世界にふたりきり

世界はぼんやりと煙っていた。
雪は白いのに、どうして景色は灰色になるのか。
ちらちらと睫を掠めて頬にあたり、暖かい息に舞い上がっては溶けてゆく雪片に関口は目を眇めて視界の悪さに窮屈な気持ちで歩いた。
次々と舞落ちてくる雪を吸い込まないようにと呼吸も小刻みになり息苦しかった。
前を歩く濃い色の和服を纏った背中は足早で、関口は息が切れてくる。
足元がキュッと音を立てて、あ、と思ったときには世界は回転していた。
わあ、だか、ひゃあ、だか、榎木津が喜びそうな声を上げて関口は雪の上にひっくりかえった。
背中が振り返る。
「大丈夫かい?」
数歩を戻って京極堂は地面に仰向けになった関口を見下ろした。
「滑るから気をつけろと言ったじゃないか。相変わらず注意散漫な男だよ」
関口はそんな小言も聞いてはいなかった。
眇めっぱなしだった目を見開いて、一つの雪片がそのまま目蓋に触れずに入ってしまいそうなくらいに大きな目だ、京極堂の肩越しに天を見つめていた。
「吸い込まれていくみたいだ」
聞き取りにくいくぐもった声が灰色の世界に囁いた。
「体が浮き上がってゆくみたいだよ」
雪雲に覆われた空は暗いはずなのに、不自然に明るい。雪の結晶が光を乱反射して、世界がおわる前兆のようだ。後から後から落ちてくる雪が停止しているように見えて、それが浮遊感を生む。視界にあるのはただ白く煙った天ばかり。傍らには、
「君も一緒に浮いてゆくよ」
関口は視界の端に映った京極堂に笑いかけた。
京極堂はそんな関口に少しだけ胸を疼かせる。見開かれた瞼の中のつるりと滑らかな感覚器には鈍く薄い夢のような膜がかかっている。その眼がたまらなく好きなのだ。同時に微かな憎しみを抱かせる遠い視線。
「眼の錯覚だろう」
そっけなく言った。
「停車中の電車の中にいる時に隣の電車が動くと、まるで自分の乗っている車両の方が動きだしたように感じるのと同じだよ」
分かってるよ、不貞腐れた声が返ってくる。
視線を向けられて初めて京極堂は仏頂面を緩める。
「ほら、起きたまえ。君は何処でも寝る奴だとは思っていたが、雪の日の道端で寝るほど酔狂だとは思わなかったよ」
「君は風流を知らないんだ」
「風流?これは驚いたね。作家先生の言うことはやっぱり違うようだ。しかし君みたいな不健康そうな男が道端に寝ていたら風流どころか行き倒れにしか見えないよ。警察に通報される前に起きあがったらどうだい?」
そこまですらすらと嫌味がよく出てくるものだと思う。そう言われると意地でも立ち上がりたくはなくなる。むくれて、また上を見た。
ちらちら、ちらちら、舞い落ちてくる白い羽のような冷たいかけら。
浮遊感。
ああ。
「関口君」
一瞬で自分から意識を逸らした関口に京極堂は呼びかける。
いつもは良く響く彼の声が、今は世界を覆った雪に吸収されて十分には空気を震わせることが出来なかった。
自分の声で誰かが間近で囁いたように聞こえた。変にリアルな、無力感。
二人の間を雪が阻んでいる。
「いい加減に立ちたまえ。こんな寒い中にいるのは僕はごめんだよ」
きし、と足下で雪が鳴く。
「行くよ」
そう言って京極堂は関口に背を向けて歩き出した。
きし、きし、きし、と雪を鳴かせて遠ざかる足音。関口は耳を澄まして目を閉じた。
このまま、雪に埋もれて、春になるまで——
そうしたら——-
そうしたら——-
「京極堂!」
関口は体に降りかかった雪をはねのけて起きあがった。
視界が悪い、雪の向こう側に白く霞んだ背中が振り返る。
「帰るよ」
うん、素直に頷いて関口は京極堂に駆け寄った。雪に足を取られてなかなかうまくは走れなかった。

 

