狼日記

柵で囲われた牧草地のそばに彼は住んでいました。
彼は群からはぐれて一匹だけで暮らしています。真っ黒な毛並みのせいか、酷く恐ろしい姿に見えましたが実際には彼は菜食主義者で、そのためにとても痩せていました。いつも気難しい顔をして柵の傍らに寝そべっています。
柵の中には羊の群が暮らしています。羊たちは震えるような声で鳴き交わしながら、草を食んで季節とともにゆっくりと柵の中を移動してゆきます。遠くに眺めるその白い一群は彼を穏やかな気持ちにするのです。
今日も小高い丘の上の柵の傍らから羊の群を眺めていると、白い群から小さな灰色の一点が現れました。やがてその灰色の塊はよたよたと近づき、痩せた小柄な羊の姿になりました。
「や、やあ」
灰色の羊は聞き取りにくい声で挨拶しました。
「やあ」
彼も寝そべったまま挨拶を返します。
灰色の羊は疲れ切った顔をして彼の隣に四肢を折って蹲りました。
「また、あたったのかい?」
うう、と灰色の羊はくぐもった声をあげました。
この羊は他の真っ白な羊たちとは違う、灰色にくすんだ色の毛をしています。毛並みも他の羊のようにふわふわとした巻き毛ではなく、中途半端に癖がついていてなんだかみすぼらしいのです。両親とも白い毛並みの羊だったのですが、突然変異でこのように生まれてしまったようなのです。この羊には柵の中に生えている草は体に合わないようで、いつも腹をこわしています。だからもう大人だというのに他の同い年の雄羊よりも体が小さいのです。そして腹をこわすたびに彼の元へやって来るのです。
「ほら」
彼は緩くなっている柵の下を足で掻いて羊一匹が通れるくらいの隙間を作ってやりました。
「すまない」
灰色の羊は隙間に体を入れて柵の外に出ます。柵の外には彼の食べられる草も生えているのですが、羊の習性で彼は自分で柵の外に出ることが出来ないのです。こんな柵がなければ、と思うものの柵がなければ羊はすぐに他の獣たちの餌食になってしまうのです。
「習性なんて結局は思い込みなのだから、君も自分で柵を越えられるようになる努力をしたまえよ」
彼に諭されても灰色の羊は首を横に振るばかりです。
「む、無理だよ。僕は羊だもの。君や、あの綺麗な馬のようにはなれないよ」
灰色の羊が時折、軽々と柵を踊り越えてゆく美しい馬たちに見とれているのを彼は知っています。ならばいちいち群の中へ帰ってゆかずに、この柵のそばで暮らして外の草だけを食べていればいいのだと彼は思います。
けれど、外の草を食べ終わり群へと帰ってゆく灰色の羊の嬉しそうな後ろ姿を見ると彼はそれを云う気をなくしてしまいます。

 

夜になると遠い森から自分の仲間たちの遠吠えの声が聞こえてきます。その長く尾を引く哀切な声に彼の心は掻き乱されます。まるで自分を呼んでいるような、こちらへおいでと誘っているようなその声を聞くと彼はその声に応えたいという欲求に苛まれるのです。
ああ、僕は此処にいる。此処にいるんだ。そう、叫びだしたくなるのです。
けれども彼は口を噤み、目を閉じてその声をやり過ごします。自分の声が柵の中の羊たちを怯えさせるのが分かっているからです。それに彼は自分で決めて群を離れたのです。もう森には戻るつもりはありません。
夜毎の仲間たちの声はまるで彼の本能を試しているかのように彼には思えるのです。

 

