奈落

暗いというよりは黒い。靴底から地面の冷たさが伝わってくる。その感触と革靴のたてる音から床は硬いコンクリートか石だということが分かる。小さな水の音が途切れ途切れして私はいつ冷たい水滴が首筋に落ちてくるかと首を竦めて歩いている。
一切の光の失われたような中を歩いてゆくと微かに前方に薄い緑色の光が見えてきた。その光はどうやら段幕の切れ目から漏れてくるらしくちらちらと細くなったり太くなったりしている。近付くとその淡い光で自分の通ってきた道が暗い地下の洞窟だったことが分かった。
段幕の中からはむっとするような人いきれが流れ出してくる。私は段幕を割って中に入り込んだ。人々が下からの緑色の光に照らされて影のように、ゆら、ゆら、と蠢いている。皆、一心に何かを見ているようだ。
私は人垣を縫って隅の方へ滑り込んだ。見回すとそこは剥き出しの岩壁が丸い広間のようになっており、人々の視線の先には一段高くなった半円形の舞台が設えてある。誰も薄暗いせいで顔立ちははっきりしないが一様にぽっかりと暗い穴のような口を開けて感心したり驚いたりしている。言葉にならない密やかな嘆息が熱気に混じって私の体を揺らした。
人々の足下には無造作に緑色の石が転がっていてどうやらその石の発する光がこの広間の光源らしい。私はしゃがみ込んで発光する石に触れてみたが、その石は熱くもなく手触りもただの石と変わらなく、ただぼんやりと緑色に明るいのだった。私は岩壁に凭れて腰を下ろすと、膝を抱えて他の人々と同じように舞台を見上げた。
舞台の上では人のような人でないような奇妙な物がくねくねと動いている。
ひょろりと伸びた首と手足。胴体も長い。全身は肌色だがだらりと前方に伸びた首の先に付いている顔だけ白い。よくよく見るとそれは面のようだ。そういえば足も手も本数が多い。
どうやらそれは自動人形らしい。動作のたびにキシキシと微かに間接の軋む音がする。人形は器用に4本の腕で水を汲んで喉元から飲み下したり、自らの腹に仕込まれたオルガンを鳴らしたりした。間接の数が人より多いせいで人形の動きは辿々しいような、けれど不思議な滑らかさを持って私を魅了した。
人形は笑った顔の面でゆっくりと辞儀をした。人形に向けて私が微笑むと、少しだけ得意になったように胸を反らせた。私は人形が可愛いような気持ちになった。
人形は4本の腕のうちの背中側に付いた腕をすっと上に伸ばし他の三本の腕でその腕の外郭を取り外し中の骨組みを引っぱり出した。手首の位置から開くように細工がしてあるらしく骨組みがすべて引き出されるとそれは鳥の翼のような形状になった。背中に一本だけだから魚の背鰭に近いかもしれない。
しかし骨組みだけの腕は羽根の役目も鰭の役目も果たさない。人形は困惑したように白い小さな頭を傾げて私を見た(ような気がした)。
すると一斉に舞台を見上げていた人々が私の方を振り返った。
無数の視線に晒されて私は凍りついてしまった。
(ここにはだれもいないのだ。)
ひそりとも声を立てない人々の視線が熱を孕んで私に注がれている。
(ここには私以外だれもいないのだ)
張りつめた空気に私の視界が狭まりそうになる頃、ふっと光が消えた。

甲!

高く響いた音に人形の白い顔が崩れ落ちる。
吹き込んだ冷たい風が熱気を吹き払い、人々の姿が消える。
(最初からここにはだれもいなかったのだから)
段幕の向こうから差し込む明るい光が洞窟の岩肌と舞台上の人形を照らし出す。明るい光のもとでは人形は幾つかの骨組みの組合わさった玩具にすぎなかった。私は顔をなくしてしまった人形が可哀想で悲しくなってしまった。
かん、かん、かん、と足音を響かせて彼は座り込む私の後ろに立った。
私は人形の顔が壊れてしまって悲しかった。
背後に立つ男がひどく忌々しく、だのに心の隅に安堵している私がいる。
私は勢いよく立ち上がると男の方は見向きもせず出口へ向かった。
(もっと深くまで潜らなくては。彼が踏み込めぬ程、深くへ潜らなくては)
光へ向かいながら私はその事だけを思い詰めた。
(彼が触れられないくらい深く—-)
「あんまり手こずらせないでくれないか。でないと今度は」
背後から彼が言った。
「君に非道いことをするよ」
私は内心どきりとして身が竦んでしまったのだけれど、気取られぬように歩を進めた。
今度こそはもっと深く、本当に深く潜らなくてはならない。半端に潜っては彼に付け入る隙を与えるだけだ。ずっとずっと、誰にも見つからぬほどに、彼の手の届かぬくらい深くへ潜らなくてはいけない。
彼が私の心の内を見透かしたように低く笑ったので私はひやりとした。
けれど私はあの薄緑色に発光する小石を一つだけズボンの隠しに入れて置いたのだ。これには彼も気付いていないらしい。
だからきっと次こそは—
出口を出て、私は二度ほど妻の名を呼んだ。

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