「子供の頃は雪が降ると、よくああやって寝転がってずっと空を見上げていたよ」
京極堂の隣に並んで白い息を吐いて関口は言った。
「体が浮いてゆくような気がして気持ちがいいんだ。世界には自分しか存在しないような気がした。そのまま、雪に埋もれて眠ってしまったらどんなに幸せだろうと思った」
そう思ったのに、
「どうして僕はいつも、起きあがって、家に帰っていったんだろう」
ふと、また遠くを見るような目をして関口は呟いた。
「大方、腰が冷えて小便でもしたくなったんだろう」
意地悪く言った京極堂に、関口は絶句して、ひどいな、と憤慨した。頬が寒さで真っ赤になっていて子供のようだ。京極堂は笑った。
暫く、黙って歩いた。
「君は、しなかったかい?雪の日に寝ころんで空を見てると、体が浮かんでいくような気持ちになったろう?」
「しないよ」
「小さい頃は青森にいたって言ってたじゃないか。雪がたくさん降ったんだろう?」
京極堂は少し意外そうに片眉を上げて見せた。
「そんな事、話したかい?」
「え、いや——」
聞いたような気がするけど、他の話だったかもしれない。本当かどうかも知らない。いつもながらの胡乱な記憶だった。
「でも、しただろう?雪の上に寝ころんで」
「目の錯覚を楽しんだかってことかい?」
うう、と関口は言葉を濁した。そういうことだけれど、そういうことではない。
「しないよ」
「したさ」
「ムキになるね」
「君こそ」
また黙って歩いた。
「誰でも、そりゃあ今みたいに大人になってからはしないだろうけど、子供の頃はみんなするさ。榎さんも旦那も、敦っちゃんだって、雪の日は空を見上げて体が浮いてゆくような気持ちになるんだ。もし、君が一度もしたことがないのなら」

「君は世界でたった一人きりの可哀想な子供だよ」

静かな世界に、関口の声ははっきりと響いた。
この雪の中で、彼の声は力を失い、関口の声はいつもよりもよく響く。
彼の肩が僅かに強張ったのを敏感に感じ取って関口は緊張した。
口を噤んで、数歩。
ごめんよ、そう言おうかどうしようかと迷っているうちに、京極堂が大袈裟な溜息を吐いた。
「まったく、君は。なんでも自分を中心にしてしか考えることが出来ないんだからな」
世界にたった一人か、微かに京極堂は笑った。自嘲に見えた。
「世界で雪の降る地域はどのくらいあると思ってるんだい?日本国内だって、雪の降らない場所はあるんだよ」
それから、南国の蝶の話を少しした。関口が南方で見た蝶の名前を京極堂は教えてくれた。
京極堂が本当に青森にいたのか訊きたかったのだけれど、訊き損ねてしまった。
京極堂は雪の日が嫌いなのかもしれないな、と思った。以前、誰かが雪の日は寂しくなるから嫌いなのだと言っていた。女だったような気がするが、関口と面識のある女性は数えるほどしかいない。誰だったのだろう。
灰色にくすんだ風景が延々と続いている。歩いても歩いても、足下はふかりとした雪ばかりなのだ。こんな日に外に出る人もいないのだろう。先刻から誰ともすれ違っていない。
「世界に僕たちしかいないみたいだな」
関口の言葉に京極堂が振り返る。小さく笑った。
「そうだよ」
「え?」
「これは僕の夢だからね」
え?
関口は思わず立ち止まって京極堂を見た。
「な、何を…ま、また、人を……」
どもってしまってうまく言葉が出てこなかった。
「……またお得意の脳の認識がどうとかいう、話かい?」
「そう言うことも出来るな」
「だったら……だったらこれは君の夢じゃなくて僕の夢だとも言えるんだぜ」
「これは、僕の夢なんだよ」
「なんで、そんな事が分かるんだ」
「僕は青森の話なんて、君にしたことはないからね。それを知っているのは君が僕の作り出した君だからだ」
そんな、そんなこと…、関口は必死で頭を巡らした。いつ自分はその話を聞いたのだろう。学生時代だったか、戦争から帰ってきてからだったか、胡乱な記憶をかき回してみたが思い出せるのはいつも通りの京極堂の仏頂面ばかりだった。
「それにね、」
いつもより静かな京極堂の声が言った。
「今が僕の望み通りだからだよ」
「君の望み……?」
目の前に立つ男を関口は当惑して見つめた。
本当に自分は現実ではなくて、彼が作り出したものなのだろうか?自分が生まれたのは彼が眠りについた、数時間か数分前のことで、今自分が持っている記憶は自分自身のものではなく彼が自分の中に付加したものに過ぎないのか。ならば彼に見せたいと思ったあの美しい蝶を彼は見たのか。一体いつから自分たちはこの雪の中を歩いているのか。いつから彼はこの雪の中を空を見上げもせずに歩いているのか。この白いだけの世界を一人きりで歩いているのか——

ふと、関口はある事を感じて我に返った。
「嘘だ。これは現実だよ」
京極堂を睨みつけて言った。
「おや、どうしてだい?」
意地悪く笑いながら京極堂が訊いてくる。いつもの、関口をからかうときの表情を見て関口はほっとする。
「うん。小便がしたくなった」
今度は京極堂がぽかんとする番だった。
「まったく風流なことだよ、関口せんせい」
「肉体的経験の重視が君の持論なんだろう?」
呆れたような京極堂の言葉に関口は笑った。
「早く帰ろう」

じき、だらだら坂も果てる頃だった。

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