ある日、いつものように灰色の羊が彼の元を訪れました。
しかし、なんだか様子が変でした。
もともと灰色の羊はぼんやりとした胡乱な目をしているのですが、今日の彼は尋常ではありません。目に外界の何物も映してはいないようなのです。のろのろと彼の隣までやって来て、そのまま立ちつくしています。ひどく怯えているようです。
「ぼ、僕は」
灰色の羊は聞き取りにくい声で呟きました。彼に対して言っているのか独り言なのかも分からないような調子です。
「羊が…」
切れ切れの単語に彼は注意深く耳を傾けました。
「見たんだ。羊が—–」
「どうしたんだい?」
「黒い羊が仲間の羊を食べていた。」
そういうと灰色の羊は堰を切ったように話し出しました。
「羊が羊を食べていたんだよ。真っ黒な羊が—-美味そうに—-時々いるんだ。突然変異で真っ黒に生まれる羊が。ぼ、僕みたいに、みんなと違う毛並みで……でも、羊の肉を食べるなんて」
「君、落ち着いて…」
「僕は肉なんか食べない。僕の毛並みは灰色だけど、—-か、彼は、本当に美味しそうに羊の肉を食べてた。草を食べられないのなら、肉を食うしかないじゃないか、って。」
灰色の羊の興奮した顔を見て彼は眉を寄せました。
「ぼ、僕はっ——それを見て、僕は、その肉は本当に美味しいんだと—-思った—-」
灰色の羊は呻いて地に突っ伏しました。ガタガタと全身を震わせて小さく小さく、まるでこの世から消え去ってしまおうとするように体を縮こまらせています。
彼は痛ましそうに灰色の羊を見つめていましたが、立ち上がると柵の緩くなった部分に頭を押しつけてグイ、と押しました。そうして柵を開くと灰色の羊の傍らへいって、その背中を促すように鼻先でつつきました。
「おいで」
彼は先に立って柵の外へ出ました。灰色の羊はそんな彼をぼんやりと眺めていましたが、彼がさっさと歩き出したので慌てて立ち上がり、後を追いました。
「何処へ行くんだい?」
灰色の羊は柵を出てもせいぜい数メートルの範囲にしか行ったことはありませんでした。ところが彼はどんどんと柵から遠ざかっていきます。
「ねえ、待ってくれよ」
臆病な灰色の羊は柵から離れるのも、彼が遠ざかってゆくのも恐ろしくて暫くウロウロとしましたが結局彼の後を追いました。
彼は灰色の羊を広い牧草地の端の森に近い雑草の生い茂った場所まで連れてゆきました。
「ほら、此処には君の食べられる草がたくさん生えている」
灰色の羊はきょろきょろと周りを見回しました。沢山の種類の草が生えています。色んな花が咲いています。
「これがこの土地の本来の姿なんだよ。君のいる柵の中は、羊にとって食べやすい草だけを選んで意図的に育てている場所なんだ。君の先祖だって元はこういった雑草を食べていたんだ。だから、当然羊の中には柵の中の牧草が体に合わないのだっているのさ。君も黒い羊も突然変異というよりも先祖帰りと言った方が正しいだろうね」
「先祖帰り?」
「そうだ。君たちはそうあるべくして、そう生まれたのさ。柵さえなければ自由に体に合った草が食べられたんだ。だけど、羊には柵の外は危険だらけだから柵は必要だ。限られた広さで、より多くの羊が生きていくためには食べられない草は省いて、より食べやすい草だけを育てる必要がある。だから君のような体質の羊には食べられる草が少ない住み難い場所になってしまった」
「あの黒い羊も……食べられる草があれば羊の肉は食べなかった…?」
「だろうね。もともと羊の体は肉を食うようには出来ていないんだ」
灰色の羊はほっとした顔をして雑草の茂みの中をサクサクと歩き回りました。そして何事か思い立ったように彼を振り返りました。
「ねえ、今度あの黒い羊も此処へ連れてきてもいいかい?」
灰色の羊の言葉に彼は眉間のしわを深くします。灰色の羊は彼の表情に少々怯えましたが懸命に言葉を続けました。
「あ、あの羊も柵の外の草を食べる事が出来れば仲間を食べたりしなくていいんだろう?だ、だから…彼のために柵を開けて欲しいんだ」
彼は小さくかぶりを振りました。
「だめだよ。その黒い羊はもう…」
「どうして?」
「一度仲間を殺してしまったんだ。仲間の制裁を受けなければならないだろう。それに、柵の外へ出たら、彼はもう帰ってこない。」
どうして?また灰色の羊は訪ねました。自分のように柵の外で草を食べて、また柵の中へ戻ればいいと思っているのです。
彼も出来るならばそれが一番良いと思います。けれど彼は知っています。柵の中の草が体に合わない羊は一度柵の外へ出てしまうと柵の中へ戻ってこなくなる確率の方が高いのです。そして、柵の外で羊が生き延びられる確率はとても低い。
それに、羊の肉の味を知った黒い羊はこの灰色の羊にとってとても危険な存在です。黒い羊は灰色の羊を食べようとするか、もしくは一緒に肉を食べるように誘いかけるのではないでしょうか。その誘惑を突っぱねられるほど灰色の羊はしっかりしていません。自分が羊ではないのじゃないかといつも悩んでいるくらいなのです。
出来れば関わりを持って欲しくない、そう彼は思います。そして灰色の羊にそう言いました。柵の中へと帰る道々言い聞かせましたが、果たして灰色の羊が納得したかは分かりません。
いいえ、多分…
彼は柵の傍らに腰を下ろしながら、憂鬱な気持ちで灰色の羊の後ろ姿を見送ったのでした。

