中禅寺秋彦

戸棚の中

背中がざりざりする。擦れて落ちた壁土が足下に積もっていて足の裏もざらざらする。日がな一日ぼんやりとこの部屋で過ごしている。障子越しの光の中の白や黒や灰色や、その中にある白や黒や灰色、その中にある白や黒や灰色、その無限の色調、そんなものを目で…

狼日記

柵で囲われた牧草地のそばに彼は住んでいました。彼は群からはぐれて一匹だけで暮らしています。真っ黒な毛並みのせいか、酷く恐ろしい姿に見えましたが実際には彼は菜食主義者で、そのためにとても痩せていました。いつも気難しい顔をして柵の傍らに寝そべっ…

世界にふたりきり

世界はぼんやりと煙っていた。雪は白いのに、どうして景色は灰色になるのか。ちらちらと睫を掠めて頬にあたり、暖かい息に舞い上がっては溶けてゆく雪片に関口は目を眇めて視界の悪さに窮屈な気持ちで歩いた。次々と舞落ちてくる雪を吸い込まないようにと呼吸…

奈落

暗いというよりは黒い。靴底から地面の冷たさが伝わってくる。その感触と革靴のたてる音から床は硬いコンクリートか石だということが分かる。小さな水の音が途切れ途切れして私はいつ冷たい水滴が首筋に落ちてくるかと首を竦めて歩いている。一切の光の失われ…

けだものの恋

一目で惹かれあったに違いない。群をはぐれた獣が初めて同種族の獣に出会ったように。彼らは発情し肉体を交わした。それは恋とは呼ばないのかもしれない。情愛などなかったはずだ。ただ、二言三言、言葉を交わしただけで情の生まれるはずもない。純粋な生殖行…