壁のここにはもうずっとこれから先は穴が開いたままなのだ。
そういうのはなんだかとても嫌な気分だ。
痛いような、気味の悪いような。
だから壁のことは考えないことにする。
この部屋の壁にはそうやって出来た穴が幾つもある。
向き直って壁に背をもたせかける。他のことを考えよう。
部屋には卓袱台と戸棚がある。嫁入りの時に祖父から贈られたものだそうだ。卓には見慣れたいくつかの傷。桜の木材から出来ているという戸棚はずっしりと頑丈そうで赤みを帯びた落ち着いた色合いをしている。
戸棚の中にはあの子がいる。
隠れているのだ。
だから誰も戸棚に近づかないように見張っていなくてはいけない。
時折、障子の向こうを人の気配が通り過ぎる。慌てて顔を俯けて息を殺してじっと通り過ぎるのを待つ。
ここには誰もいない。だから誰も障子を開けないでくれ。
気配が行ってしまうと漸く呼吸が楽になる。戸棚の中のあの子もほっとしているのが分かる。
大丈夫、誰も来ないよ。
戸棚に頬を擦り寄せてそっと囁きかけてやる。

 

桜の木は自分が戸棚になったことを知っているのだろうか。
今でも春になれば花を咲かせる夢を見ているのかもしれない。

 

 

ある日、障子の向こうからざっざっと乾いた音が聞こえてきた。
いつものように蹲ったまま膝に額をくっつけて息を殺しながら耳を澄ましてその音の正体を探る。
何かを引きずるような、かさかさいうのは木の葉や枯れ草だろうか。堅い小枝の擦れるような音も混じっている。砂利を踏む人間の気配。
知っている音だ。なんだったろう?
知っている誰かの事を思い出す。
秋になるとあの人は庭で。
ああ——-竹箒。
誰かが庭を掃いている。
息を潜めて壁際に体を縮こまらせているとやがて音はやんで、誰かは行ってしまった。

 

畳に耳をくっつけて寝転がって地面の音を聞きながら秋の木の葉の色を思い出していた。
黄色、赤、橙、黄土、茶。
手の中でこわれる、くしゃくしゃ、葉脈、繊維。小さな欠片。粉々。
秋になるとあの人は庭で。
戸棚の中であの子が震えている。
どうしたんだい?
戸棚に額をくっつけて訊ねる。
あの子は何も言わない。

 

泣かなくてもいいんだよ。悲しい事なんてなにもないよ。
そういって宥めてやるのだけれど、あの子はただ震えているばかりだ。

 

 

歯切れのいい調子が耳に飛び込んできてとても驚いた。寝転がったままうたた寝してしまっていた。
地面を掃く箒の音。ざっざっざっと随分せっかちに扱う。
畳の上に身を伏せたままじっと外の気配に耳を澄ます。手足を投げ出したままだからなんだか心許ないけれど身動きしてこちらの気配を悟られたくないからそのままの格好でいなくてはいけない。
せっかちなくせに随分丁寧に隅々まで掃いているみたいだ。
早く行っちまえ。
目を閉じて念じ続ける。
音が止む頃には強張らせていた体が痛くなっていた。

 

また箒の音がする。
やって来て、庭を掃いては帰ってゆく。どうやらその人物は障子の内側に関心は持っていないようだ。
そう感じて俯いて目を閉じているのをやめた。息を殺したままそっと障子に映る人影を見つめている。
直線ばかりの障子の影の上に人の影が動く。音と影の動きが連動しているのが面白い。音に操られて影が動いているような気もする。
音の調子が変わるとどきりとする。影の動きも変わる。また単調な動きを繰り返す。
大丈夫なようだ。
あれは障子に映るただの幻灯なのだ。
この部屋の中で唯一動くものはその影だけだったので、だんだんその幻灯を眺めるのが楽しみになっていた。
でも見なくても構わない。あの子は幻灯が怖いみたいだ。
可笑しいね、あんなものを怖がるなんて。白い障子紙のうすぼんやりした影じゃないか。あの影は何処から来るのかな。いつも障子の端からするりと障子紙の上にのる。そしてまた端から消える。障子紙が途切れたその向こうには何があるのだろう。

 