 

その後の数日、彼は煩悶して過ごしました。
彼には灰色の羊に言わいでおいたことが一つありました。
羊の肉はとても美味い。
仲間の羊ならなおさら—–
その事を彼は、昔、森で仲間たちと暮らしていた頃に教えられたのです。
群のボスは大きな黒い狼でした。ひどく残忍な狼で食べる必要がなくても獲物をいたぶるのが好きでした。
そいつは羊を数頭、穴蔵に追い込み一頭ずつ他の羊の見ている前で殺して食べる遊びがお気に入りでした。羊はもともと臆病で恐怖や痛みに対する耐性が低いのです。そのうち羊たちは正気を失って、そいつの命じるままに自らの肉を噛み切って差し出すようになります。その肉をそいつは他の羊に食べさせるのです。狂った羊はとても美味そうに仲間の肉を貪ります。
一頭の羊が恍惚とした表情で、仲間に自分の肉を食わせているのを彼は見たことがあります。自分の体を貪り食われる痛みすら快楽としているようでした。そうして羊たちはお互いを食い合い、最後の一頭は自らの体を貪りながら果てたのです。
彼はその光景にぞっと背筋が凍り付くような気持ちがしました。
「羊の肉なんて、本当はそうたいして美味いものではないのだがね」
彼の横でそいつは冷ややかに笑って言いました。
「他の獣の肉と変わらない、ただの肉だ。だが、精神の弱い羊たちは共食いするという禁忌を犯す恐怖に耐えられないのだ。麻痺した脳が、ことさらに仲間の肉を美味く感じさせるらしい」
仲間の肉を食べるということを禁忌と感じる気持ちが強ければ強いほど、その肉は羊たちにとってこの上なく美味なものとなるのだ、そうそいつは言いました。
「我々には決して味わうことの出来ないご馳走というわけだ」
彼はそれ以来、肉が食べられなくなりました。
そいつの群にいることも我慢できなくなり、森を出て羊たちの柵のそばで草を食べて暮らすようになりました。いつの間にか彼は羊という生き物に、得体の知れない、奇妙な愛着を感じるようになっていたのです。

 

あの日以来、灰色の羊は姿を現さなくなりました。今までにもそんなことは度々あったのですが、この間話した黒い羊の話も気になって、彼は一日中羊の群の方ばかり見ているようになりました。
どうして僕が、あんな胡乱で薄情な羊の心配をしなくてはならないんだ。そう、思いながら羊の群から目を離すことが出来ないのです。
彼の目が羊の群から離れて歩いてくる誰かの姿を捉えました。
彼は目を凝らして、歩いてくる誰かをじっと見つめました。
灰色の羊ではないようです。ピンク色です。
—-ピンクの羊?
彼は首を傾げました。それこそ突然変異の羊ではないでしょうか。
けれど、その誰かが近づいてくるにしたがい、それがそんなファンシーな代物ではないことが彼には分かりました。
風に乗って流れてくる生臭い匂い。
彼のよく知っている匂いです。
すぐそばまで近づいたそれは、赤い血にしとどに濡れた白い雌の狼でした。
彼は寝そべったまま警戒するように低く唸って、彼女を睨み付けました。
「何もしないわ。そこを通して欲しいの」
彼女は言いました。
「君はどこから羊の群に紛れたんだ?」
「知らないわ。生まれたときからあそこにいたのだもの。ほら、私の毛並みは真っ白でしょう。今は血に濡れているけれど、羊みたいに真っ白だわ」
「だけど君には爪も牙もある。」
「きっと私は母さんが森の獣に犯されて生まれたのだわ」
悲しそうに俯いて白い狼は言いました。
「だからあそこに私の居場所はないのよ。通してちょうだい。森へ帰るの」
彼は彼女の血に濡れた体を探るように見つめました。羊の血に間違いはありません。
「森には危険な獣がたくさんいる。羊の中で育った君なんか、すぐに殺されてしまうよ」
「だから母さんと妹たちを食べたの。強くなるために」
彼は顔を顰めました。
「美味しかったかい?」
「味なんか分からないわ。泣きながら食べたのよ」
では、やっぱり彼女は狼なのだ、そう彼は思いました。
彼は緩んだ柵を勝手に通ればいいと示しました。
白い狼は、数歩柵の方へと近づいてから、思い出したように彼を振り返って言いました。
「私、羊にも友達がいたのよ」
怪訝そうな彼に向かって彼女は続けました。
「黒い毛並みの綺麗な羊だったわ。この間会ったときに、嬉しそうに話してくれた。自分にもやっと仲間が見つかったみたいだって。灰色の毛並みの、優しそうな羊を見つけたんですって」
彼ははっと、彼女の顔を見上げました。
「仲間になれそうだったのに、あなたが邪魔したんでしょう?」
「なんの話だい?」
「あなたが草を食べるように、肉を食べる羊だっているんだわ」
「彼は違う。黒い羊の仲間じゃない」
「黒くなるわ。羊はそういう生き物なのよ。彼みたいな灰色なら、あっという間に黒くなるわ」
「君は…」
「妹で試したもの。最初は真っ白な、そりゃあ可愛らしい子羊だったわ。でもね、簡単よ。『あら、最近毛の色がくすんできたわね』『なんだか毛が黒くなってきていない?』『本当は黒い羊の子供だったのかもしれないわね』、そう毎日のように言っていたら本当に黒い羊になっちゃった」
羊なんていい加減な生き物だわ。そう彼女は呟いて、柵を潜り抜けると森へ向かって歩き出しました。
「黒い羊はどうなったんだい?」
彼の問いに白い狼は振りもせずに応えました。
「死んだわ。仲間たちの制裁を受けて。羊は弱いから…」
彼方の森へ、彼女の姿が消えるまで彼は赤く染まった毛並みを見つめていました。
そして目を閉じて、明日こそは灰色の羊が訪れてくれることを願ったのです。

 

灰色の羊は姿を現しません。
もう幾日が過ぎたでしょう。彼は柵の周囲をウロウロと歩き回っては羊たちの群を眺めて暮らしました。
灰色の羊と黒い羊の間に何があったのでしょう?こんな風に長い間外の草を食べなくてもあの羊は平気なのでしょうか?もしかしたら、灰色の羊は黒い羊のように仲間の肉を食べるようになってしまったのかもしれません。
—-僕がいくらでも美味しい草を食べさせてあげるのに。
それとも羊はやはり同じ羊と一緒にいる方がいいのでしょうか?
彼はふと、灰色の羊は外の草を食べる必要がなくても自分の所へ訪ねてきてくれるのだろうかと考えました。
彼と一緒にいれば灰色の羊は自分に合った草をいつでも十分に食べられるのです。なのに灰色の羊は必ず仲間の群に帰っていきます。
羊は群から離れる孤独に耐えられないのです。自分から望んで群から離れた彼にはその気持ちが分かりません。
羊たちが味わう心が壊れるほどの痛みや悲しみを彼は知りません。
だからこそ、羊という生き物に惹かれたのかもしれません。
弱く優しい生き物。
その中でも一際弱く頼りない灰色の羊のために自分がこんなにも苦しんでいるなんて。彼はその滑稽さに自らを笑いました。
今日もまた日が暮れていきます。
森から仲間たちの遠吠えが聞こえてきても、彼はもう何も感じません。ただ、明日は灰色の羊がやって来るだろうかと、それだけが心配で眠れないのです。
それは彼が初めて知った、孤独というものでした。

 