そんなことを考えていたから油断してしまったのだ。
いつものように障子の上の影を眺めながら、ふっと息をついてしまった。
影の動きがぴたりと止まった。
血の気が引いた。息を止めてぎゅうっと体を縮こまらせたけれど手遅れだ。
ああ、どうしよう。ここには誰もいない。誰もいない。誰もいない。
必死でそう心の中で唱えた。
永遠のような長い時間が過ぎた。
影はまた箒で庭を掃き始めた。
いつものように音を立てて小気味よく。
気がつかなかったのだろうか?だったらいいのに。だが、あの瞬間に動きが止まった、あれは偶然ではないだろう。きっと自分の吐息が聞こえたのだ。でも気のせいだと思ったかもしれない。とても長い時間、動きを止めていたように思ったけれどほんの一瞬だったのかもしれない。体を強張らせたままいったい幾つ自分は心臓の音を数えたのだったか。
きっと気がついてはいない。でも本当にそうだろうか。
不安にかられて戸棚に目をやる。
ごめんよ、油断してしまったんだ。
影の向こうに人がいることを忘れてしまっていたんだ。

 

人の家の庭先を掃いてゆくのは一体どんな変人なんだろう?
相変わらずその人物は庭を掃いては帰ってゆく。こちらの存在に気がつかなかったのか、関心がないのか。最近は気を使うのも面倒になって平気で彼が来ている時にも畳の上で転がって伸びをしたり障子の近くに寄って壁に耳をくっつけて外の音を聞いていたりする。
日によって音の調子が違うことにも気がついた。忙しなくきびきびと足音を響かせる日。草履を引きずりながらのんびりと箒を扱っている日。庭の隅に生えた雑草の芽を細々と摘んでる日。
ある日、障子の傍で壁に凭れながら外の気配を伺っていると、彼が掃除の手を休めてこちらに近づいてきた。
突然のことに身動きも出来ずに壁に貼り付いて固まってしまった。彼は縁側に腰を下ろすとゆったりと息をついた。
「いい天気だよ。」
独り言のように彼は言った。
イイテンキダヨ イイテンキダヨ イイテンキダヨ イイテンキダヨ
何度もその言葉を頭の中で反芻した。初めて聞いた声。
どきどきして眩暈がした。
彼が立ち去った後もその声が頭の中で繰り返し繰り返し響いて目が回った。
畳の上に転がったまま何度もその言葉を自分で言ってみた。
自分の口から出てくるその言葉は全然違う声で、でも大切に何度も呟いた。

 

自分はどうにかなってしまったんだと思う。
彼が来ない日は一日中畳の上に転がったまま彼の声を反芻している。まるで熱病にかかってしまったみたいだ。
彼の声はこの小さな部屋には大きすぎるのだ。あれから時折、彼は縁側に腰掛けて誰にともなく言葉をこぼしてゆくようになった。だから彼の声を聞くために障子の傍らで待っている。その声を聞くと自分は彼の言葉にすっかり支配されてしまう。
最初、彼は音だった。
それから影になり、声になった。
声は言葉だった。
言葉は指向性を持って否応もなしに自分を巻きつけようとする。そして自分は熱に浮かされたようになって繰り返しその言葉を呟くのだ。
こんな事は今までなかった。障子をぴったりと閉じていれば安心だと思っていたのに。
怖くなって少し泣いた。

 

 

部屋はもう充分に安全な場所とはいえなくなっていた。
不安で悔しくて部屋中をうろうろと歩き回った。
どうしたらいいのかまったく分からない。
あの子を見つけられてしまったらどうしよう。どこか他の所へ行ってしまった方がいいのかもしれない。もっと安全な場所へ連れて行かなくては。
けれど彼の声が聞きたいのだ。
あの影の動きを見つめ、あの声を聞きたい。言葉が欲しい。
心が引き裂かれそうになる。

 

呆然として障子の前に座っていた。
泣いて胸を掻きむしり畳に額を擦りつけて、それでもどうにもならない事が分かってしまってもう為す術がない。いっそ障子を開いてみようか。嘘だ。そんな勇気はない。ああ、だけど見てみたくはないか。庭先を掃いてゆくのはどんな人間なんだ。一体彼は何なのだ。だけど本当に向こう側に誰かいるのだろうか。やっぱりあれは障子に映るただの影なのかもしれないじゃないか。
砂利を踏む音が聞こえた。
彼の影が障子に映る。
庭を掃く音が聞こえはじめる。
くらくらする。つらい。
頭を抱えてきつく目を閉じた。涙が溢れてきてぽたぽた畳の上に落ちた。あんなにたくさん泣いたのに、ぜんぜん違うところから涌きだしてきたみたいに新鮮な涙だった。こんな水が自分のどこに仕舞われていたのだろう。不思議だ。
箒の音を聞きながら泣いていた。ガサガサと神経が削られていくような気がする。
ふと、音が止んだ。
小さな溜息が聞こえた。
「どうして泣くんだい?」

 

声がした。
彼の声だ。
新しく貰った言葉を私は頭の中で反芻した。泣きながら、それでもやっぱり嬉しい。 「君、」
もう一つ、今日は言葉がたくさん貰える。
「どうしていつも黙っているんだい?」
足音がして、影が濃くなる。
「ここを開けてくれないか?」
すぐそこで声がして驚いた。障子紙一枚を隔ててすぐそこに彼が居るのだ。膝を抱えたまま惚けていると少し焦れたように声が尖る。
「君に言っているんだよ。」
周囲を見回してみる。誰もいない。戸棚の中にあの子がいるだけだ。でもあの子が返事をするはずがない。
「君だよ。」
重ねて言われて困惑した。
「今、そこにいる、泣いている君だ。」
首を傾げて影を見返した。
黙ったままじっとしていた。そうしていたらまた彼が何か言うだろうと思った。今のままでは手掛かりが少なすぎて自分はどうしたらいいのか分からない。
だのに、聞こえてきたのは重い溜息だけだった。
彼はそれきり口を利かずに障子の上から姿を消した。

 

—-かれをへやにまねきいれておちゃをいれてあげよう。そしてどうしていつもにわをはいてゆくのかきこう。それから、それから…………
色んな事を想像していた。実行されるわけがない色んな事。今まで何度も何度も。そんな事が起きるわけがないと知っていて、何度も何度も考えた事。
実現されることがないから安心して考えていられたのだ。
なのに、彼が来ない。あれ以来、彼は障子の上に現れないのだ。
もう、絶対に、実現されない。
たくさん泣いた。
泣きながら腹が立って、また泣いた。
あんなに近くに来ておいて、何にも言わないで行ってしまうなんてひどい。
一生懸命考えていたのに、どうしてもう言葉をくれなかったのだろう。あれっぽっちで溜息をついて立ち去るなんて、なんて気が短いんだ。だいたい、人の庭先へやって来ては竹箒で掃いてゆくなんて、そもそも一体全体、彼はどういう変人なんだ。
そんな変な奴のためにこんなに泣いて目が溶けてしまいそうなのだ。
本当に腹が立った。

 

いつの間にこんなに泣くようになってしまったのだろう。あの子が不安がっている。
大丈夫、大丈夫だよ。
そう言い聞かせるけれど、もう全然大丈夫じゃない。
この部屋の壁は穴だらけで、桜の木は戸棚になってしまってもう花なんか咲かないのだ。
今まで自分が何を見ていたのか、もうよく分からない。
自分はただ、ぽつりと畳の上に座っている。

 

雨の音が聞こえる。
さらさら、さらさら。
木の葉の上を叩いて地面にこぼれ落ちる水の音。
雨の日は好きだ。
響く音がいつもよりずっと優しい。空気の匂いも柔らかくて肌にしっとりと馴染む。畳の上で丸くなって目をつぶっている。瞼に遮られているはずなのに目の前の光景が見えるような気がする。息を止めてもちっとも苦しくなくて水の中にいるみたいな気持ちになった。
ぴちゃぴちゃと地面を叩く雨の音に混じって微かに砂利の音が聞こえた。
どきりとして目を開いた。急に息苦しくなる。
彼の足音じゃないだろうか。
こんな雨なのにまた庭を掃きに来たのだろうか。

 

灰色のぼんやりした影が障子の上を滑る。
間違いない。細い胴や肩の張り具合、いつの間にか見慣れて網膜に焼き付けられてしまった形だった。
心臓が止まるかと思った。
彼が来た。
もう来ないと思っていたのに。
あの子にもそう言ってしまったのに。
どうしよう。あの子が怒る。
それに大体、今更現れるなんてちょっと、なんていうか、そう、非常識だ。
障子に背を向けて寝転がっていた体を起こして彼の方を向いた。止まりかけた心臓が喉元まで跳ね上がってそのまま口から出たがっているみたいにドンドン胸を叩く。ちょっと待ってくれ。心臓の要求を聞きながら彼を見ているのはなかなか大変だ。だのに彼はこちらの事情などお構いなしに真っ直ぐ障子の前にやって来た。
「やあ。」
ぶっきらぼうな調子だ。久しぶりの彼の声。体の内側から心臓に叩かれながら目は彼の影を見つめて、その上、頭の中で彼の声がくるくる回り出す。
「まただんまりかい?」
「君がそうしていたいんなら別に僕は全く構わないがね。」
「誰も君など取って食いやしないよ。」

 

ああ、どうしよう。
どうしよう。
それでも、どうしても、どうしても———-
指先が悴んだ。

 