「やあ」
顔を上げると灰色の羊が立っていました。
彼はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向きました。灰色の羊は困惑して突っ立っています。彼の眉間に刻まれた皺の深さに、そうとう機嫌が悪そうだとは分かるのですが、どうしてなのかは灰色の羊には分からないのです。
「随分久しぶりじゃないか」
彼はつっけんどんに言いました。
「う、うん」
「柵の中の草が食べられるようになったのかい?だったらもう、ここへ来る必要はないのだろう」
「いや、そういう訳じゃないんだ。やっぱり腹をこわしてばかりだよ」
灰色の羊の言葉にようやく彼は顔を上げました。どうせこの羊から自分の望んでいる言葉など聞けるはずはないのです。
見ると灰色の羊は以前よりもやつれているようでした。表情もなんだかしょんぼりとして冴えません。
「腹が減っているのかい?」
「うん」
彼はいつものように柵を押し開けて灰色の羊を外に出してやりました。
灰色の羊はおぼつかない足取りで柵を出て、草を食みはじめました。
その姿を見て、ふと彼の頭にある考えが浮かびました。
—-このまま柵を閉じて群へ帰れなくしてしまったら彼はどうするだろう?
柵の外は危険だらけです。きっと羊は外での生活の緊張に耐えられないでしょう。森の穴蔵に追い込まれたあの羊たちのように。
—-我々には決して味わうことの出来ない……
彼の心臓が一つ大きく跳ねました。
—-それに対する禁忌の意識が強ければ強いほど……
彼には羊を食べてはいけないという禁忌はありません。けれど、その羊が彼にとって決して傷つけられない、大切な羊だったらどうでしょう。その羊が大切であればあるほど、その肉は美味しいに違いありません。
そして羊の中でも特に苦痛や恐怖に弱い灰色の羊はすぐに心を麻痺させて、彼に自分の肉を差し出すのではないでしょうか。これ以上の快楽はないというように。
彼は自分の心臓が煩いほどにドキドキと高鳴るのを感じました。
けれど、彼は思い直します。
灰色の羊を食べてしまった後、彼はどうすればいいのでしょう。
森へは帰りたくありません。
けれど羊の群の近くにいるわけにもいかなくなるでしょう。
—-そうだ。
あの最後に残った羊のように、彼は彼自身をも貪って果てればいいのです。灰色の羊を食べた自分の体を食べて、それで終わりにすればいい。そうすれば彼も少しは羊に近づけるような気がしました。
彼は足音を忍ばせて灰色の羊に近づきました。そして背後からそっと灰色の羊の喉元へ牙をあてました。
「え…?」
「——っっ!?」
鈍い音がしました。彼は吹っ飛んで地面の上に転がりました。
「だ、大丈夫かい!?」
慌てて羊が駆け寄ります。彼は鼻面を押さえてくぐもった唸り声をあげました。
振り向きざまに灰色の羊の角が彼の顔を直撃したのです。
目の前に火花が散るような衝撃でした。
羊には爪も牙もない代わりに堅い角が合ったのです。
灰色の羊はおろおろと彼を覗き込んで、大丈夫かい?大丈夫かい?とそればっかりを繰り返しました。
「いいよ、もう。君はさっさと群に帰りたまえ」
彼は鼻面を押さえたまま言いました。
「でも……」
「いいから、帰るんだ」
彼の突き放すような声に怯えて灰色の羊は後ずさりました。
「ごめんよ、ごめんよ。わざとじゃなかったんだ」
そういいながら灰色の羊は柵の中へ、群の方へと歩き去りました。
彼は痛みにまだクラクラしながら情けなさに歯噛みしました。
確かにわざとではなかったでしょう。けれど振り向いただけであんな強烈な突きが出るわけありません。無意識のうちに羊の本能が危険を察知したのです。そして咄嗟に彼を角で突き飛ばしたのでしょう。
どんなに大切に思っても灰色の羊にとって彼は仲間ではないのです。
—-ああ、まったく。
まったくなんて厄介な生き物なのでしょう、羊というのは。ズキズキする鼻を押さえて彼は心底から思いました。
—-もう、あんな生き物に関わるのはごめんだ。弱くて頼りなくて、一人で生きてゆくことも出来ないくせに警戒心が強くて薄情だ。どうして僕があんな生き物に振り回されなくてはいけないんだ。もう金輪際、あんな生き物に関わるものか。
彼は心の中で堅く堅く誓いました。
それでも明日になれば、灰色の羊の訪れを心待ちにしているだろう自分が簡単に予想できてしまうのです。
彼はうんざりと呟きました。
「僕は業が深い…」
黒い痩せた狼は柵に凭れて寝そべると、切ない溜息を一つ吐き出したのでした。

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