手を伸ばして障子に指をかけた。すっ、と障子が横に滑ると外の光が部屋に射し込んだ。
そこに彼がいた。
真っ黒な眼がこちらを真っ直ぐに覗き込んでいた。
その目に射抜かれたのは私だった。
その瞬間、私は私だった。

 

視界が彼の黒い眼ばっかりになってしまって視線が動かせない。

 

黒い目はわずかに見開かれて、それから顰められこちらを凝視したまま少し近づいた。
黒い。瞳孔の中の艶やかな石のような黒さに目を奪われる。その一点に吸い込まれてしまいそうだ。
「中に入れてもらえるかい?」
鼓膜を震わせるのは彼の声なのだ。この目が発しているのだ。それが分かったから私はぽかんと口を開いたまま頷いた。

 

彼が縁側にあがってくる時も、障子の隙間から体を滑り込ませた時も私は彼の目から視線を逸らすことが出来なかった。卓を挟んで腰を下ろした彼の目を正面から見つめていると、彼は困ったように苦笑した。
「—–君は内気なのか、あけすけなのか分からないな。そろそろその口は閉じた方がいいぜ?」
私の口は先ほどから開けっ放しになっていたのだ。そんな所まで神経が回らなかった。
だって、彼の目はこんなに黒い。障子紙に映ったぼんやりした影なんかよりもずっとはっきりしていて、濡れていて鋭くて美しかった。こんな色がこの世にあることをずっと忘れていた。

 

黒い色だけが眼に焼き付いている。

 

いつ、彼が帰ったのか覚えていない。何を話したのかも分からない。
あんなに欲しかった彼の声が、その瞳の色に圧倒されて耳の中を素通りしてしまった。
本当に眩暈を起こして、畳の上にばたりと倒れてしまった。
なんて鮮やかな——

 

目の前に現れたあまりにもくっきりとした色に魅せられて幾日も呆然と過ごした。
一度座敷に通すと彼は日毎訪れるようになった。彼が居る間、好きなだけその黒い色を見ることができた。彼はよく喋ったが話の内容は覚えていない。自分が美しいものが好きだったことに気がついた。黒という色が好きだ。彼の黒い目が好きだ。

 

好き。

 

こんな浮き立つような心持ちがあったのだった。花が咲くみたいだ。

 

けれど夢中になっていて忘れてしまった。
あの子がどう思っているのか。

 

目の前に彼がいる。
本を読んでいる。
ぱらり、ぱらりと頁を繰る。
その音を聞いていると心が落ち着く。
古びた書物のいい匂いがする。
目と耳と鼻と、それらが徐々に彼という存在に馴染んでいく。
そうだ。
—-かれをへやにまねきいれておちゃをいれてあげよう。そしてどうしていつもにわをはいてゆくのかきこう。それから、それから…………
ずっとそう思っていたんだった。
彼と向かい合っていた卓を離れて後ろの戸棚を振り返った。
お茶の葉はこの中に仕舞われていたはずだ。
でも、中にはあの子がいる。
思案して、そっと彼の方を窺った。
彼は本から目も上げない。
どうしよう。
戸棚を開けるのはすごく久しぶりなのだ。
だけど誰かと向かい合って一緒にお茶を飲むのはもっと久しぶりだ。
温かい湯飲みを手に包んで、湯気の向こうに誰かの姿を見て—-そういうことがしてみたい。ずっとしてみたいと思っていたのかもしれない。分からない。覚えていない。でも今はしてみたいのだ。

 

「あの‥‥‥」
彼はいつも眇めている目を見開いてこちらを見た。眉間の皺が消えている。驚いたらしかった。そういえば彼に向かって声を発したのは初めてだったかもしれない。
「‥‥‥‥ぼ、僕がいいと言うまで、向こうを向いていてく、くれないだろうか‥‥‥」
ああ、この闊舌の悪い安物の笛のようなか細い声は嫌いなんだ。だからあまり喋りたくなかったんだ。恥ずかしい。そんなことも思い出してしまった。ずっと黙っていればそんなことも感じないでいられたのに、でも今自分は喋っている。だって、お茶が飲みたいんだ。それに庭を掃いてゆくわけも教えて欲しい。
顔が勝手に熱くなって俯いた。耳も首も熱い。
「‥‥‥頼むから」
泣き声みたいになってしまった。
「いいよ。」
自分のとは全然違う、低い良く響く声が応えた。そして彼は本を持ったまま後ろを向いた。
「これでいいかい。」

 

うん、と頷いて戸棚の方へ向き直った。
そっと掌を戸棚の引き戸にあててみる。
ごめんよ。すぐに閉めるからね。許してくれよ。
少し緊張した。心臓もどきどきした。でも、心のどこかであの子はきっと許してくれるだろうとも思っていた。泣いても怒ってもあの子は許してくれる。だってあの子は誰よりも自分の気持ちを知っていてくれるから。自分があの子の気持ちを分かるみたいに。
木の体温を確かめるみたいに戸棚の感触を確かめる。
ゆっくりと引き戸を滑らせてゆく。
手が入るくらいの隙間が開いたらすぐに茶筒を取って閉めてしまうつもりだった。けれど、戸棚の中は暗くて、何も見えなくて、空っぽで————

 

あの子がいない。

 

ぞうっとした。
戸棚の中に目を凝らしたけれどそこは暗いばかりの四角い木のうろでしかない。
あの子がいない。
あの子がいない。
ずっと此処にいたのに。
ずっと一緒にいたのに。
誰よりも近くに、いつも、誰よりも近しく、あの子がいたから寂しくなかった。あの人がいなくなっても、誰の声も聞けなくても、誰の姿も見えなくても、あの子だけがいればよかったのだ。望んだりするのじゃなかった。誰かの声を、誰かの言葉を、誰かの姿を、望んだりしたからあの子はいなくなってしまった。何も要らなかったのだ。私たちはいつでも一緒にそうして寄り添ってきたのに、他の誰かに心を動かされたりしたからあの子は私を見捨てていってしまったのだ。あの子はずっと嫌がっていたのに、怒っていたし怯えていた。それを知っていながら私はあの子の嫌がることばかりしてしまった。泣いていたのに。あの子は私を許さなかったのだ。他の人間に心を移した私を許さなかったのだ。

 

「落ち着きたまえ。」
彼の声が言う。
私は声をあげて泣いていた。
どうして私の前に現れたのだ。君なんかに心を惹かれたせいで私はあの子を裏切ってしまったのだ。あの子は私を許さない。いなくなってしまった。
あの子がいない。
あの子がいない。
彼が私の腕を掴むのを振り解いて、でも苦しくて彼の腕に縋り付いて藻掻いた。
「いるよ。ここにいる。」
彼は泣き咽ぶ私の顔を両手で掴み目を合わせて言った。
「あの子はここにいるよ。」
「ここにいるじゃあないか。」

 

「あの子は君だったんだろう。」
私は呆然と彼を見つめた。

 

そうだ。
私はずっと戸棚の中にいたのだ。
だけど私は大きくなってしまって戸棚の中が窮屈で退屈で出てきてしまった。
あの子は、私は、戸棚の中から自分で出てきたのだ。

 

 

 

不意に周囲の音が耳に入ってきた。
壁に凭れて膝を抱えた姿勢のまま周囲を見回す。
部屋の中はざわついて落ち着かなかった。夕飯も風呂もすみ短い自由時間、雑談を交わす者、机に向かって自習をする者、明日の準備をする者、各自がてんでに好きなことをしている。
寮の部屋は一年は大部屋に二十四人が押し込められて、まるで鳩小屋のようだ。食事も風呂も寝る時でさえ大勢の人間に囲まれている。
入学して一週間ほど経ったがいまだに私はこの生活に慣れることができないでいた。
東京の学校に進学したのは私の意志ではない。言いつけられるままにこんな所まで来てしまっていた。元来、赤面症で対面恐怖症の気味のある私にとっては同室の少年達もいまだに不特定多数で、誰が誰やら何が何やら分からない。入学したての一年が一人で寮内をふらつくような度胸もなかったのでいつも私は私に許された畳一畳の上で座ってぼんやりと時を過ごしていた。
またすぅっと周囲の音と色が遠ざかりそうになったので私は軽く頭を振り、就寝の支度を始めた。消灯まではまだ間があるが起きていたって寝ているようなものだ。布団を敷くと早々に潜り込んだ。
「もう寝るのかい?」
誰かの声が降ってきた。
聞き覚えのある声だったが誰のものかは分からなかった。
「おやすみ」
静かな声が言った。ぱらりと本を繰る音が聞こえた。
明日、目が覚めたらその声の主の顔を見ようと思った。

 

 

私は彼と向き合って座卓に座っている。
茶を煎れた湯飲みで掌を温めながら私は彼に尋ねてみた。
「花は咲くと思うかい?」
彼は立ち上がると障子の前までいき、すらりと開いた。
「もう咲いているよ」

 

春の暖かな日差しが開け放たれた障子の間から差し込んでくる。
花の匂いのする風の甘さに誘われて、私は外へ出たくてうずうずしている。

 

 

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